これからの英語教育の話を続けよう|第14回 言語観あるいは言語感について|仲潔

ことばの使用の「当たり前」を問い直そう

さて。2つ目の事例は、「普通の」という言葉の意味に対する解釈の違いのために、外国人市民が深い傷を負ったという話でした。「普通」って何なんでしょう。

とりあえず、私はここまで、「私自身が、少し目上の方に話すときの、自然で丁寧な言葉遣い」になるべく忠実に書いてきました。また、あえて「ボク」を1人称として使ってきました。〈文体は「標準語」で。1人称は「私」で〉。こういう「普通」について、疑うことからはじまって欲しいな、と思っているからです。「あ、大阪弁?」と気づいた読者であれば、黙読している最中に頭の中で大阪弁のイントネーション、リズムになっていたかもしれません。「標準語じゃないんで、読みにくいではないか!」と思ったり、大阪弁の文章を標準語風に読んでいた方がいたりすると思います。あるいは、関西の方で「こんな大阪弁、変やで」と思う方もいらっしゃるかもしれません。ことばの感覚って、生まれ育った環境・条件でいかようにも変化しうるものです。私たちの多くは、意識しないうちに、さまざまな「普通」を植え付けられているのかもしれませんね。

そういった「普通」を植え付ける装置として、教育は多少なりとも関与しているでしょう。先日、荷物の整理をしていたら、小学校の時の文集が出てきました。読んでみると、「大阪弁」で書いていました。ところが、今回、「大阪弁」で書こうとすると、なかなか思うように文章として書けない。「わたしのことば」は、「文を書く」という行為を通じて、知らず識らずのうちに「わたしのことば」ではなくなってしまっていたのです。そして、この段落から「標準語風」に書いていますが、頭の中での「音」は「大阪弁」のイントネーションになっています。小学校の時の国語の「音読」で、いくら先生に注意されても、かたくなに「大阪弁」で読んでいたためでしょうか。明確な因果関係はわかりませんが、少なくとも「教育は無関係」とは言えないと思います。

本題に話を戻します。ここからは、英語教育の「普通」を少し疑ってみましょう。ついでに、「普通の」文体に戻しておきます。

英語の教科書を分析しますと、しばしば「日本文化について発信しよう」という類の題材があることに気づきます。公開授業などに出席しても、同じようなテーマで授業が行われることがあります。教科書分析を丁寧に行い、授業のさまざまなテクニックを駆使した「すばらしい授業」には、先生方のその努力を想像すると頭が上がりません。ただ、やはり憂鬱になってしまいます。というのも、「日本文化って…」という、文化の均質性を前提とした文化観・言語観への危惧があるためです。

私は仕事柄、いろいろな国に行くことがあるのですが、一応、行き先の国について、言語や文化について少しは調べてから行きます。10年ほど前に初めてインドネシアに行った時には、インドネシア語での挨拶「スラマッパギ」を覚えていったのですが、それを発話したら「パギー」とかえってきたことに少し驚きました。Googleマップを使って、現地の地図を調べたりもしましたが、行ってみるとやはり少し違う。現地に行って体感することというのは、事前に調べたことの「答え合わせ」をするような感じです。調べることと、想像することを鍛えつつ、現地での答え合わせを楽しむようにしています。

そういう私からすれば、英語の授業の先に「日本文化を英語で発信すること」が目標として見据えられていることは、中高生にとってどれほど需要があるのかな、と思ってしまいます。現在はインターネットの普及により、日本文化が何であれ、その情報は溢れかえっています。日本の中高生の英語に耳を傾けなくても、日本にやってくる外国人たちは、質量ともに充実した情報を容易に手に入れられる時代です。中高生による英語で発信される内容がどうであれ、そもそも必要性を感じないのです。

私が非日本人で、はじめて日本に観光に来たとしましょう。そのときに、見ず知らずの日本人の中学生に、いきなり声をかけられ、たどたどしい英語で一方的に日本について語られたら、恐怖でさえあります。それは「おもてなし」でもなんでもありません。せっかく日本に興味を持って、大金を使って日本にやってきて、下手をすると日本を感じられない体験を強いられる。たまったもんじゃありません。

でも、「日本文化について発信しよう」という設定は、「当たり前」のように消費されているようです。少しググってみるだけでも、その手の英語参考書がたくさんヒットします。ニーズがあるんでしょうかね…煽っているだけ、必要ないんじゃないかなぁと思いますが…。

中学校の英語教科書に話を限っても、「当たり前」を問う姿勢はほとんど見られません。以下、中学校英語教科書について分析した結果をもとに、言及しておきます(詳しくは、仲潔・岩男考哲「中学校『国語』・『英語』教科書における『異文化間交流』像」、『社会言語学』17号を参照ください)。

