英語とともに日本語を考える| 第4回 普通体と丁寧体の交替:「だ・である」が「です・ます」にかわるとき|武内道子

腰が痛いので整体医へ通っています。これまでやったことのない姿勢や動きをさせられているとき、先生に尋ねられて「痛いです」「気持ちいいです」と答えます。仰向けになって「肩を挙げないで横向きに腰をひねりなさい」といわれて、肩を抑え込まれたときは、反射的に「痛い!」と叫んでしまったのです。

肩を抑え込まれたとき、なぜ「あ、痛いです!」と言わなかったのか。「痛いです」と「痛い」は言おうとしていることは変わりませんが、何が、どう違うのか。これが今回のテーマです。

1.普通体と丁寧体

「痛い」というのは辞書形です。辞書形とはいわゆる「終止形」、辞書の見出しで表示される形のことです。辞書形を「普通体」といい、「痛いです」のように「~です/ます」で終わる述部を「丁寧体」とよびます。後者は口語的ということで、丁寧体とよぶことは必ずしも適切とはいえないかもしれないが、ここではこの呼び方でいくことにします。

普通体と丁寧体(下線は活用語尾)

次の短いパッセージによって普通体と丁寧体が入れ替わり立ち代わり交替するさまを見てください。同じ人(お茶の先生)が同じ相手(生徒)に向かって同じ場で発しています*。 次に、後に続く英訳と突き合わせてください**。

『蓋置き』をもったまま、こっちを向くの[1]。
 ・
炉になったから、これからはいつも斜めに座ってお点前します[2]。『蓋置き』はこっちに置きます[3]。炉になったから、茶器と茶筅は、ここに並べるの[4]。お茶碗を出す場所は、ここですから[5]。
 ・
たとえ何度も、同じ亭主と客が集まって茶事を開いたとしても、今日と同じようには二度とならないの [6]。一生に一度限りだと思って、その気持ちでやるのです[7]。

(森下典子. 『日々是好日』p. 64)*

[1]Keep hold of the futaoki and move around toward me …
[2]  It’s ro, so you do your o-temae sitting at this angle.
[3]  It’s ro, so you place the futaoki over there.
[4]  …it’s ro, you line up the tea container and chasen over there.
[5]  It’s ro, so you place the tea bowl out for the guest here.
[6]  Even if the same host holds a chaji with the same guests many times, each gathering is a unique occasion that will never be repeated, just like today will never come again.
[7]  That’s why you must approach a chaji, in the spirit of ichi-go ichi-e.

(エレナ・ゴールドスミス(訳)Every Day a Good Day. p. 47)**

[1][4][6]は普通体、[2][3][5][7]は丁寧体です。注目してほしいのは、[2][3][4][5]のひとつの塊の発話の中で、[4]だけが、「並べるのですよ」という丁寧体でなく普通体であることです。[2][3]と並行した表現であるのに [4]は普通体に「交替」しているのはなぜか、「交替」させるものは何か、を考えてください。[6][7]の発話列も普通体「二度とならないのだ」と丁寧体「その気持ちでやるのです」が交替しています。話し手側にどんな気持ちの違いがあるのでしょうか。

2.コミュニケーションの相手

コミュニケーションは必ず伝えようとする相手、受ける人がいます。相手は自分以外の人であり、相手に向かって発しているときは普通体を使用します。もちろん親しさの程度にもよることは後に触れます。一方で、「この前どこまでやったっけ」と独り言を言うときがあります。「やった」という確認と聞き手に同意を誘う終助詞「~っけ」の組み合わせですが、独り言は話し手が聞き手を兼ねているわけですから、普通体で表現されます。電車や公園でブツブツ言っている人を見かけますが、「です・ます」体で発していたら、芝居の練習でもしているのか、そうでなければ少し気が触れているのでは、と思うものです。

日記も普通体で書かれます。『アンネの日記』は、よくご存じでしょうが、キティという女の子を設定して彼女に向かって書いているので、日本語訳では、「です・ます」調で書かれています。1942年6月12日に誕生日プレゼントとして一冊の日記帳をもらったときから始まって、1944年8月1日まで付けていた日記です。一家4人の紹介のあと、

 1942年6月20日、土曜日
 親愛なるキティーへ
 さっそく始めましょう。今とても静かです。パパとママは外出していますし、マルゴーは、お友達のトレースさんのところへ、若い人たちとピンポンをするために出かけました。 ...

