並行世界への招待:現代日本文学の一断面|第9章 舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』──探偵は世界を創造する|加藤夢三

「世界の形」を変えるということ

 舞城王太郎は、講談社の文芸誌『メフィスト』の新人賞から出発した、いわゆる〝ライトノベル作家〟(と少なくとも思われがちな存在)でありながら、第16回三島由紀夫賞を受賞し、さらに幾度も芥川賞の候補となっており、純文学の領域でも着実に評価を確立しつつあるという点で、ほかに類を見ない書き手です。その作風も、凄惨でありながらどこか滑稽な暴力描写、とにかく常軌を逸したペースで喋りまくるキャラクターの圧倒的な存在感、馬鹿馬鹿しいまでに疾走感を重視したキッチュな口語文体と、きわめて独創的なものであり、ゼロ年代の文学シーンを最前線で牽引しつづけました。(✳)

 なかでも『ディスコ探偵水曜日』は、単行本の上下巻を合わせて1000頁を超える大長編小説であり、かつその内容もとにかく破天荒の一言に尽きます。(✳✳)正直なところ、いまだに僕は結局どういう話だったのかいまいち掴みきれていないのですが、基本的な筋立ては、ディスコ・ウェンズデイと名乗る迷子探し専門の探偵が、梢という女の子とともに、ある殺人事件の真相を暴いていくというものです。もっとも、物語の後半部では既存の物理法則が破壊され、とてつもなく壮大なスケールの超理論SFとなっていくのですが、いずれにせよ推理という営みが中核に据えられた変則的な探偵小説であることは間違いありません。ただ、通常の意味での探偵小説と大きく異なるのは、登場人物たちが時空のあり方を改変し、並行世界を自在に創造することができるという点にあります。

 それは、作中の第Ⅲ部において、ディスコが「人の意識は世界の形を変えられるのだ」と気づくところから始まります。殺人事件の真相は、時空の歪みを作り出すことで被害者自身によって演出されたものだというのです。こうして一連の事件は荒唐無稽な解決を見せるのですが、物語はそれで終わりではなく、突如としてディスコの前に「黒い鳥の男」が現れ、「世界の形」が操作されて梢が誘拐されてしまいます。以降、ディスコは「折り返し宇宙論」という奇妙な科学理論の助けを借りながら、「世界の果て」で梢を救い出し、さらに大量に虐待されていた子どもたちを助けるために、「新世界」を創造してそこに移住することを決断し、物語は大団円を迎えます。

 このようにまとめてみても、全体像を把握することがきわめて困難な小説作品であることが了解できると思いますが、ここでは議論の焦点をぐっと絞り、作中において並行世界の概念が持ち込まれたことの意味について考えてみたいと思います。舞城の小説作品に並行世界の仕掛けが登場するのは『ディスコ探偵水曜日』だけではありませんが、この小説作品の後半部では、どのように並行世界(=「世界の形」)を具体化するのかということについて、やや過剰なほどに紙幅が費やされます。その記述のあり方を検討することを通じて、今回は舞城の不可思議な世界観の特質に迫ってみたいと思います。(✳✳✳)

(✳)福嶋亮大は、舞城の作品様式について「旺盛な語りの時空のなかで、舞城の主人公は節度を忘れ、理性を麻痺させ、暴力に対して無防備になる」と的確かつ簡潔に要約しています(『らせん状想像力──平成デモクラシー文学論』新潮社、2020.9)。

(✳✳)千街晶之は、『読み出したら止まらない! 国内ミステリー マストリード100』(日経文芸文庫、2014.3)のなかで、『ディスコ探偵水曜日』を日本ミステリ史上の「第五の奇書」(ちなみに、よく知られていると思いますが一応、ほかの4つは小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、夢野久作『ドグラ・マグラ』、中井英夫『虚無への供物』、竹本健治『匣の中の失楽』)に位置づけていますが、まったく前出の作品群に劣らぬ「奇書」にふさわしいものだと僕も思います。