昨今の英語教科書には、数多くの留学生や在日外国人が登場しています。確かに、現実の日本社会においても、日本語を母語とはしない児童・生徒は増加の傾向にあります。文部科学省は2016年5月に、『日本語指導が必要な児童生徒の受入状況等に関する調査』を行いました。この調査の対象である「日本語指導が必要な児童生徒」とは、「日本語で日常会話が十分にできない児童生徒」及び、「日常会話ができても、学年相当の学習言語が不足し、学習活動への参加に支障が生じており、日本語指導が必要な児童生徒」とのことです。調査の結果、「日本語指導が必要な外国籍の児童生徒数は34,335 人で前回調査より5,137 人増加し」、「日本語指導が必要な日本国籍の児童生徒数は9,612 人で前回調査より1,715 人増加した」(p.1)そうです。同資料によりますと、「日本語指導が必要な児童生徒」の母語別在籍状況は、その児童生徒数から順に、ポルトガル語(25.6%)、中国語(23.9%)、フィリピノ語(18.3%)、スペイン語(10.5%)で、これら4つの言語だけで78.2%にものぼります(p.2)。明らかに、児童生徒の母語が「英語」である割合は低いのです。

ところが、教科書に登場する非日本語話者たちは、必ず英語でコミュニケーションを行います。学校内で初めて見る外国人生徒に対しても、日本人の登場人物は必ず英語で話しかけます。例えば、インド出身(New Crown、三省堂)やシンガポール出身(One World、教育出版)の登場人物に対して、いきなり英語で話しかける日本人の登場人物が描かれています。これら2つの国は、英語を公用語の1つにする国ではありますが、だからといって、英語話者であるとは限らないはずです。もちろん、「英語の教科書なんだから、英語でコミュニケーションを図るのは当たり前だ」という見方もできるでしょう。しかしながら、私がここで問題視しているのは、異言語話者には英語でコミュニケーションを、という姿が描き続けられることにより、学習者の多くが「英語=世界の共通語」という言語観・言語感を受け入れやすくなってしまうことです(山本忠行・江田優子ペギー(編)『英語デトックス』、くろしお出版)。

英語教科書には、外国人の登場人物を「アメリカ人」であると決めつけて話しかける日本人の登場人物も描かれています。One Worldの1年生用では、初対面であるシドニー出身のALT(Assistant Language Teacher)に対し、日本人であるAyaは“Are you from America?”と尋ねています。中学校に入ってからはじめて英語を学ぶ時代であればまだしも、小学校に外国語活動や英語活動が導入されて久しいです。その時代を反映した上で、日本人の登場人物が「外国人=アメリカ人」とする姿は、ある意味で小学校英語教育の成果なのかもしれません。私は10月に高校生向けに講演をした際に、「英語といえば、どこの国?」という意地悪な質問をしました。「アメリカ、イギリス、フィリピン」の3択にしました。70名強の高校生たちがもっとも手を挙げたのは、アメリカ。これはほぼ全員でした。次いで、フィリピンが3名。イギリスは1名のみ。その上、イギリスに手を挙げた高校生に対し、周囲の同級生たちは「なんでイギリスが英語やねん」とツッコミを入れていました。なお、この高校は地域では有数の進学校です。よく「教育された学習者」にとって、英語はもはやアメリカの言語のようです。「英語」の「英」という漢字とはいったい…!

なお、英語教科書には、登場人物たちが「必ず」わかり合う姿ばかりが描かれています。これもなかなか異様な姿です。上記の話と合わせると、外国人には英語で話しかけ、英語でコミュニケーションを図れば分かり合える、という姿が描かれているのです。そして登場人物は必ず、中学校3年生になるまでには「正しい英語」を確実に身につけます。英語に限らず、何かを習得・修得するには経済的な有利さを無視することはできません。そのためなのか、英語教科書の登場人物は恵まれた家庭の子女であるという設定が多いです。10年ほど前の分析結果ですが、具体例をあげておきましょう。例えば、Sunshine(開隆堂出版)の中心人物である佐山由紀の父親は仕事でロンドンに滞在し、由紀はクリスマスを父親のところで過ごします(3年生用第7課)。New Horizon(東京書籍)の伊藤絵美と田中慎たちは1年の冬休みをカナダで過ごし、田中にいたっては2年生の夏休みにアメリカでホームステイもします。このように、登場人物たちが、容易に海外を往復できる裕福な家庭に育っているという設定が多いのです(仲潔・大谷晋也「中学校英語教科書に見られる価値観:『夢の実現』を迫られる学習者たち」、『言語と文化の展望』、英宝社)。登場人物たちが、あまりにも都合よく英語を身につけることも、「英語教科書なのだから、当たり前」なのかもしれません。しかしながら、海外に行くのも、英語を身につけることも、現実的には「当たり前」ではありません。