と始まっています***。

丁寧体は、典型的に手紙、講演、対談・対話で使われます。メールでのやり取りは通常「です・ます」調でやりますよね。

日常のやり取りを考えたとき、どちらを使うかは相手次第ということは経験しています。家族、学校、学生時代の友人、職場の同僚とはおおむね普通体を使い、先生や職場の上司、初対面の人、となり近所の人や街ゆく人とことばの交わすときは丁寧体を使います。駅前のキヨスクで「これおいくらですか」と尋ねたのに、「弁当いっちょう880円だよ」と返されるとちょっとぎょっとしたりします。

漱石は22歳の年に子規宛の書簡をはじまりとして生涯を通じて数多くの手紙を書きました。書簡集には、真心溢れる、こころを揺さぶられる手紙が収められてあり、魅了されます。イギリス留学(明治33年9月―36年1月)前は候調だったのが、留学中から現代語になります。現代語になってからの手紙は、妻に宛てたものは常に「普通体」を使い、若い門下生には「丁寧体」、あるいは両者の混用が見られます。(原文はまったく句読点なく書かれているのを、句点だけつけました****。)

 ...先達御梅さんの手紙には博士になって早く御帰りなさいとあった。博士になるとはだれが申した。博士なんかは馬鹿々々敷(シク)博士なんかを有難る様ではだめだ。御前はおれの女房だから其位な見識は持って居なくてはいけない。 ...
 端書でもよいから二週間に一度位宛は書面をよこさなくてはいかん。子供抔(ナド)があると心配になるから。皆さんへよろしく。
   九月二十二日                     夏目金之助
  鏡どの

 拝啓 書物をありがとう。四日頃とどいたがごたごたしてすぐ御礼も差上ずといってまだ一頁も読まず申訳のない事です。本が売れなくては困るでせう。誰かに頼んで批評をして貰ったらどうです。尤も新刊紹介には何処でも出るだらうけれども。 
 九日頃から一週間程旅行を致します。僕のような無精なものは誘われないと汽車などへ乗る機会はないのだからたまに誘ってくれる人のあるのは天啓かもしれない。 
 奥さんへよろしく。 
   十一月六日                      夏目金之助
  和辻哲郎様

 あなたがたから端書がきたから奮発して此の手紙を上げます。僕は不相変「明暗」を午前中書いてゐます。 ...午後の日課として漢詩を作ります。 ...
 勉強しますか。何か書きますか。君方は新時代の作家になるつもりでせう。僕も其の積りであなた方の将来を見てゐます。どうぞ偉くなって下さい。然し無暗にあせっては不可ません。…
 今日からつくつく法師が鳴き出しました。もう秋が近づいて来たのでせう。 ...
  八月二十一日                      夏目金之助
 久米正雄様 
 芥川龍之介様  

3.〈ウチ〉形対〈ソト〉形

ここで矛先が自分にある時使用する普通体は〈ウチ〉形であり、相手にある時の丁寧体は〈ソト〉形であると考えることにします。用語と概念を『ウチとソトの言語文化学‐文法を文化で切る』(牧野成一著 アルク 1996)という本から借りています。牧野は「内」と「外」という非言語的空間概念を介して、文化と言語の関わり方を見ており、これを際立たせるためにカタカナ書きをしています。「ウチ=わが家」という比喩が成り立つ言語は世界でも少数派であると述べ、ウチを、ひと言でいうと、五感を使って直接的関わりをもてる「かかわりの空間」と定義しています。五感での関わりをもてない空間がソトということになります。

二つの形態の間を、ことばによるコミュニケーションの中で絶えず行き来するのは日本語独特の現象であるといえます。この切り替えがどんな時に、どういう理由で起こるかということは、話の矛先を〈ウチ〉の人ととらえているか、〈ソト〉の人ととらえているかということであり、話し手の認知的とらえ方次第なのです。

〈ソト〉から〈ウチ〉へ、〈ウチ〉から〈ソト〉への交替は、いわば、「よそ行き」を着るか「普段着」を着るかの選択ですが、その選択をさせる要因の一つは、相手との物理的距離にあります。

漱石の手紙を少し子細に見てみましょう。金之助にとって妻の鏡子は誰よりも心を許した、最も「内」なる存在です。一方将来の頼もしい存在である若者は、敬愛とエールを送る対象であり、自分の死期の予感をも感じながら書いたかもしれないと思うとき(この手紙を書いた4か月後に亡くなる)、「外」の存在です。先輩ぶって恩着せがましくなることを避けながら、距離感をおいて語っていることが〈ソト〉形の使用から読み取れます。