(✳✳✳)かなり前の話ですが、『ディスコ探偵水曜日』について、僕は論考のようなものを書いたことがあります(「現勢する倫理、潜勢する論理──舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』論」『近代文学 第二次 研究と資料』第9集、2015.3)。これは修士論文の1章を切り取ったものであり、現在でもその内容自体に修正すべき点はないと思っているのですが、あまりに生硬な書き方が目立つので、今回はその論旨を踏まえつつ、全体の構成を大きくアレンジしました。なかなかアクセスしづらい学内雑誌に発表したものですが、内容に一部の重複があることをご了承いただければ幸いです。

「本格ミステリ」の文法

 まずは、『ディスコ探偵水曜日』における推理の特異性について確認しておきましょう。登場人物のひとり、八極幸有の台詞を引用します。

 「何故なら名探偵ってのは答を出す装置であって、いわば真実を照らす光そのもの、知性という象徴が具体化した存在です。だから本来、名探偵は一人で十分なんですよ。…真実が一つなら。実際僕にとっても他の人にとっても、これだけ名探偵が何人も集うような事件って初めてなんですよ。…果たしてこの事件に、本当の答えはあるんでしょうか?唯一の真実というものは?」

『ディスコ探偵水曜日』では、第Ⅱ部から第Ⅲ部にかけて、パインハウスという場所で起こる殺人事件について、複数の探偵たちが推理合戦を繰り広げる場面が続きますが、どれほど説得性のある仮説が提示されようとも、殺人事件が真の意味で解決を見せることはありません。それぞれの探偵たちの推理は、一見したところしっかりと筋が通っていて、それ自体で完結しているにもかかわらず、別の探偵が別の手がかりから新たな仮説を提案するたびに、結局のところ、いま現在行われていた推理は失敗に終わってしまい、探偵たちは両眼を箸で貫かれるという恐ろしい罰を受けることになるのです。

 間違いを知っていた?…いや、この壁紙をめくるまで、嬉遊は本当に自分の推理を信じているように見えた。これで解決だと思ってたのだ。
 でもそうじゃなかった。
 八極の推理のときも同じだ。解決を完全に掌握したと思った瞬間、それはするりと手の内から消えてしまっている。

 このことから考えると、殺人事件の真相は、と言うべきではないでしょうか。ある探偵の推理が完結したかに見えた瞬間、あたかも示し合わせたかのように、その推理を転覆させてしまうかのような新しい証拠が浮上するのです。すなわち、本文の言葉を借りれば、以下のようになります。

 強い意志が運命を引き寄せるなら、ある出来事は、その鉄の意志の力で起こすことができるのだ。
 「つまり、こういうことにならないか?」と俺は言う。「お前ら名探偵はお前らの強い意志をもって、真相に辿り着いてるんじゃなく、真相を創ってるんじゃないのか?」

『ディスコ探偵水曜日』のなかでは、「この世の出来事は全部運命と意志の相互作用で生まれる」というフレーズが幾度も繰り返されており、物語全体を貫く思想的な紐帯となっていました。それは、殺人事件の真相もまた同様なのです。真実とは探究されるものではなく、創造されるものである──。ポストモダン思潮の洗礼を受けた今日の僕たちからすれば、比較的こうした発想は納得しやすいものだと思われますが、とりわけ探偵小説というジャンルの系譜において、それは少なからぬ重要な意味を持っていたようです。

