〈社会システム〉として言語教育を観察していく| 序:なぜ言語教育に社会システム理論が必要なのか —いまニクラス・ルーマンの一般理論に立ち返る— |新井克之

はじめまして。この場をお借りして、これから書きすすめながら読者のみなさんと考えていこうとしている試みは、言語教育が人や社会に与えていくものごとについてである。そのため、本シリーズでは、ニクラス・ルーマン(以下、ルーマン)の社会システム理論を、よりどころとすることにした。まずは、その着想にいたった背景について、少しだけ述べておきたい。

わたしは、これまでに国内外において日本語を教える仕事をしてきた。さまざまな状況下において学習者と接してきて、あるときは、卒業、進学、就職といった彼らの成長の節目を見とどけ、また、あるときは、自分自身にも次第に「何か」が移りかわっていくこと感じた。そうした際、いつも、わたしの胸の内にうまれたのは、この活動が学習者にとってどんな意義や意味があることがあるのだろう、という「ある種の思い」だ。同じように世界中の教育者と学習者が努力を惜しまず学び合う言語教育の現場には、わたしたちが日々生活する社会にとって、いったいどのような変化がありどのような意味があるのだろうか。いざそういったものごとを考えてみようとした場合、言語教育分野に関連する研究だけでは物足らず、学術領域を横断する必然があり、たとえば社会科学分野の俯瞰的な視点が有効になるのではないだろうかという思いにいたった。そうして、いつしか、たどりついたのがルーマンなのである。

というわけで、わたしたちが暮らすいわゆる〈社会〉を、そして〈社会〉としての言語教育の現場を、ルーマン特有の「システム」という概念でとらえ直し、理論化していった諸理論に着目し、また、それをよりどころとしながら、考えていくことを始めていきたい。まずは、その理由について述べていく。

はたして、ことばを覚えるとはいったいどういうことだろうか。赤ん坊は、この世に生まれた途端に泣き、それから、ほほえみ、やがて喃語を発し、ついに、ことばを話しはじめる。人は身体が成長するのと同じように、いたって自然にことばを習得し、話しあう。人と人とは自然に話しあうことで、常に変化している。また、話しあうことで、つねに各々の〈こころ〉も移ろいゆくだろう。また、この〈こころ〉や考え方が変われば、人々の行為も変化していくであろう。これらの行為にともなって、行為の帰結が生まれ、その帰結からまた行為が生まれる。こうして、行為が連なる。コミュニケーションが連なる。人と人はコミュニケートしつづける。コミュニケーションが連なり、つねに変化しながら生み出されてきたのがいわゆる〈社会〉だ。こうして、〈社会〉は存続してきた。こうして、〈社会〉は存続していくだろう。

存続していく〈社会〉のなかで、わたしたちは、人為的に、ことばを学んだり教えたりもしてきた。いつもの生活で使うのとは違うことばたち、英語、フランス語、中国語、スワヒリ語 etc… それぞれ背景がことなる言語を学んでいる。なぜか? それは人とはコミュニケートし、〈社会〉とはコミュニケーションによって成り立つからだ。これまで、わたしたちはことばを駆使して、コミュニケートしてきた。現代社会においては、グローバリゼーションが加速しコミュニケーションも多様化しつつ、ヒト・モノ・カネが世界規模で往来している。さらに2019年に端を発するCo-vid19によるパンデミックがきっかけとなって、インターネットを用いたコミュニケーションが加速度的に展開し、世界中の人々は、家にいながら、さまざまな様態を呈して、つながりつづけている。こうして、わたしたちは、コミュニケートしつづけている。これからもコミュニケートしていくだろう。

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以上に述べたような〈ことば〉〈人〉〈社会〉を中心にとしたキーワードにまつわる素朴な思いや直感、印象などを、本シリーズは出発点としている。本シリーズの目指す到達点とは、1)コミュニケーションによってこそ〈社会〉は成立する、と捉えるルーマンの一般理論[1]を概観し、2)ルーマンの一般理論を現代社会におけるコミュニケーションの中枢をになう言語教育の実態に照らしあわせながら、俯瞰的に観察し考察することにある。では、なぜその必要があるのか。また、なぜそこで、いまルーマンの学問的功績が必要となってくるのか。序論となる今回は、その理由について、足早にルーマンの述べた概念と照らしつつ、述べていきたい。