次に、和辻哲郎への手紙には、心理的な〈ウチ〉〈ソト〉の出入りがあります。まず相手に距離をおいて自分の事情を語ります。「困るでせう」の丁寧体は相手の気持ちを推し量り、一方「どこでも出るだろう」という〈ウチ〉形は自分に言い聞かせている、自分を納得させようとしていると解釈されます。「旅行を致します」は、相手に知らせようとしているので〈ソト〉形の使用ですが、〈ソト〉形の延長線上の極限では敬語を使うことになり、謙譲語「致します」はその一環です。「天啓かもしれない」と、普通体への交替は、相手に言うというよりは、自分に向かい、自分の気持ちを確かめているといえるでしょう。和辻哲郎はすでに東大で教えていましたから、門下生といっても同等のようにも感じているのです。そういう思いが「です・ます」と「だ」の間を行き来させています。

お茶の先生の話に戻ると、お茶の先生は自分の生徒を、〈ウチ〉に置いたり、〈ソト〉に置いたり絶えず交替しています。[2]~[5]のやり取りをみてみると、先生面で教えている中で〈ソト〉形が続き、一瞬生徒たちを自分に引き入れて一体になった発言が[4]の〈ウチ〉形です。そして再び生徒と距離をおく〈ソト〉形([5])に戻ります。

4.〈ウチ〉から〈ソト〉へ、〈ソト〉から〈ウチ〉への交替

対話は、常に相手が前にいて、その相手に向かってお互いに「問う‐答える」の連続です。以下の抜粋は、日韓関係について、二人の50代前半の大学教授の対話から採っています*****。

 川島 今日は、日韓関係を中心に東南アジア情勢について考えていきます。韓国は世界トップ10に入ろうかという大きな経済力を持つ日本の隣人で、東アジアの重要な存在であることは間違いありません。しかし、韓国と日本との関係は一筋縄ではいかないところがあって、今まさに両国の関係はかってないほどに悪化している[A]。… そもそも木村先生はなぜ国際政治学の中で韓国を扱うことに決めたのでしょうか。
 木村 ...理由は簡単です。1985年のプラザ合意で円高になった後に学生時代を送っていますから、若いころから海外へ行きやすくなりました。それまでは1ドル=250円近くしましたから、よほどお金を持っていないと若い頃には海外へ行けなかった[B]。けれども我々の世代はバブル景気の恩恵もあって、大学生でもアルバイトをすれば割と簡単に海外に行けるようになった[B]。僕もアルバイトしてお金を貯めて海外に行ったわけです。 ...
ところが、1988年のソウルオリンピックをテレビで見て驚いたのです。韓国は民主化しているし、生活も豊かそうに見えました。それまで僕が旅してみてきた国々とはあまりに違っていました。オリンピック直前までは韓国は軍事政権下のにあって良い印象はまったくなかった[B]。それがいつの間にこんなに変わったのか、 どうして変われたのか。その理由を知りたいと思ったのが最初のきっかけです。
...
 木村 ...[韓国は]自分たちのことを大事だと思ってほしくとも、現実にはそうではありません。だから「そんなはずはない」という思いのあまり、相手側に強い言葉を突きつけて我に返ってもらおうとする[A]。
 川島 それで「やっぱり日本は大事だ」と気がつくことを期待した[A]。
 木村 そうです。でも、それは根本的に現実とはズレていますよね。 ...日韓関係において重要なのは日本側に韓国に対する昔のイメージが色濃く残っていることです。日本側は「韓国に影響力がある自分」という昔のイメージから脱却できていない[B]。「韓国さえも動かせない自分」という現実に向かい合いたくない[B]。こういう状況は中国に対しても一時期ありましたが、日本人は直ぐ諦めた[B]。中国は大きくなりすぎましたからね。だけど、同じような諦めを韓国に対しては持てない[B]。
 川島 そうなんです。やはり韓国に期待があるから攻撃したところがある[A]。 ...その諦められない思いの発露が今回の政策だとしたら、相手に対する気持ちが伝わっていないという点でコミュニケーション的には問題です

対話は丁寧体が普通ですが、下線を引いた普通体との交替が頻繁に行われていることがわかります。普通体への交替が行われているときの話し手の心情がどんなものか、2つにわけてみます。

A.状況の確認、対話者と自分自身の一体感、情報の共有感

出始めの、お互い距離をおいての主旨説明に続いて、対話のポイントを相手に確認、同時に自分にも言って聞かせています[A]。段落4つ目の木村の言は、自身を韓国人の立場に置き、彼らの思いとして自分に吐露する[A]。続く川島は相手の前言を受け留め、咀嚼し、納得した上で、相手の立場に身をおいて相手の言おうとしたことを提示、同時に相手への問いかけにもなっています[A]。その問いかけを受けて木村は、現実の対話の場に立ち返って「です・ます」で対応しています。

