村上春樹をさがして|第25回 レイコと直子のクィアな欲望|重里徹也

 レイコというのは長編小説『ノルウェイの森』のなかで、きわめて印象的な登場人物だ。やたらに話がうまく、主人公の「僕」(ワタナベトオル)と恋人の直子の間に入りながら、重要な役割を担っているように見える。直子が入る療養施設、阿美寮の住人として登場し、直子の同室人でもある。ある種の闇を抱えている感じがする女性なのだが、それが得体の知れなさを深めているようにも思える。

 レイコは本人の供述によると、三十八歳。阿美寮に入って七年になる。主人公が初めてこの療養施設を訪ねた時に出迎えてくれ、この施設のことを説明してくれる。この独特な施設の案内人のような役回りだ。

 目の前に登場した彼女を主人公は次のように描写する。

とても不思議な感じのする女性だった。顔にはずいぶんたくさんしわがあって、それがまず目につくのだけれど、しかしそのせいで老けて見えるというわけではなく、かえって逆に年齢を超越した若々しさのようなものがしわによって強調されていた。

続いて次のように評される。

ひょろりとやせて乳房というものが殆どなく、しょっちゅう皮肉っぽく唇が片方に曲がり、目のわきのしわが細かく動いた

 ピアノが得意で愛煙家。ある種のインテリ女性にはときどきいるタイプのように思える。こういう人が増えたのも一九六〇年代後半の風景ではないか。主人公の「僕」はこの「いくらか世をすねたところのある親切で腕の良い女大工」みたいに見える女性に対して、一目で好感を持ったと記している。

 へーえ、と驚いた。私の印象は違った。何か、曲者というか、要注意人物として、心を許してはいけない相手のような思いを持ったのだ。世の中に対して反発心を持っていて、仲間に誘われるような感じ。

 この私の漠然とした感触をきちんと解説してくれているのが武内佳代の論文「村上春樹『ノルウェイの森』――語り/騙りの力」だった。武内の著書『クィアする現代日本文学 ケア・動物・語り』(青弓社、二〇二三年刊行)で読んだ。

 武内は現在、青山学院大学教授(この著書を出した時は日本大学教授だった)。この本の「あとがき」によると、三島由紀夫研究を専門にしている人らしい。

 武内の文章で特に私が面白いと思ったことを挙げていこう。まず、レイコが自殺した直子の姉を彷彿とさせ、直子がレイコに精神的に依存するのは、亡き姉の面影を重ねているからではないかと推察していることだ。

 そして、直子がキズキ(自殺した「僕」の友人)との間で性交渉ができなかったのは、キズキへの愛が姉への思慕の転化にすぎないことを物語るのではないか、と考察する。つまり、直子のキズキに対する性的不能(性器愛の不可能)は姉への性的欲望に対する二重の社会的禁忌(タブー)、すなわち、近親相姦の禁止と同性愛の禁止によるものとも読み解ける、というのだ。というより、そのように読まない限り、この不能は説明がつかない、と述べている。

 直子はこの自身の心のメカニズムに自覚的ではなかったのだろう。直子は小学校六年の時に暗い部屋で首を吊って死んでいる姉を見つけた。やはり、「暗い」森の奥で首をくくって自殺した直子と死に方がよく似ている。一方のキズキは車の排気ガスで死んだ。自殺の方法から見ても、直子の自殺は姉の死と深くかかわっているのではないかという。武内の慧眼だろう。

 また、姉の死について、直子が阿美寮に入ってから、やっと「僕」に打ち明けられるようになったことにも武内は注目する。

 恋人であるキズキの自殺。キズキと「僕」のホモソーシャル(性的関係を伴わない同性同士の社会的、精神的な結びつき。特に女性を排除した男性同士の強固なきずな)的な関係に対する嫉妬心(キズキが生前に最後に会ったのは「僕」だった)。直子の精神的なトラブルは表面的にはこの二つが背景にあるように見える。しかし、直子の意識の奥底に姉の存在があり、姉の自殺によるトラウマや、亡姉への欲望があって、姉の死を容易に語ることができかったのではないか、というのだ。

 直子のクィア(性的マイノリティー。既存の男女の枠組みにとらわれない性のあり方)な欲望。当時の一般的な社会常識に従って異性愛主義を生きてきた「ぼく」。武内は二人を対照的に描き出す。

 次に目を向けるべきはレイコのレズビアン体験だという。レイコは自分ではこの体験が阿美寮に入る(つまり精神を病む)きっかけになったという。体験を振り返るレイコの語りは冴えていて、この小説の中でも鮮やかな印象を残すものの一つだ。

 十三歳の少女にピアノを教えていたレイコは、少女からレッスン中に肉体関係を迫られる。レイコは自身の同性愛的欲望を自認しながら、社会の異性愛規範に従って、断念しなければならなかったという抑圧状態を語っているとも読めると武内は指摘する。

 そして、レイコと少女が重なるように読めるという。同一人物なのだろうか。レイコは少女を「病的に嘘つき」だったというが、実はそれはレイコの悪癖なのではないかというのだ。そして、小説の中から、レイコの「嘘」や「冗談」を列挙する。多くはレイコ自ら嘘だと断っているのだが、確かに彼女の言葉は奔放な話や冗談にまみれている。

 レイコの「虚言症」は「僕」と直子の恋愛にも介入したのではないか。武内はまず、直子の死までの半年間、直子本人ではなく、レイコが手紙で様子を知らせていることに注意を向ける。そして、レイコは「僕」に緑との恋を勧め、逆に直子については「思ったより早く快方に向かっている」と知らせてきたのに、二カ月後に突然、直子の死を伝えてくる。

 ここまで考えると、直子を直接に死に向かわせたのはレイコではないかという推測もありえる。武内が述べるように、「僕」とキズキの男同士の絆が永遠化されたように、直子の死によってレイコと直子の女同士の関係も永遠化されたのだろうか。レイコが阿美寮を退寮できたのも、自身のクィアな欲望を実現できたからなのだろうか。

 その後、退寮したレイコが直子の服を着て「僕」に会いに来て性交したのは、自分を直子と同化することが目的だったのだろうか。

 既存の性規範によって禁止され抑圧されていた直子とレイコのクィアな欲望。彼女たちの欲望に全く気づかず、自らの愛の形だけを通す異性愛主義者の「僕」。「僕」と視点を共有しながら、「愛の不可能性」を思う読者。

 武内の指摘は鮮やかで、私など、これまで読んできた『ノルウェイの森』の風景が違って見えてしまうほどだった。深い読みに感心した。確かに、これでこの小説に描かれた「性愛の不可能性」が説明できるように思える。

 女性たちのクィアな欲望と、規範的な欲望に忠実な主人公。それは両者がせめぎ合う時代状況を示しているようにも思えた。あるいは作家の無意識が、それを反映したのだろうか。

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