村上春樹訳の『ティファニーで朝食を』(新潮文庫)を最近、読み直した。それで、村上がこの小説を好きだというのが、わかるような気がした。初読の時にも、新人女優、ホリー・ゴライトリーの印象が鮮やかだったが、今回読んでみて、村上の描く女性登場人物たちの特徴、あるいは語り手の男性と女性との関係に、何か共通点があるように感じたのだ。
ホリー・ゴライトリーはニューヨークの富裕な男たちと付き合って生活している。男性たちと食事をしたり、デートをしたりして、「パウダー・ルーム代」と称した少なくないカネを受け取る。新人女優ではあるのだが、その実態は広い意味でパパ活女子のようでもあるし、体のいい娼婦のように見えないこともない。セレブの間を泳ぎ回っている感じだ。
ところで、この女性について考える時に、大急ぎで強調したいことがある。それは映画「ティファニーで朝食を」(小説刊行三年後の一九六一年に公開)において、ホリーを演じたオードリー・ヘップバーンのイメージを一回、頭から拭い去る必要があるのではないか、ということだ。
確かに映画は大ヒットした。今、観ても、けっこう面白い。村上は「訳者あとがき」で「小粋なラヴ・コメディーに仕上がって」いると指摘している。しかし、カポーティーは明らかに、ホリー・ゴライトリーをヘップバーンのようなタイプの女性として設定していないというのだ。実際、カポーティーは主演女優を聞いて、少なからず不快感を表したらしい。村上の言葉を引用しよう。
おそらくホリーの持っている型破りの奔放さや、性的開放性、潔いいかがわしさみたいなところが、この女優には本来備わっていないと思ったのだろう。
こういう言葉もある。これは村上自身の小説を読む時の読者の心がけのようにも思える文章だ。
「ホリー・ゴライトリーという女性はいったいどんな姿かたちをしているんだろう?」と一人ひとりの読者が、話を読み進めながら想像力をたくましくすることが、このようなタイプの小説を読むときの大きな楽しみになってくる
述べられていることは、よくわかるような気がする。私も、ホリーというと、黒いジバンシーのドレスを着たヘップバーンの姿をついつい想像してしまうのだ。今回、とにかく、ヘップバーンの肖像を頭から消して、ホリーの姿を想像の中に追い求めようと思った。
なかなか難しいことだが、ヘップバーンの演じた女性より、もう少し、したたかで、クレバーで、得体の知れない、陰のある感じの女性なのではないか。生命力が強くて、野性味がある女性なのではないか。でも、孤独で、彼女の自由を求める思いは空回りしているのではないか。
ヘップバーンが軽やかな妖精のような印象を帯びているとすれば、もっと複雑な過去を背景にした居場所のない女性なのではないか。透明感を漂わせるヘップバーンに対して、ドレスで陽光に灼けた跡を隠しているのではないか。そんな想像を抱いたのだ。
ホリーの正体はニューヨークに訪ねてきた彼女の夫によって明かされる。彼は南部のテキサス州チューリップ近郊からやってきた。
獣医をしているという彼の話によると、ホリーは十四歳になろうという時に、兄と二人で飢えているところを彼に助けられたという。きょうだいの両親は結核で死んだらしい。そして、子供が四人いる彼の後妻になった。恵まれた生活をしていたが、都会にあこがれて、脱け出したという。
南部には住みたくないし、ニューヨークの社交界にも入れない。つまり、住む場所がない。隠している悲惨な過去。ひとりぼっちで寄る辺のない人生。生まれ変わろうとしても、それは不可能。でも、必死で生まれ変わろうとしている。ホリーが体現しているのは、そんな人生だ。ティファニーの華やかな空間にあこがれながらも、夢はかなわない。
そんなホリーの意外な側面がある。実は彼女は図書館に入り浸る時間を過ごすことがある。この小説全体の語り手である作家志望の「僕」はホリーが図書館にいて、ラテンアメリカに関する様々な本を読んでいたのを目撃する。意外な勉強家なのだ。
ブラジル人外交官と付き合っていることから、ラテンアメリカの予習をしていたのだろう。しかし、おそらくは、ブラジルも安住の地ではないだろう。アメリカ南部、ニューヨーク、ラテンアメリカ。彼女は逃走を続けるが、落ち着ける場所には決してたどり着けないだろう。そんな予感を小説全体はにじませている。
かなり常識人で、カネにも地位にも、ガツガツしない男性の語り手。彼はあまり強くはないけれど、いいヤツな感じがする。彼はホリーに好感(性的な感じはしない)を持ち、見守るのだが、彼女の正体はわかりにくい。こちらがつかまえようとしたら、手からすり抜けるホタルのように。彼女は必死に何かから逃げようとしているけれど、どこに逃げても、居場所は見つからない。誰にも束縛されたくない。誰も束縛しない。ネコは好きだが、名前は付けない。実は図書館が好きで、本というものの値打ちはよく知っている。
村上の語り手(主人公)は女性に対する性的欲望を隠そうとしない。しかし、それを除けば、ホリーのような女性のあり方、そして、こういう男女の関係は、どこか、村上春樹的なところがあるといえないだろうか?








