書評『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(石井光太著 文芸春秋 2022年7月刊)

文部科学省 教科書調査官(体育) 渡辺哲司

1.はじめに(本稿の位置づけ)

本稿は、先に甲斐睦朗氏が標記の書籍(以降、本書)について執筆した書評(2022年11月15日、ひつじ書房ウェブマガジン『未草』掲載)を踏まえて書くものである。そこで本稿の執筆者である渡辺(以降、私)は、甲斐氏の書評に記されたこと(例えば、本書の章立て等について)は書かず、もっぱら記されなかったことのみを書いていく。読者は、必要に応じて甲斐氏の書評を参照されたい。

2.本書のほんとうのキモは──

甲斐氏は、本書の著者である石井光太氏の思い──教育格差の下位に“置いて行かれた”児童・生徒を何とか救済したいとの思い──に気付いていた(甲斐氏書評の節3)が、その思いに直接つながる本書の部分、具体的には第一章および第三~六章を、書評の中でほとんど取り上げなかった。なぜなら、甲斐氏にとって、日本の国語教育や公立学校での教育、さらには《国語力》に関する石井氏の理解不足や誤解があまりにも「気になる」ものであり「正しておきたい」ものであった(同書評の節6)からだ。そのような甲斐氏の反応は、氏が日本の公教育(学校)制度下で積み重ねられてきた国語教育に長く、深くたずさわった人であることを考えれば当然かもしれない。

しかし、私が見るところ、本書のほんとうのキモ(意義と魅力)は、そうした、甲斐氏がほとんど取り上げなかったところにある。さらには「国語力を殺す」という煽情的なフレーズも、序章に記された(衝撃的な)エピソード──小学生による『ごんぎつね』の(一見おぞましい)誤読──も、そうした「ほんとうのキモ」へと読者をいざなうための仕掛けであったと見る。

では、私が見る「ほんとうのキモ」とは何かといえば、それはずばり、教育格差(石井氏が終始一貫「家庭格差」と呼ぶもの)と言語能力との関係である。石井氏は、言語能力が人々にとって世間を生き抜くための力であること(逆に、それを欠いては世間を生き抜くのが難しくなること)を鋭敏に感じ取っている。教育格差(および、それを包含する広範な社会的・経済的格差)は、現在日本の人々にとって身近な重大問題である。そして氏は、その問題を追及するにあたって、ネット(SNS、ゲーム)や少年非行/犯罪といった、既存の公教育(学校)制度の枠をはみ出すようなテーマにまで躊躇なく“突っ込んで”いく。その勢いと迫力は、研究者による学術的調査などとは一味も二味も違った、まさにルポライターの本領発揮だ──と私は好意的に受け止めている。

ただし、そのような私の見立て(本書の「ほんとうのキモ」のありか)が当を得ているならば、やはり《国語力》というあいまいな語を前面に押し立てたことは著者側(本書の作り手たち)のエラーだと言わざるを得ない。押し立てるなら、それ(国語力)よりも、本書の中で著者自身が頻繁に用いている「言葉を持つ」や「言語化できる」といった表現のほうが適切(国語界や教育界の人にとっても受け入れやすい)であろう。

その「エラー」については、本稿の末尾(6)で再び触れる。

3.最適のタイトルではない

上記のようなわけで、私が本書の一読後に感じたことを一言で表すと──「ルポ 誰が国語力を殺すのか」というタイトル(表題)は本書にとって最適のものではない。それがこの書評の要点である。

ルポとは、人々に事実を伝え、意見を述べるために書かれる実用の文章であって、いわゆる文学的な文章ではない。よって、そのタイトルは文章全体の最も簡潔な要約であるべし──という世界的な一般教則に、本書も従うべきである(はずだ)。

ところが、私の見るところ、その教則に本書のタイトルはむしろ背いている。ポイントは2つ。1つ目は、上記の(2で述べた)とおり、本書のほんとうのキモが「誰が国語力を殺すのか」とは別にあるように見えることであり、2つ目は「国語力」「殺す」という語がどちらも適切ではないことである。