もちろん、こうした「当たり前」を問う姿勢を、英語教師自身が持ち合わせていればいいのですが。そのためには、英語に関する純粋な意味での言語的知識(語彙、文法、構造など)だけではなく、言語をとりまく社会的・文化的知見もあるに越したことはないでしょう。ところが、私が以前、英語教員向けの講習において行った簡易なアンケートによると、49名の英語教員のうち、「世界の国の数」を500以上と答えた方が8名、100以下と答えた方が4名いました。「世界の言語の数」については、3,000以上と答えた方が6名で、100以下が13名いました(拙稿「日本の英語教師: 期待される英語教師像とその言語観」、樋口謙一郎(編)『北東アジアのことばと人々』、大学教育出版)。小さな規模の、簡易なアンケートとはいえ、少なくとも英語教師の「英語に関する社会言語学的知識は十分である」とは言えなさそうです。

前回、私は「自白」をしました。そこでは、私自身の取り組みについてはあまり触れませんでした。大学で英語教員の養成にかかわるようになって、ずっと取り組んできたのは、将来の英語教師が言語文化に関する事象を少しでも多角的に見られるようにしたい、ということです。同じ食材を用意しても、味付けの方法をたくさん知っている料理人であれば、客の好みに応じていろいろな料理を提供できます。それと同じで、言語材料についてさまざまな角度から考えられるのであれば、学習者の個性(学習ストラテジーや性格、興味・関心など)を考慮しつつ、授業の幅を広げられます。「鉄板」「十八番」の料理があるように、鉄板/十八番の授業があってもいいのですが、レパートリーが多いに越したことはないでしょう。それに、素材についてより深く知ることで、その素材の魅力を引き出すことができますし、その逆に一面的にしか知らなければ、その素材の特質を誤解したまま表面的な理解に止まってしまうことだってあるでしょう。そういった思いから、言語教育におけるメタ言語教育として、「言語観の教育」が必要で、それを担う英語教師には、彼らの言語文化観をゆさぶることが大切だと思い、実践してきました。この点について、社会学者のましこさんに、次のように言及していただきました。

 

その意味では、仲潔が提唱する「言語観教育」(なか2008)は、非常に示唆にとむ視座といえる。なぜなら、言語教育とは、狭義の言語体系/言語文化の教授にとどまらず、社会言語学/言語人類学/文学などが蓄積してきた言語文化観にふれる機会を提供するばでもあるからだ。文部科学省の提示する言語教育の把握は実に偏狭であり、その教育イメージは、「言語観教育」というメタ言語教育の機会をみすみす逸するような点で有害無益とさえいえるかもしれない。実際、「アメリカ英語は、デファクトスタンダードであるどころか世界で通じにくい変種群である」とか、「アメリカの中西部方言を規範として勉強をつづけることは、世界の英語の実態からめをそむけさせかねない」といった見解にきづける生徒は、中学・高校では皆無にちかいだろう。中高の英語科教員自身が、そういった社会言語学的な知見を大学でまなぶことなく教壇にたってしまい、その後も認識を修正する機会をもてないケースが大半だろうから。英語帝国主義とか、英会話イデオロギーといった見解に、まともに対峙したことのないまま英語・英米文化学科を卒業してしまう学生が、中学・高校の教壇にたって10代の生徒に接するのは、きわめて危険なことだとおもう。しかし、そういった認識は現場に皆無にちかいだろう。教育委員会や文部科学省が、「言語観教育」といった観点から教員研修をおこなうともおもえない。

ましこ・ひでのり「言語教育/学習の知識社会学」佐藤慎司・村田晶子(編著)『人類学・社会学的視点からみた過去、現在、未来のことばの教育』、三元社、p.47)

 

とてもありがたい言及のされ方で、恐縮です。ちなみに、私自身の現職教員への働きかけとしては、教育委員会と連携して、若手研修で言語観教育の一端を担ってきました。もちろん、時間的に不十分ですので、ほんのさわりだけしかできていないかもしれませんが、引用元でいう「社会言語学的な知見」をなるべく取り入れ、「英語帝国主義」「英会話イデオロギー」といった問題も取り上げたりしています。英語を「コミュニケーションの道具」として扱うのなら、その「使い方」を知っていくことも大事とは思いますが、道具の持つ性質をより多角的に知っておいた方が望ましいと考えるからです。ことばの社会文化的な側面の全てを知るべきだとか、それらを全て授業で扱うべきだ、と言っているのではありません。実現するかはともかく、英語教育が学習者のコミュニケーション能力を育成し、他者とわかり合う姿を目指すのであれば、他者を不快にしたり、相互理解を妨げたりする側面を多少なりとも知っておく必要があると思います。

 