B.聞き手を意識しない、自分自身の心の叫び、独り言的

事情を説明しようとした木村は過去の自分と同一視し、過去のこととして提示するのではなく、今のわがごととしてつぶやいている印象を受けます[B][B][B]。時折、現実、つまり相手の存在を意識して「です・ます」の使用に戻ります。最後の木村の〈ウチ〉形の連続([B][B][B][B])は相手が入り込むすきがない、言い分を自分に納得させようとしている。川島の「そうなんですよ」は、その独善的世界にやっと入り、独言に同意し、木村の言を自分の意見として述べる彼はもはや木村と一体化した〈ウチ〉の人である[A]。そして我に返って、矛先を相手に切り替え、「です・ます」の使用になっています。

このように〈ウチ〉形を使っているところでは、聞き手は自分に向けて話をしていないと認識するから、くちばしをなかなか挟めません。話し手が〈ソト〉形を使っているときは聞き手に向かっているときだから、聞き手は話し手から比較的自由に発話権を取ることができます。証明のしようはないが、その場の表情も〈ウチ〉形と〈ソト〉形の使用において異なっているだろうと想像されます。たとえば、〈ウチ〉形で話しているときは相手の顔を見ていない、といったことがあるかもしれません。言語と非言語がどのように関わり合うかという興味ある問題ともいえます。

終助詞使用との関係にも注意してください(赤でマークしてあります)。「よ」は聞き手が知らないと話し手が思っている情報を、「ね」は話し手も聞き手も知っていると話し手が思っている情報を、聞き手である相手に知らしめる、確認する機能があります。いずれも〈ソト〉との相互作用をもたらしていることがわかるでしょう。一方、〈ウチ〉形は終助詞がありません。心の中の心情をストレートに表明するとき〈ウチ〉形になり、終助詞がつかないことが観察されます。お茶の先生の発話も参考に考えてください。(もちろん、〈ウチ〉形に終助詞がつくこともあります。自分の心情を相手に訴えようとするとき、「あんまりだわ/あんまり」、「どこまでやったっけ」のように。)

5.ことば使用の「あや」

日本女子バスケットボールアメリカ人監督トム・ホーバス:(練習中失敗した選手に向かって、怒鳴りながら)何をやっているのですか!

東京五輪でのバスケットボール日本女子の活躍は素晴らしかったですね。 2017年の監督就任の時、「東京五輪でアメリカに勝って金メダルが夢」と言った時皆に笑われたトム・ホーバス監督、戦術、戦略を理詰めで説明しながら、選手たちに体で覚えるまでやらせる。選手が言われた動きに少しでも失敗したとき、日本人だったら、女性監督でも、「何をやってんだ!」と「どなる」でしょうね。

〈ウチ〉形と〈ソト〉形の区別のない英語母語話者にとっては、この交替を学習することは至難のことだと想像するに難くありません。お茶の先生の発話の「同じようには二度とならない[6]」と「その気持ちでやるのですよ[7]」の交替は英文では反映されず、助動詞+動詞というまったく同じ構文です。

永年日本語教育に携わってきた友人は、まず丁寧体だけを、初級真ん中あたりで普通体を教えると話してくれました。作文に関して、初級で書かせる普通体は日記文、中級後半あたりからレポート、論文などの普通体になる由です。二つの文体の混在する文章は上級になって出てくることはあっても、教えるということはしないそうです。

文末述語で使われる動詞、形容詞、形容動詞に普通体とよばれる形と丁寧体とよばれる形があり、発話の中で一方が他方に変わる、日本語特有の現象をみてきました。これはコミュニケーションの矛先を表明する、構文としての手段ですが、私たちは日常的に二つの間を行ったり来たりしながら、伝達したいことへ「あや」を付けているとでもいいましょうか。

文献

*森下典子. 『日日是好日 「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』新潮文庫 2008.

**エレナ・ゴールドスミス(訳). Every Day a Good Day:Fifteen lessons I learned about happiness from Japanese tea culture. 出版文化産業振興財団 2019.

***アンネ・フランク(著) 深町眞理子(訳) 『アンネの日記』 文春文庫 2003.

****夏目漱石. 『書簡集』 漱石全集 第27巻及び第31巻 岩波書店  1959. 

*****「この喧騒は日韓関係の断末魔の叫びなのか」『公研』2019年9月号 公益産業研究調査会 pp.34-54.

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