そもそも〈社会〉とはどのように捉えるべきか。むろん、社会=「人々の集まり」と自明視して、片付けてしまうのは簡単すぎる。また、社会的行為者の相互作用によって成り立つものこそが〈社会〉だと、ひとくくりに括ってしまうことをルーマンは、良しとはしていない。ルーマンによれば、〈社会〉を「システム」という概念を根幹に据えて、「社会システム」として捉える。ルーマンの理論に依拠しながら言語と社会の関係性についての解読を試みていくために、本シリーズでは、これから言及することになる言語教育とかかわる核となるテーマを大きく以下のように分類する。すなわち1)システム 2)変容 3)コミュニケーション 4)社会である。

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それでは、各々のテーマについて簡単に触れていく。

1)システム

ルーマンの理論は、複雑極まりない現実の環境に対して、いわゆる人も社会も「システム」によって構成されていることを前提としている。システムと言っても、従来のわたしたちが想像するようなコンピューターによるネットワークシステムといったようなシステムとは趣が異なっている。ルーマンがテーマとするのは、そのようなinput/outputを基本とした「機械的な」システムというよりはむしろ、「生命」を不可欠要素とする種々の「生命システム」や、「意識」を不可欠要素とする「心理システム」、そしてコミュニケーションを不可欠要素とする「社会システム」となる。こうした各々のシステムが複合的に機能しながら維持存続している状態がいわゆる〈社会〉である。また、それらのシステムは「差異」にもとづいて分化している。よって、たとえば生命システムのサブシステムとしては、神経システムや網膜システムなどが存在する。そして、それら各システムは独立して存在し、それぞれが「閉鎖的に」機能し構成される。これら様々なサブシステムも多種多様である。ここで前提となるのは、この「システムの複合体」といえる人や社会には、いわゆるわたしたちが考える「個」としてのアイデンティティや主体概念というものは存在していないといえることである。

本シリーズではまず手始めに、わたしたちがこれまで拘泥してきたともいえる「主体」概念や「心」についてルーマンのシステム理論に依拠しながら解体し、再構築を試みたい。

2)変容-「学習者主体」とは何か-

また、これら人や社会を司るシステムは自己準拠的にかつ恒常的に〈変容〉し続けている。この自己準拠的に閉鎖的に変容するといった概念は、フンボルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラからのオートポイエーシス概念[2]をルーマンは援用している。ということは、ルネ・デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」という主体認識[3]や、人間外部を認識することによって初めて主体が確立されるとイマヌエル・カントの主体認識[4]をも恒常的に変容し続ける人や社会の実相についてとらえることは出来ていないといえる。

そこで、本シリーズでは、システムをかたちづくる自己準拠的に変容しつづけると捉えるオートポイエーシス概念に依拠しながら、言語を学習するときの変容について再確認していく。

3)コミュニケーション-「相互理解」とは何か ―

たとえば、日本語学習教室にともなうコミュニケーションを考える。ある教師がある日本語教育機関で、日本語を教える際に、教科書を使用して、学習内容を学習者に「入れる」。既習文型が入っている学習者に、新出語彙や学習する文型を「入れる」。この場合、ある教師は、ある学習者にたいして、いったい何をどこに入れることを前提としているのであろうか。たとえば、授業で行う新しい「知識」を学習者の記憶中枢に「入れる」のであろうか。また、習った文型を用いて会話を行う。会話は、究極的には、将来に実施されるゼミや会議での議論をすることが目標となっていくだろう。たとえば、国際会議の席上において、平等な立場に立って、全員が納得するような結論に向けて、公正に合議する。そこには、どんな権力性も、妥協も、諦めもなく、参加者全員が納得できる合意を得るのが理想的であろう。しかし、現実的には、コミュニケーションに伴うあらゆる社会的規範や観念を「 」にいれて、何者からも支配されない理性的なコミュニケーションによる議論は実現可能なのか[5]