「相手がどう解釈するか」という想像力の欠如

さて、2つの事例に共通している他の側面としては、英語で発話された情報を受け取る側がどのように解釈するのか、という視点が欠如していることがあげられるでしょう。あるいは、自らの発言や行動が、他者にどのように伝わるのかを考える姿勢や視点を持ち合わせていない、と言えるかもしれません。一言で言えば、想像力の欠如です。

新しい『学習指導要領』には、英語教科書に掲載される題材について「多様な考え方に対する理解」や「公正な判断力を養う」ことを促進しうるものが望ましいことが書かれています(『学習指導要領』、p.138)。そして、その先に見据えられているのは、「社会的な話題」について英語で表現し合う学習者の姿です(p.129)。それに対応する英語教科書では、人権や環境問題をはじめ多岐にわたる題材が掲載されています。題材のテーマについては多様であると言えるでしょう。

問題はその描かれ方です。既存の社会構造を問い直すような視点が提供されることはなく、むしろ再生産されるようなものが多いのです。そのため、さまざまな「社会的な話題」を扱うことが、「視点の画一化」を覆い隠すための、アリバイ的な多様性として機能しているかのようです(拙稿「中学校英語教科書における『社会的な話題』」、『社会言語学』18号)。なお、英語帝国主義のような言語と差別の問題については、かつては三省堂のNew Crownが扱っていましたが、現在では掲載されていません(拙稿「英語の『負』の歴史と『英語学習者』像」、『多言語社会研究会 年報』3号)。言語そのものが差別問題の要因になり得ることは、「社会的な話題」でもなければ「公正な判断力」の育成には役立たないというのでしょうか。

相手の気持ちを考えることなく、自身の都合で一方的に目的を達成しようとする登場人物もたくさん描かれています。例えば、One Worldの1年生用では、給食で見慣れない食べ物を見た留学生が、それが何かを尋ねる場面があります(pp.28-29)。光村図書のColumbus 21では、ある留学生が自分の知りたいことをクラスメートに尋ね、答えてもらったのちに“I see.”だけ言って対話が終わっています。このように、発話者側が知りたいことを尋ね、相手がそれに応じてもそこから会話が展開されることはありません。「聞きたい内容を相手に尋ねる」という目的が達成されると、すぐさま別の話題へとうつる会話文が多いのです。コミュニケーションの相手は目的を達成するための相手であって、それを実現するための道具として英語が存在するかのような描かれ方です。もし私が「質問される側」で、しかも中学生だったとすれば、あまりいい気はしないと思います。みなさんはどうでしょうか?

 

言語「技術」があがっても…

かりに、新しい学習指導要領による英語教育が「成功」したとしましょう。すると、将来的には、学習者の英語による表現力は向上しているはずです。あるいは、IT技術がさらに進展し、自動翻訳がより正確に、迅速に、容易にできるようになったとしましょう。いずれの場合においても、「英語で表現できるようになること」はもはや英語教育の中心的な話題ではなくなります。もちろん、そうなれば、の話ですが。

そうした場合、自らの発話が相手にとってどのように解釈されうるのか、という想像力が欠如していれば、せっかく「英語による表現力」を手に入れたとしても、必ずしも自らの目的が達成されたり、意図した通りに相手が解釈してくれたりするとは限りません。それどころか、相手を傷つけたり意に反したメッセージを伝えたりしてしまい、本来目指していたはずの「わかり合う」ことからは遠ざかってしまいかねません。もちろん、圧倒的な権力差(学力、経済力、人脈などなど)があれば、そういった配慮など無意味なものとなるかもしれませんが、レアケースでしょう。

英語教育なのですから、英語による表現力の向上を目指すことを否定するつもりはありません。英語教師には、英語をある程度は使いこなしたり、英語の構造をしっかりと理解し、説明できたりする力も、最低限度は必要だとも考えています。どちらも「完璧(なんてあるのか?)」ではなくてもいいと思いますが、「どちらかだけ」も問題があると思います(例えば、英語を使えるだけで英語の教師として適切というわけでは決してありません)。くわえて、これら2つだけでは不十分だと考えています。他者を目的達成のための相手としたり、英語を単なる自己表現の道具としてのみ教授するのであればよいとは思えません。英語で自由に発言できて、その英文の構造についての理解ができていればそれでいいというわけではないということです。これらはいずれも大事だとは思いますが、自動翻訳などの発展により、いつか人間に代わって英語が教授されるようになったり、あるいは英語を身につける必要性がなくなってしまうこともないとは言えません。時勢によってコロコロと変わってしまう教育観は、「国家百年の計」とは言えないでしょう。自己と他者の言語使用をどう観るのか、感じるのか。言語観ないしは言語感とも言うべき視点もまた、必要なのではないか、と思っています。心配性でしょうか。

 

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