自分を変えるためのエッセイ作成術|第9回 センテンスを短くするという「魔法」|助川幸逸郎

大学受験生だった三十年あまり前のこと。

かよっていた予備校の講師から、私はこんな叱責を受けました。

「おまえの作文は、ワンセンテンスが長すぎる。『二百字以内で答えなさい』という問題に、たった二つの文で回答したりしている。センテンスが八十字を越えそうになったら、かならずそこで切るようにしろ。それを心がけるだけで、見ちがえるほどいい文章が書けるはずだから。」

そういわれて私は、その講師の「真意」をすぐさま理解できたわけではありません。ただ、「一文が八十字を越えたら絶対アウト」という一句は、奇妙に心にのこりました。

このとき私が何を教えられたのか――はっきり納得できたのは、大学院に進んで「学術論文」を書くようになってからです。

たんなる「思いつき」ではなく、「研究」の名に価するものを著すのに必要な条件。それをひとことでいうのは難しいのですが、「用語を厳密に定義すること」が欠かせないのはまちがいありません。そして、あることばをどういう意図で使うか、きっちり説明しようとすると、センテンスはどんどん延びていきます。

桐壺更衣・藤壺中宮・紫の上という、『源氏物語』の主要女性人物三者のかかわりを示すタームとして、これまでに様々な論者が問題にしてきた「紫のゆかり」は、「神話」や「伝承」に根ざした着想にいかに現実味を与えるか、という、『源氏物語』が書かれた時代の物語文学に課せられた難題を解決する手段として観た場合、「死者の甦り」や「人形に生命を与えること」を、リアリズムの枠内で解決する方法の一種であると認めることが可能である。

大学院に入りたてのころ、私が書いた文章の冒頭部分です。欲ばってあれこれ説明しようとして、ひどくわかりにくいものになっています。

「どれが主語でどれが述語なのか」

「修飾語と被修飾語の関係がどうなっているか」

そうした点が、一読したぐらいではまったく頭に入ってきません。

右に引用した箇所を、現在の私ならこう書きます。

「神話」や「伝承」に由来する着想を、いかにして「現実に起きそうなこと」として作品化するか。『源氏物語』が生み出された時代の物語文学は、そういう課題を抱えていた。
『源氏物語』正編には、容貌のよく似た三人の主要女性人物が登場する。桐壺更衣、藤壺中宮、そして紫の上。これら三者のかかわりは、「紫のゆかり」と呼ばれ、これまでにもさまざまに論じられてきた。
「ジャンルが直面する難局」を突破する方法。本稿では「紫のゆかり」に対し、こうした角度から考察をくわえてみたい。
死者が甦る、人形が命を得て動きだす――その種の「現実には起こらない話柄」を、リアリズムに落としこむ「方便」として、「紫のゆかり」を見ていくわけだ。

センテンスを短くしたことで、「読みすすめるうえでの抵抗感」が減ったと思うのですが、いかがでしょうか。

「一文の長さを制限するメリット」は、それだけにとどまりません。

ひとつの文のなかにさまざまな要素を詰めこむと、それぞれがどのように関連しているかが曖昧になります。いくつかの短い文にそれを分割すれば、どういう順番でそれらを並べるか、改めて考えなおす必要が生まれる。そのことが、そこでのべようとした内容の論理構造を、より明確にしめす結果につながるのです。

私の文章の場合も、「修正後バージョン」のほうが、何がいいたいかハッキリ伝わるのではないでしょうか。

「『紫のゆかり』が、『神話』や『伝承』をリアリズムに落としこむ方法であったことをここで検証する」

冒頭でそれを告知するという意図が、「修正前バージョン」ではぼやけているはずです。

長すぎるセンテンスを短く分割すると、めざましい改善がもたらされる。その典型のような事例に、さいきん私は出会いました。

次に掲げるのは、「これまでもっとも印象にのこったアニメ以外の映画」について、学生さんに書いてもらった文章です。

僕はふだん見るのはアニメばかりで、テレビでもそうなのだが、いちばん最後に映画館に行ったのは、親がどうしても見たいと言ったので見に行った『007 スペクター』だった気がします。この映画は、ボンドがアクションで活躍するシーンがたくさんあり、アクション映画好きにとっては見どころだらけで、メカやクルマも最新で映像もいろいろ凝っていて楽しめたが、親はショーン・コネリーのボンドが好きで、昔の007のDVDもたくさん持っていて、ダニエル・クレイグは好みでないと言っていました。僕はダニエル・グレイグも体を張ってアクションをやっていて十分カッコイイと思ったが、親にいわせると「ダニエル・クレイグは悪党ヅラをしている」ということになるらしく、気にくわないと言っていて、親子で意見があわなかったのと、オバサンのボンドガールが出てきて、どうしてあんなオバサンとボンドが仲よくなったのか不思議でした。そういうこともあって、『007スぺクター』は印象に残っています。

 

この文章は、いくつかの点で修正を必要としています。

まず、「だ・である」調と「です・ます」調が、ひとつのセンテンスのなかで混在している箇所が多数。それから、「意見があわなかったのと」の「と」は、何かと何かを並立させる助詞のはずです。なのに、「と」の前の「意見があわなかった」に呼応する部分がありません。

私は、これらの問題点を学生さんに伝えたあと、こうアドバイスしました。

「ワンセンテンスをせめて八十字、できれば六十字以内に収めるようにしてごらん。それから、何回か改行して、形式段落をもうけること。」

翌週の授業に、この学生さんは「改訂版」を携えてあらわれました。

僕はふだん見るのは、映画館でもテレビでもアニメばかりです。いちばん最後に映画館に行ったのは、親がどうしても見たいと言ったので見に行った『007 スペクター』だった気がします。
この映画は、ボンドがアクションで活躍するシーンがたくさんあり、見どころだらけです。メカやクルマも最新で映像もいろいろ凝っていて、アクション映画好きの僕としては楽しめました。
でも、親はショーン・コネリーのボンドが好きで、昔の007のDVDもたくさん持っています。そういう親から見ると、ダニエル・クレイグのボンドは好みでないようでした。僕としては、ダニエル・グレイグも体を張ってアクションをやっていて十分カッコイイと感じます。しかし親にいわせると、ダニエル・クレイグは「悪党ヅラをしている」ということで、気にくわないようでした。
それから、オバサンのボンドガールが出てきて、どうしてあんなオバサンとボンドが仲よくなるのかが不思議でした。そういう納得出来なかった点があったのと、親と意見があわなかったこともあわせて、『007 スぺクター』は印象に残っています。

全体が整っていて、「改訂前」とは比較にならない出来ばえです。

センテンスを短く切れば、そのなかで「だ・である調」と「です・ます調」が混じることは自然と避けられる。また、書き手というのは、新しく文を始めるごとに前後のつながりを意識するもの。ということは、「呼応させるべき表現」を見落とすリスクも、文を短く区切るにしたがって低下するのです。

一文の長さを切りつめると、それ以外のことは意識しなくても、一気に文章の完成度があがる――こんな「魔法」を、実践しない手はないと思います。

 

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