そこで、続く2つの節では、タイトルに含まれる「国語力」「殺す」の2語の不適切さについて私の見解を述べていこう。

4.「国語力」は不適切

まず「国語力」は、甲斐氏の書評(節4-3)からも察せられるように、漠然と広い意味を持つあいまいな語であり、いまだ確固たる意味を持たぬ未成熟な語である。つまり、それに含まれうる要素は数多くあり、その意味は使う人の立場や見方によって異なる。

そのような「国語力」の意味を、石井氏は、いちおう文部科学省の定義なるもの(正確には、文化審議会が提唱した国語力の「とらえ方」「構造」)を柱としつつも、自ら定義することはせず、ただ「狭義の読解力と違って、想像力や情緒力なども含んだ感覚的なもの」(第一章:p. 32)とのみ記す。さらに、そうした状態のままで教員たちに「子供たちの国語力が不足していると思うかどうか」と尋ねたりしている(同)。それらのことから、石井氏自身は、国語力が何を意味するかは“人それぞれ”でよい──と考えているものと推察できる。

かくして、広範な国語力に含まれうる数多くの要素のうち、本書を読み終えた私が「たしかに“殺されて”いるかもしれない」と思ったものは、一つしかない。それは、いうなれば、自分の感情や経験を言い表す力である。第一章や第三~六章に登場する子どもたちはみな一様に、自分の感情や経験を言い表すことができていない。それはたしかなのだが、そのように限られた要素だけが“殺されて”いることをもって広範な国語力をうんぬんされても、私のような(言葉の定義にうるさい)読み手は当惑するばかりだ。その点について、詳しいことは後続の《殺す》をめぐる議論に織り込んで述べるとしよう。

5.「殺す」も不適切

(1) 『ごんぎつね』の誤読について

次に《殺す》である。この語は「低下させる」「喪失させる」をあえて刺激的に表そうという意図をもって選ばれたものだろう。そして、実際に国語力が“殺されて”いるようすを端的に表し、読者の問題意識を搔き立てるねらいをもって本書の冒頭(序章の第1節)に置かれたのが、くだんの──甲斐氏の書評でも最初に取り上げられた──『ごんぎつね』誤読のエピソードなのであろう。

その『ごんぎつね』誤読のエピソードこそ、国語力そのものとは言わずとも、書かれていないことを察する(いわゆる行間を読む)力の低下/喪失を端的に表すものだ――と石井氏は言いたいのであろうが、私の見るところ、このエピソードは国語力の一部分でも低下/喪失していることを示してはいない。冷静に読めば、このエピソードは、持っている常識がひと昔前の日本人とは異なる人(現在日本の小学4年生)たちらしい、自然な推論を示しているにすぎない。

現在日本の葬儀、なかでも石井氏の取材地であった東京(都会)のそれは、かつての村落におけるそれとは違う。すなわち、葬儀専用に設えられた公共の場(葬祭場)で、専門業者の差配によって万事システマティックに運営されるイベントである。そのイベントの中に『ごんぎつね』に描かれているような情景──死者の居宅に近所の人たちが集まり、参会者の供応接待から遺体の処理まで共同でとり行うようす──は見られない。

そのため、くだんの子どもたちが、兵十の母の葬式で「大きななべの中では、何かぐずぐずにえて」いたと聞いて(読んで)も、それが何のためかわからないのは仕方がない。わかるためには、事前に昔の葬儀のありようを知っていなければならないわけだから。

さらに言えば、そんなふうに「わからない」中でさえ、子どもたちは既有知識を活用して論理的に考え、妥当な推論をしていたと言える点にも目を留めたい。ここでの既有知識とは、①遺体をそのままにしておいては衛生的によくないこと、②ものは煮沸すれば消毒できること の2点である。そして推論とは、遺体を大きな鍋で煮るのは消毒のため──と考えることだ。この推論におかしなところは少しもない(たとえ、実行するのはおぞましいと感じるとしても)。

それゆえ、この『ごんぎつね』誤読のエピソードから子どもたちの「書かれていないことを察する(いわゆる行間を読む)力」が低下・喪失していることを、まして国語力が“殺されて”いることを、読み取ることはできない。読み取れるのは、世代間の常識の違いに旧世代側の人々が驚いた、ということだけである。

