これからの英語教育の話を続けよう|第11回 自白:共犯者としての英語教育研究者|仲潔

 

暑すぎる夏が去ったと思ったら、台風やら地震やら…大変な日々です。私の生まれ育った大阪も、今住んでいる岐阜も大変な被害にあいました。北海道の地震による影響も心配です。

大きな自然災害が起きれば、そのあとに善意あふれるボランティアの方々が活躍されます。阪神・淡路大震災のときに、私は大阪にいたのですが、不幸中の幸いというか、大きな被害を受けませんでした。ちょうど大学受験生で、大学に合格した春休みに少しではありますがボランティア活動に参加しました。

ただ、いくら善意からの行動であっても、問題がないわけではありません。いわゆる「モンスターボランティア」です。ごく一部とは信じたいのですが、ボランティアの方々の中には、現地の人びとにかえって迷惑な行為をしてしまうこともあるようです。善意からのボランティアであっても、そこにはモラルや、当事者の方々への配慮がなければなりません。「べからず集」を掲載するマスコミまで出るほどですので、気をつけたいところです(被災していない人の「何とかしてあげたい」が物流を止めている)。

さて、今回は、ライオンズクラブのお話をしたいと思います。といっても、社会奉仕団体のそれではありません。以前、私は、「英語教育研究者が、多言語主義を擁護するのは、ライオンズクラブのようだ」といったご指摘を受けたことがあります。お金持ちが奉仕の精神で慈善活動をしていることと、英語という覇権的な言語を扱う研究者が、英語以外の言語の学習の重要性を説くことは慈善(偽善?)活動のようだ、とのことです。

確かにそういう一面もあると思います。英語教育に携わる人間として、いくら多言語のことを思っても、英語という「お守り」は握ったままなのです。所詮は「長いものには巻かれろ」状態に変わりません。でも、同時に思ったのです。ライオンズクラブの改革は、ライオンズクラブの一員じゃなきゃできない、と。

この連載やわたしたち3人の著書(『これからの英語教育の話をしよう』、ひつじ書房)だけではなく、数多くの「英語教育批判本」が、ここ数年、たくさん刊行されてきました。英語教育改革と言われるさまざまな政策の多くが、「教育」的観点から行われてきたのか疑問ですし、「英語教育研究の成果」がどれほど反映されたものかというと、残念ながら心もとないとしか思えません。ようするに、英語教育の非専門家による政策決定が断行されつつあるわけです。非ライオンズクラブの会員が、ライオンズクラブの改革に口出ししているような感じです。

もちろん、私はある意味では「偽善者」かもしれません。なんだかんだといって、英語教育で生計を立てていますので。ですが、自己内省し、英語教育の内側で抱えている問題点を明らかにすることで、外部圧力ではない英語教育改革の姿も見えるのではないか、そう思って今回は書きたいと思います。具体的には、これまでの連載で扱わなかった、現職教員向けの講習と、英語教育の現場への視察・指導を中心にお話しします。なお、私なりの小さな取り組みについては今回は置き、問題の指摘に絞りたいと思います。

 

各種「講習」に過度な期待は禁物です

今年の夏休みも、私は、免許更新講習はもちろん、小学校教員向けの認定講習や地域の英語教師向けの講習など、数十コマほど行いました。小中学校の先生に、夏休みなんてほとんどありません。授業がない分、一応は「夏休み」ではありますが、校務や部活の指導をはじめ、休暇中の児童・生徒へのさまざまな対応などなど、仕事はたくさんあります。その上、貴重な土日には、このように講習づくし。大変です。

ついでに言うと、こういった講習を担当する、大学の教員も大変です。せっかくの「夏休み」であっても、海外出張にもなかなか行けません。弾丸ツアーのような学会発表の出張がせいぜいです。1つ講習を持つということは、そのための準備も必要になりますので、かなりの時間を費やすことになるからです。

もちろん免許更新講習などは、ある程度は自分の専門領域を扱うことができますので、比較的、準備しやすいです。ですが、認定講習や教育委員会などから依頼される講習の中には、あらかじめテーマが決められていることもあります。せっかく私に「期待」をして講習を依頼してくださるので、私も時間をかけて準備をするわけです。ですから、「あの先生の話はつまらなかったな」と思われたくはありません。これは私の性格の問題なのかもしれませんが…。また、いくら「期待されるテーマ」が決まっていても、私自身のこれまでの研究内容と矛盾することは言いたくありません。そういうわけで、けっこう入念な準備をします。テーマから外れないように気をつけながら、自分の得意領域になるべく話を持って行きながら…。

先生方からは、講習の前に事前アンケートが行われ、講習の内容に関する要望もあります。基本の基本から教えて欲しい先生、最先端の知識を求める先生、「明日、授業で使える内容」に期待する先生…さまざまです。同じ講習の中に、求めるものがまったく違う先生がたくさんいるなか、できるだけ多くの先生方に満足してもらえるように、知恵を絞って準備をするのです。おかげさまで、専門外の領域についての知識も蓄えられてきたと思います。