 諸岡卓真は、城平京『虚構推理 鋼人七瀬』(講談社ノベルス、2011.5)という小説作品の読解を通じて、同作における「真実は常に「上書き」の可能性を胚胎している」という設定が、「本格ミステリ」という「ジャンルの基本的なルール」に変容を差し迫っていたことを指摘しています(「創造する推理──城平京『虚構推理』論──」『日本近代文学』第87集、2012.11)。伝統的な謎解きゲームとしての探偵小説において、絶対的な真実がたったひとつだけあるという条件は、ある種の規則ルールであり、その約束事を破ることは慎まねばなりませんでしたが、いわゆる「後期クイーン問題」(✳✳✳✳)を通過した後の「本格ミステリ」においては、そもそも真実の可変性・揺動性を含み込むかたちで、探偵小説というジャンルそのものへの自己言及的な小説作品が目立つようになったと言うのです。さしあたり舞城の『ディスコ探偵水曜日』は、その先鞭をつけるものであったとともに、よりラディカルに──何しろ新しい並行世界を創造するほどに──真実を「上書き」することが企まれていたと言えるでしょう。

 殊に最近では、「特殊設定もの」と呼ばれるミステリの作風が隆盛をきわめています。昨年(2020年)のあるインタビューのなかで、舞城も多く活躍した文芸誌『ファウスト』を創刊し、初代編集長であった太田克史は、「新本格ミステリーはコードを使っていかに華麗に弾くかが完成度の高さとされ、リストの超絶技巧練習曲を完璧に弾きこなすような人ばかりが牽引してきた」一方で、若い世代では「現実に何かもう一つ別のレイヤー(層)を足して、そこで物語を紡ぐ」ような「試行錯誤が本格ミステリーにも導入された」ことを指摘しています(「斜線堂有紀さん「楽園とは探偵の不在なり」インタビュー 天使が登場しても…堂々の本格ミステリー」『朝日新聞』2020.10.28夕刊)。次々と特異な超理論を導入し、既存の謎解きのゲーム盤自体を引っ繰り返そうとする『ディスコ探偵水曜日』の作品様式は、そういう意味で「特殊設定もの」の変奏ヴァリエーションと言えるのかもしれません。

 この点について、福嶋亮大は次のように指摘しています。

 探偵がいて、推理が可能な世界は、それだけで一種の完結性を備えている。この世界になおも問いかけを続けるのならば、推理を内在的に完成させる(あるいは破産させる)のではなく、推理への接し方を変えなければならない。そこにウェンズデイの「正しい推理」あるいは「誤った推理」を付け加えたからといって、何にもならないことははっきりしている。それゆえ、ウェンズデイはパインハウスの時空が多重化していることを指摘し、推理の前提そのものを変えてしまう。

(「神のいない小説──舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』論」『新潮』2008.9)

 この小説作品において「推理への接し方」を変えることは、そのまま「世界の形」を再設定することに直結します。福嶋は、引用部に続けて「舞城の意図としてはおそらく、ということ、よってその問いを組み込んだうえで、もう一度どれくらいうまくこの世界が機能するか試してみたいということなのである」と述べます(傍点原文)。つまり『ディスコ探偵水曜日』は、次々と開陳される推理の検討を通じて「時間性と空間性の様相」=「世界の形」の多面性を確かめようという、探偵小説における推理の射程を限界まで拡張した小説作品であったとまとめられるのです。

 実際、僕たちの世界が無数のイメージの集積体であるとすれば、その解釈のあり方を変容させることが、異なる「世界の形」の可能性を作り出すための必要条件ともなるでしょう。『ディスコ探偵水曜日』が提示したのは、そのような〝推理=創世〟とも言うべきパラダイムの発現でした。では、改めてこうした並行世界の創造手順から、僕たちはどのような含意を読み取ることができるでしょうか。

(✳✳✳✳)この問題については、色々な議論の展開があるのですが、ここでは探偵たちの推理の根拠を最終的に決定する審級を、物語内部の位相に求めることはできないという理解で構いません。