以上のようなコミュニケーションについての事象について、ルーマンのコミュニケーション論は以下のように考える。ルーマンはコミュニケーションによる情報は決してわたしたちの脳内の記憶中枢や、ましてや心のなかに直接入り込むとは考えていない。ルーマンは〈予期〉という概念を用いて、コミュニケーションを解体し分析していく。ルーマンによれば、わたしたちは、〈予期〉にもとづきながら、コミュニケーションする。自己Xがこう話せば他己Yがおそらくこう返すだろうという〈予期〉と、その一方で、他己Yが自己Yについて自己がこう返せば他己Xは、こうとらえ、こう反応するかもしれないといった〈予期の予期〉が発生する。このような〈予期〉と〈予期の予期〉がむすぶ情報の伝達と理解の連鎖による二重の偶有性にもとづきながら、コミュニケーションが存続している。教室活動にたとえると、教師は究極的には学習者の反応を見ながら、学習者を予期しつつ情報提供し続けるしかないということを意味する。いっぽうで学習者は学習者で、教師に理解している/理解していないといったメッセージを送り続けるしかない。総じて、〈予期〉と〈予期の予期〉にもとづくコミュニケーションの連鎖によって、コミュニケーションが継続している。会議においても同様に〈予期〉と〈予期の予期〉のプロセスが前提となっている。つまり、言語教育でよく用いられる「相互理解」という概念は、この一連のプロセス、もしくは一連のプロセスによって生じた帰結について、言語化したものであるといえよう。

4)社会-「コミュニティ」とは何か-

以上に述べたように、〈予期〉と〈予期の予期〉に基づいたコミュニケーションが継続している常態が社会となる。近代以降、そうして、それぞれの社会システムは、分化してきた。たとえば、経済システムは「貨幣」が象徴的なコミュニケーションメディアとなり、支払いが「できる/できない」をこれ以上は分化できないバイナリーコードとすることで、コミュニケーションが継続している。科学システムでは、「真理」が象徴的なコミュニケーションメディアとなり、「真/偽」をバイナリーコードとしてコミュニケーションが存続するし、法システムでは「規範」をコミュニケーションメディアとしながら、「合法/違法」をバイナリーコードとしている。そうしたように、システムごとに扱うコミュニケーションメディアとバイナリーコードが異なることによって、近代以降の社会コミュニティはそれぞれ「分化」してきた。

では、言語教育現場はどうなるのであろうか。ルーマンによれば、教育システムの野心的な機能は、社会で行われるコミュニケーションに向けて、準備するように人々を変えることである。バイナリーコードは、「よりよく学習するか/より悪く学習するか」であり、象徴的なこれといったコミュニケーションメディアは存在しないという。具体的には、このよりよく学習したか/しないかについては、各種の筆記テストやオーラルテストで確認していくことが現実的な対応だろう。

そのいっぽうで、これまで、言語そのものは学術的に研究し尽されている。これまでの研究の発展にともない学術領域もこれまで分化してきている。ざっと見渡しても、比較言語学、構造主義言語学、生成文法、社会言語学、認知言語学など、甚大な学術的蓄積が存在し、それぞれ特有のコミュニケーションメディアとバイナリーコードを用いて分化している。一介の日本語教師である筆者ごときが概観することは、ここではできないが、言語と社会と心理、人間と社会の深淵に迫る研究は枚挙にいとまがない。しかし、反面、ここで、ひとつ生じる問題点を挙げるとするならば、各種のシステムが細分化すればするほど、社会の全体性への視野を失う[6]ということにある。

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社会の全体性への視野を失うことによるリスクとは何か。それは全体社会を見据えた視点を見失うことによって、知らず知らずに社会が予期せぬ帰結に導かれていってしまうことにある。これまでわたしたちはこれらの予期せぬ帰結によってあらゆる悲劇を経験してきた。リスクとは予期によって回避すべきであり、あらかじめ検討する価値があるだろう。そのため言語教育にまつわる教育システムを考えるうえでは、その教育をサポートしている経済システムや政治システムとの関わりを押さえる必要があるのではないか。