とまぁ、前置きはここまでにしておいて。小中高の先生方が、さまざまな講習を一生懸命に受講されているというのはいいことだと思います。英語教育を支えるさまざまな領域の専門的知識(広義の言語学やコミュニケーション関連、教育学など)は、すでに教壇に立っておられる英語教師たちが大学生時代に学んだ内容とは、刷新された部分は少なくありません。故・若林俊輔さんは、「自分の過去の経験はすべて疑ってかかるべきである」(『これからの英語教師: 英語授業学的アプローチによる30章』、大修館書店、p.13 *絶版)と述べておられます。そして、「自分が教わったようなやり方で教えてはならない」(同)と警鐘を鳴らしています。これは、直接的には、英語教師が「生徒」だった時に「教わった」のと同じ方法で、英語教師となってから目の前にいる生徒たちに「教えるな」ということです。この指摘はそのまま、「大学で教わった」ことをそのまま「教えるな」とあてはめても成立すると思います。英語教育にかかわる研究は、日進月歩とまでは言いませんが、おおいに変化しているのです。その意味で、自己練磨のために講習を受けることは大いに賛成です。

だからといって、過度な期待は禁物です。たとえば、小学校に英語が導入されることへの「対応」として、免許法認定講習・公開講座・通信教育があります。それらは文部科学省のWebページに次のように記載されています。

 

免許法認定講習・公開講座・通信教育とは、一定の教員免許状を有する現職教員の方が、上位の免許状や他の種類の免許状を取得しようとする場合に、大学の教職課程によらずに必要な単位を修得するために開設されている講習・公開講座です。

教員免許状を取得するためには、原則として大学等において学士の学位等の基礎資格を得るとともに、教職課程において所定の単位を修得することが必要です。

しかしながら、教員の資質の保持・向上のため、現職の教員等がすでに所有している免許状を基にして、一定の在職年数と単位取得によって上位の免許状などを取得する方法も開かれており、免許法認定講習・公開講座・通信教育はこのために設けられている制度です。

免許法認定講習・公開講座・通信教育、下線は筆者)

 

小学校の先生の中にも、もちろん、英語の堪能な方もいらっしゃいます。その反面、「英語が嫌だから、小学校の先生になった」という方もいるでしょう。ところが、上の引用にあるように「現職の教員等がすでに所有している免許状を基にして」、「他の種類の免許状を取得」することができてしまいます。小学校の先生方に対する英語に関する認定講習は、ざっくりいうと、英語の副免許の取得に近いほどの単位数となります。ただ、これは、大学生であれば2〜3年生の間に割と集中的に受講することができるものです。現役の先生とは違って、時間もたっぷりありますから、英語力の向上のために課題をたくさん与えることもできます。

ところが、認定講習では、なかなかそうはいきません。最短でも3年、しかも主に「夏休み」だけを利用して単位を取得します。先に書いた様に、さまざまな仕事を抱えた中での、すき間時間で受講していますから、英語そのものを学ぶ時間をなかなか確保できないのが実情でしょう。中には、上手に英語を使う先生もいますが、少数派です。多数派は、「大学受験であれば、英語関連の学部は避ける」というタイプです。そのため、認定講習のうち、「英語コミュニケーション」のような、英語の運用能力が求められる科目については、単位を落としてしまう先生がたくさんいらっしゃいます。私の担当は「指導法」なのですが、「模擬授業を英語でやってもらいます」なんて課題を出せば、悲壮感・絶望感、なんならブーイングの嵐になってしまうこともあります。先に述べたように、時間をかけて準備をするわけですが、いざ講習となると、冷ややかな目で見られることもあるわけです。講習をする側も受ける側も、精神衛生上、間違いなく良くないと思います。

先生方を責めるつもりはありません。参加されるだけでも、すごいと思います。私が言いたいのは制度的に不備だらけだということです。

このことは、講習を準備する大学教員にも言えるでしょう。数年前に、私の勤務校で、小学校英語の認定講習をスタートすることが決まった時、小学校英語の専門家はいませんでした。私が「英語指導法」を受け持つことになったのですが、「専門家」ではありません。一応は、アジア圏の小学校英語教育の現場を訪問することもあり、それに関する研究報告(例えば、河原俊昭(編)『小学生に英語を教えるとは: アジアと日本の教育現場から』、めこん)もありますので、少なくとも書類上は問題ありませんでしたが…。もちろん、英語科教育法を長年担当してきましたし、英語教育関連の授業の中で、早期英語教育に触れることもありましたので、「素地」はあったとは思いますが、「専門家」と言えるかといえば、「否」です。