(2) PISA型読解力について

さらに《殺す》をめぐる議論を続けよう。石井氏は、いわゆるゆとり教育を読解力低下の一因と見て(第二章)、それに絡める形でPISA(OECD生徒の学習到達度調査)に言及した。その際、PISAにおける日本の平均得点と順位を時系列グラフに描いたうえで「ゆとり教育の開始と同時に順位が低下しているのがわかるだろう」と述べた(p. 87)。しかし、なぜか、順位算出の基になる参加国・地域数が2000年の32から2018年の79へと増えたことには触れなかった。そのため説得力がいま一つ……というのはさておき、ここでは、くだんのグラフから平均得点や順位の低下トレンドを読み取れるのは「数学的リテラシー」「科学的リテラシー」の2つであって「読解力」ではない、ということのみ押さえておこう。

それよりも気がかりなのは、PISAでいう読解力(以降、PISA型読解力)の中身──どのような力がどのように測られるか──を石井氏がどれほどわかっているか、である。中身がわからなければ、パフォーマンス低迷の理由も打つべき対策もわからない(はずだ)。

まず、PISA型読解力とは基本的に“書かれていること”を読んで理解する力である、というのがポイントだ。つまり、『ごんぎつね』誤読のエピソードで問題となる“書かれていないこと”を察する力とは別物である。

次に、書かれていることを読んで“どのように”理解するかもポイントだ。そのための手掛かりを与えてくれるのが、PISA2018の実施後に公開された問題例[ラパヌイ島](文献1)である。これが唯一の公開問題であることから察すると、実施者は、これを見ればPISA型読解力とは何かが具体的にわかるはず──と目論んでいたに違いない。そして、実際にこの問題を見ると、PISA型読解力とは、日本人が「ああ、あれね」と簡単に言えるものではなさそうだとわかる。

例えば、問題[ラパヌイ島]の問(小問)3で受験者(各国の15歳)たちは、1点の書評から抜き出された5つのセンテンスを事実(fact)か意見(opinion)かに判別するよう求められた。具体的に、1つ目のセンテンス:

本書には、自らの選択とそれが環境に与えた影響によって崩壊したいくつかの文明について書かれている。

は、誰もが「本書」を見れば記述の真偽を確かめられるであろうことから、〈事実〉に判別するのが正しい。「そこには事実が書かれている」と理解するわけだ。一方、2つ目のセンテンス:

中でも最も気がかりな例が、ラパヌイ族である。

は、個人的な(人によって異なるのが当たり前であるような)感情を表す語「気がかり」が含まれていることから、〈意見〉に判別するのが正しい。上記に倣えば、「そこには意見が書かれている」と理解するのである。

このような問は日本ではいまだ珍しいせいもあってか、結果として、日本の15歳たちの正答率(5つのセンテンスすべてを正しく判別できた人の割合)は44.5%と、OECD平均の47.4%を下回った。他方で、読解力テスト全体を通じた日本の正答率(61%)はOECD平均(59%)を上回り、同じく順位はOECD加盟37か国中の11位と、相対的に上位であった(文献2)。以上のことから、この問3は、とりわけ日本の15歳たちにとって難しいものだったと言えるだろう。

そうした[ラパヌイ島]問3のパフォーマンス(できばえ)から、日本の15歳たちは「事実と意見の区別」を苦手にしていると察せられるわけだが、では、それを苦手にしているのは15歳だけかといえば……答えはたぶんNOである。きっと、大人たちが同じ問に挑んでも同じ結果になるだろう(誰か実験してみてほしい)。なぜなら、日本の地位ある大人たちの公的発言の中にも、事実か意見かはっきりしない例は“掃いて捨てるほど”あるからだ。そして、その理由はやはり、これまで日本で「事実と意見の区別」がきちんと教えられてこなかったからに違いない。

それに対して、OECDの中心的な加盟国である西洋諸国(ヨーロッパに文化的ルーツを持つ国々)の人にとって、「事実と意見の区別」は目新しい課題ではないようだ。現に、事実と意見の区別──事実と意見を各々にふさわしい表現ではっきり言い分けること──を、広範な言語技術(language arts)の基礎として、公教育の中で幼時から青年期まで一貫して学んでいるようすが、さまざまな情報から窺い知れる(文献3)。