「世界を作ること」のパラドックス

『ディスコ探偵水曜日』における並行世界の作動原理について、長くなりますが非常に重要な登場人物たちの応酬を引用しておきましょう。

 「他人がいるからですよ。自分一人の世界だったらそれこそ何でもありかもしれませんね。でも他人はいる。だからこそ《共通理解》とか《常識》ってものができるし、それが世界を縛るんです。つまり、他人は世界を揺るがせもする一方、固定もしてるわけです、と言いながらも、最近、それこそ結構《何でもあり》じゃないですか?《梢》さんに起こってる出来事。パインハウスで起こってる出来事。《パンダラヴァー》の事件。ね?妙なことばかり起こってるでしょ」
 「だからお前の言う、《意識が世界を作ってる》ってのは間違ってるんだよ。どういう意識がこんなことを起こすってんだ。意識が世界を作るなら、これまでになかった新しい出来事ってのは起こらないはずじゃないか。一切の発見はありえないってことになるだろう。けどこの世の中に自分の思ってもみなかった発見ってありふれてるじゃないか」
 「意識は全く新しいものを作ったりするじゃないですか。芸術と同じですよ。画家の絵筆が全て思い通りのストロークで動くわけじゃない。作家の小説が思い通りの筋道ばかりを辿るわけじゃない。でもそこには思ってもみない一筆や、自分の意表をつく展開ってあるじゃないですか。(…)人は芸術作品を生み出すようにして、世界を《発明》していきながら、自分の住む場所を拡大していってるのかもしれない。ひょっとしたらそれが生きることの本質なのかもしれない」

 ここで言われているのは、いわゆる「発明のパラドクス」と呼ばれるものです。J・デリダが取り上げたことで著名なこのパラドクスは、ものすごく乱暴にまとめるならば、何かが「発明」されるためには、あらかじめ「発明」が新しい「発明」であることが共有される場が世界のなかに備わっていなければならない、しかしあらかじめ共有されているものは「発明」であるとは言えないというものです。(✳✳✳✳✳)何だか禅問答のような話ですが、このことが持つ哲学的意味について、郷原佳以の説明を引用しておきます。

 デリダが「プシュケー」において一貫して注意を促すのは、発見=発明インヴェンションが発見=発明として成立するためには、「人間の社会、文化、法といったシステムや秩序の内部で」安定をもたらすもの、つまり「地位ステイタス」が不可欠だということである。一方では、発明は予想外のもの、未聞のものもたらさなければならず、他方では、一定の秩序の内部で発明として認可される必要がある。その結果、与えられるのが発明の資格、すなわち「特許」である。

(「デリダの文学的想像力12 発明の再発明の夢──他なる語りのインヴェンション3」『みすず』2020.12)

 郷原は、デリダの論考の検討を通じて、「発見=発明」が何らかの先験的な「特許」を要請するものであることを指摘します。「発明」という行為には、それを「発明」であらしめるための規約があり、ある秩序体系のなかで再認を要求するものである以上、究極的には「を含み込んでしまうと言うのです。

 デリダ=郷原は、そのような隘路には陥らない仕方で「他なるものの発明」の可能性を考究していくのですが、その理屈はさしあたり措いておきます。非常に強引な結びつけ方となってしまいますが、ここでデリダ=郷原の言う「発明」を認可するもの(=「特許」)こそが、『ディスコ探偵水曜日』では人びとの「意識」であったと言えないでしょうか。ディスコは、もし「人の意識が世界を作る」のだとすれば、端的に「世界の果てとは人の意識の限界のことなのだ」と述べていました。世界は人びとのイメージの集積である以上、その拡がりの可能性は、おのずと創造のプラットフォームとなる各人の「意識」のあり方に制約されます。だからこそ、物語後半でディスコは、自身のイメージの操作を鍛えるためにさまざまな試行錯誤を重ねていたのです。

 実際のところ、僕たちはまったく新しい「世界の形」を「発明」することなどできず、並行世界の創造という営みは、どのような意味であれ、それを構成するイメージの基盤となるような思考の枠組みが必要とされます。ただし、それはディスコが言うように、単に「《意識が世界を作ってる》ってのは間違ってる」ことを意味しているわけではありません。逆説的なようですが、──システム論の用語を使えば「創発」(emergence)と言ってよいでしょうか──