今年に入って、小学校の授業に関するフォーラムで、英語教育部門を担当したり(第26回 授業実践フォーラム)、小学校英語必修化に向けた児童向けの評価テストの助言者になったりと、小学校の英語に関わってはいます。もちろん、「専門家」じゃないからといって、研究者の端くれとして無責任なことも言いたくありません。今回の記事のように「自白」したからといって免責されるわけではないとも考えています。そのため、できる限りのことはしているつもりですが、やはり「専門家」とは自分では思っていません。

私の勤める大学は、運営面という点で、それなりに安定しているとは思いますが、それでも英語の教員免許を与えるのに十分なほど、スタッフが充実しているかといえば疑問です。もともとは中学校英語教員の養成がメインですので、小学校向けの英語教員養成に関する専門家は不在でした。現在は、教員の補充にも成功しましたが、その時に在籍していた研究者だけでなんとかやりくりして授業をこなす、なんてこともありました。多くの大学が同じような問題を抱えているのではないかと思います。

それでも、講習に来る先生方からすれば、「専門家」と捉えられることが多いのではないでしょうか。もちろん、「専門家」なんて「自称」な部分がありますので、専門家だからといって、必ずしも良質な講習ができるわけではないと思います。その逆に、専門家じゃなくても受講者の期待を良い意味で裏切られるほどの講習をされる方もいると思います。ですが、少なくとも私の場合は、「小学校英語」という領域の「外」から口出ししている感じがして、どうもスッキリしません。期待に応えたい気持ちはありますが、「私でいいんですか」という気持ちが上回っています。

このように考えると、「現職の教員等がすでに所有している免許状を基にして」、「他の種類の免許状を取得」するというこの制度では、「過度な期待は禁物です」としか言えません。「小学校に英語を導入したし、先生方も講習を受けているから、明るい未来が待っている!」とは、ならないと思います。数字上、特定の講義数を確保することはなんとかなりますが、その内容を本当に求められているレベルで実行できるかというと、大学の専門家が不足しています。もちろん、それなりに知識のある分野を、専門が近い研究者が担当するのですが、やはり私たち専門家の負担になります。現場の先生方も、時間的余裕がありません。「裏技」のように、小学校の先生方に英語指導の資格を与えるのではなく、しっかりと予算を確保して専門的な授業を用意し、長い目で育成しなければならないと思います。

 

教育場面の視察・指導での違和感

私は、英語教育の内部にいながら、いろいろと批判をしているわけですが、それでも、小中高の英語教育の現場にけっこう呼ばれます。おおむね、次のパターンのいずれかで教育現場に行きます。

① 研究発表会や指定研究校などに依頼されて行く場合
② 講習で知り合って仲良くなった先生にお願いされて行く場合
③ 教え子にお願いされて行く場合

①であれば、講習と同じく、ある程度のテーマが決まっていて、それに対して「専門家」として助言を求められます。②の場合であれば、わたしがどのような英語教育観を持っているか、どういった問題意識を持っているのかをある程度は知っての上ですから、比較的マシです(本来の私の専門から外れたテーマを求める先生のところには、基本的には行かないようにしています。無責任なことは言いたくありませんので)。とはいえ、③と比べると、わたしの英語教育観に対する理解は低めと思います。③は安心ですね。よくわかった上で、来て欲しいわけですし。

このように、①から③にかけて、私の英語教育観に対する理解度は高まるわけですが、実際に現場に行く機会は、①から③にかけて減ってしまいます。③が減ってしまう背後に、大学で学んだことを活かせていないから見せられない、ということもあるようで、寂しい限りです。先に書きましたが、私の研究室で学んだことをそのまま教育現場に持ち込む必要はありません。それぞれが置かれた環境(学校全体の方針や、他の先生との調整、目の前の学習者など)の中で、再考しながら実践できればいいのです。

もし、校務などに追われて、そのための時間的な余裕がないならば、制度上の問題です。また、実践したくてもできない「教育方針」があれば、それはイデオロギー的な問題ということになります。どちらも大きな問題です。

前者は、生徒指導や部活動の指導、保護者への対応などのために、授業の準備や教材の研究に費やす時間が確保できない、という問題です。これについては、役割の分担をしたり、部活動の指導を地域の人材と協力してもらったりするなど、対策を立てている学校もあるでしょう。後者は、異なる意味で深刻です。いくら崇高な理想があって、それを実現するための努力も惜しまず、時間を確保できたとしても、それを実践できない、という場合です。例えば、保護者たちの学校教育に対する過度な期待や、同僚の英語教師への遠慮、あるいは教育委員会からのプレッシャーなども、作用するかもしれません。もちろん、保護者の期待に応えようとすることは悪いことではありません。同僚への配慮も、良好な人間関係の構築には必要でしょう。教育委員会からの指導・助言も、役立つこともあるでしょう。しかしながら、いずれも行き過ぎてしまうと、英語教師から自由な発想にもとづいた授業づくりを奪ってしまいます。

 

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