本シリーズは、言語教育に関連する学術領域の各システム外部に存在しているといえる社会学分野においても、こんにちの社会学がどこに位置するかまでをも、包括的に考察しているといえるルーマンの「一般理論」をよりどころとしながら、〈ことば〉〈人〉〈社会〉にまつわる諸事情についての考察を試みていくプロジェクトである。

はたして、人間が物事を認識するとはどういうことなのか。言語を使って他者とコミュニケーションすることはどういうことなのだろか。コミュニケーションすることと社会の関係とはどういうことなのだろうか、といった、いたって素朴で原始的な命題を出発点として、言語教育がもたらす人と社会の変容、すなわち言語教育現場がもたらす実相をルーマンの諸理論をよりどころとしながら、これまでとは異なった視点から俯瞰することによって、これからの〈社会〉に「よりよき未来」を創発するためのコミュニケーションの創発を企図することこそが本プロジェクトの狙いである。

最後に本シリーズについて、現段階において、予定している内容を以下に簡単に記しておく。

全9回(予定)
第一回 序論:なぜ言語教育に社会システム理論が必要なのか。
第二回 学習による成長とは何か?学習者の〈変容〉か?いわゆる〈主体〉とは何か?
第三回 行動主義でも機能主義でもない〈実践〉が導出する各々の〈変容〉について
第四回 ひとは知識を吸収していない。〈予期〉にもとづくコミュニケーションとは?
第五回 〈社会〉を構成する背景と4つの分化について
第六回 認識はどのようになされるか。意味にもとづくバイナリーコードとは何か?
第七回 〈社会〉における各メディアとコードについて
第八回 分化で生まれる新たなコミュニティについて 
第九回 結語:〈社会〉の「よりよき未来」の自己生成へ導く言語教育について

文献

大澤真幸(2015)「社会システムの生成」弘文堂 

カント,I.(2010)『純粋理性批判1』中山元(訳)光文社古典新訳文庫(Kant,I.(1781). kritik der reinen Vmunft.

デカルト, R(1997),谷川多佳子(訳)『方法序説』岩波文庫(Descartes.R.(1637). Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences. Plus la Dioptrique, les Météores et la Géométrie, qui sont des essais de cette méthode.

ルーマン,N(1993).佐藤勉(訳)『社会システム理論 上・下』恒星社厚生閣 Luhmann,N.1984.Soziale Systeme: Grundriß einer allgemeinen Theorie, Frankfurt: Suhrkamp

マトゥラーナ・H.R,ヴァレラ・F.J,(1991)河本英夫(訳)『オートポイエーシス 生命システムとは何か』国文社(Maturana,H,R. and Varela F,J.(1980).AUTOPOIESISAND COGNITION:THE REALIZATION OF THE LIVING. Dordrecht: D.Reidel Publishing)


[1] 本稿はルーマンの著作のなかでも主にルーマン,N(1993[1984])の社会システム理論を参照にしている。

[2] 詳細は、マトゥラーナ・H.R,ヴァレラ・F.J,(1991[1980]),参照

[3] 詳細は、デカルト, R.(1997[1637])参照。

[4] 詳細は、カント,I.(2010[1781])参照。

[5] 筆者の意見は、かつてユルゲン・ハーバーマスと論争したニクラス・ルーマンの理論に基づいている。ハーバーマスの西洋哲学の伝統にもとづいた「理性的議論」による合意を社会秩序の根底に据えようとする意見に対して、ルーマンは、ハーバーマスの述べる「理性」自体もシステムによって意味付けられた偶然性に依拠するものであるとして、反駁している。その内容は、ニクラス・ルーマン、ユルゲン・ハーバーマス著、佐藤嘉一・山口節郎・藤沢賢一郎訳『批判理論と社会システム理論 ハーバーマス=ルーマン論争』木鏑社、などに詳しい。

[6] 社会の全体性への視野を失うという問題提起は、大澤真幸(2015)の意見に多くを負っている。

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