 そのことは、結末の次のようなディスコの決断に象徴的に示されています。

 それからもう一つ、小枝にも言ってない秘密の希望がある。
 《ラグナレク》で新世界を見送ったとき、俺はこっそりちょちょいと細工をしておいたのだ。それはひょっとしたらやっちゃいけないことだったのかもしれないけれど、まあ咄嗟の衝動だったのだ。
 実は、あのとき俺はこの腐りゆく旧世界の始まりと終わりのくっついてる構造を思い出し、新世界のほうも無理矢理輪っかにしてくっつけてしまったのだ。二つの世界をそれぞれリング状にしてお互いの輪の中を通るようにして…。

「新世界」の創造にあたって、「旧世界」は単に乗り越えられて捨象されるべきものではなく、むしろその裏側にぴったりと貼り付きながら、「新世界」の存立機制をひそかに支えています。これは、僕たちが並行世界を想起する仕方そのものの寓意となりえてはいないでしょうか。現実世界と並行世界のあいだには、どのような形態であれ何らかの通路があり、その通路を往還することこそが真なる創造/創発の発動条件であることを、作中におけるふたつの世界の存立構造は暗示しているように思えます。

 その意味で、僕たちは並行世界への夢や憧憬を語ろうとしますが、結局のところそれは、良くも悪くも現実世界の写し身に過ぎないと言ってよいでしょう。ただし、それは並行世界が現実世界に劣り、現実世界に奉仕するだけの存在であることを意味しているわけではなく、むしろディスコと同じように現実世界に深く沈潜し、その唯一性・特権性のあり方を徹底的に考え抜くことこそが、を導く鍵であることを示してもいるのです。

 上記のような背理を肯定することができるならば、並行世界にほかならぬ「」性を抱くこともまた、さほど不自然ではないことが了解できるでしょう。現実世界にせよ並行世界にせよ、その解釈=推理によって「世界の形」が自在に改変可能であるかのような「意識」のあり方が、少なくとも『ディスコ探偵水曜日』では承認されていました。それは、どうしようもなく現実世界の唯一性・特権性を疑ってしまう人びとにとって、やはりある種の救済となりえていたのではないでしょうか。

 その後の舞城は、冒頭でも述べたように幾度も芥川賞候補となっていますが、結局2021年現在時点で受賞には至っていません(個人的には、舞城が覆面作家でなければとっくに受賞していたのではないかと思いたいのですが……)。一方で、近年では作画を大暮維人が担当したことで話題となった『バイオーグ・トリニティ』(集英社、2013.1~2018.1)という漫画作品や、NHKBSプレミアムで放送された『龍の歯医者』(鶴巻和哉監督、スタジオカラー)というアニメーション作品の原作を努めるなど、精力的な活躍を見せています。どちらかと言えば、ゼロ年代に比べると穏当な作風が目立つようになりましたが、それでも『ディスコ探偵水曜日』において真実の可変性を認め、あるべき「世界の形」を何度でも作りなおそうとするディスコの態度は、「本格ミステリ」というジャンルに対する批評的視座を持ちえていたとともに、僕たちが並行世界を想像=創造することの理屈を、きわめて示唆的に開示していたように思うのです。

 次回は、東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、2009.12)を扱います。

(✳✳✳✳✳)デリダは、「発明」(invention=inventio)という言葉の語源に遡り、「発明」の一回性そのものが不可避的に反復を要請することの逆説を論じているのですが(そして、そこが最もデリダの議論の魅力的なところなのですが)、ここではきわめて粗雑なかたちでそのアイディアを借用しています。デリダの主張の詳細が気になる方は、『プシュケー──他なるものの発明Ⅰ』(藤本一勇訳、岩波書店、2014.6)をご覧ください。

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