よって、国際的な視点から見れば、日本人にとって「事実と意見の区別」は昔からずっと苦手な課題であったと考えられ、そのパフォーマンスが21世紀になって急に低下したとは考えられない。事実と意見の区別は、古代ギリシャ・ローマの法廷や広場における演説や議論の技術(弁論術)に根差す今日の言語技術の、まさに基礎をなす。そして、PISA型読解力は、そうした「今日の言語技術」に立脚している。──とこう考えてくると、PISAの読解力調査で日本のパフォーマンスがずっと“いま一つ”であるわけも、結構わかりそうな気がする。

はたして石井氏は、以上に述べたようなことを踏まえてPISAに言及したのだろうか(答えはたぶんNOである)。

6.おわりに(私が望むこと)

以上のように、本稿では、本書のタイトル(表題)を最適なものではないと批判し、タイトルに含まれる「国語力」「殺す」の2語が不適切であることを長々と指摘してきた。しかし、その一方で私は、先に(2で)述べたとおり、本書には他に比類のない意義や魅力があるとも感じている。

だからこそ、(すでに後の祭りではあるが)著者の石井氏には、「国語力」というあいまいな語や「殺す」という煽情的な語を前面に押し立てるのではなく、われわれ一般人があまり目を向けない現場に果敢に“突っ込んで”得た生々しい情報を、文字通りのルポとして──“名は体を表す”タイトルを付けて──伝えてほしかった。

もしも石井氏がほんとうに、世間を生き抜く力としての国語力をすべての子どもに授けたいと思うなら、教育界の人、中でも国語教育界の人をできるだけ多く味方につけなければいけない。なぜなら、現下ほぼすべての子どもにアプローチできる場所(社会的装置)は学校しかなく、その学校で展開する教育の担い手(教育界の人)たちこそが国語力育成のカギを握っているのだから。そもそも「すべての子ども」へのアプローチにはとても多くの人の手が必要である以上、教育界の中をあえて現場教師と教育行政とに分断するかのようなことを言うのもいけない。

しかし、現状では残念ながら、石井氏の思いは、肝心の教育界の人たちに広く受け入れられてはいない(率直に言えば、少なからぬ人々の反発を買っている)。その主たる原因は、もちろん、石井氏自身が前面に押し立てた「国語力を殺す」という過激なフレーズにある。そのフレーズのおかげで、書籍を売るという小功は挙げられただろうし、議論を起こすという中功も少しは挙げられたかもしれない。しかし、そもそもある問題の解決に資するという大功を挙げられる見込みは小さい──と私は見る。なぜなら、広く教育界の人々を味方につける力を欠いているからだ。

そこで、やや“お節介”ではあるが、本書よりも少し前(2022年5月)に刊行された1点の書籍──竹内明日香『すべての子どもに「話す力」を』英治出版──を紹介したい。それはまさに、教育界の外側にいる人が内側の人たちとうまく折り合いをつけつつ子どもたちの言語能力育成に取り組む事例を示している。著者の竹内氏はビジネス界の人であり、これまで国際的な仕事の場で「話す力」が無いばかりに憂き目を見る日本人を数多く見てきた。そうした経験をもとに、彼女は、日本各地の学校を訪れては子どもたちに「話す力」を授けようと取り組む。その成果は、子どもたちの自信と行動力と、さらには学力の向上に表れるという。そんな竹内氏もまた(石井氏と同じように)、言語能力が人々にとって世間を生き抜くための力であることを鋭敏に感じ取っている。そして「すべての子どもに」というフレーズに教育格差への挑戦というスピリットを込める。

その書籍(竹内著)の詳細は書籍そのものに譲るとして……どうだろう。このような(竹内氏、そして石井氏のような)人が教育界の外側にいて、その人たちと教育界の内側にいる人たちとが互いの知恵と力を出し合って協力することができれば、さしも重たい問題解決の扉も少しずつ開いていくのではないだろうか。そんな漠然とした期待を、日本の言語教育に重大な関心を寄せるしろうとである私は、本書の通読後に抱いたのである。

文献

1. 文部科学省/国立教育政策研究所(2019)「OECD 生徒の学習到達度調査(PISA): 2018 年調査問題例」(https://www.nier.go.jp/kokusai/pisa/pdf/2018/04_example.pdf

2. 国立教育政策研究所(2019)『生きるための知識と技能7:OECD生徒の学習到達度調査(PISA)2018年調査国際結果報告書』明石書店

3. 渡辺哲司・松濤誠之「PISA型読解力と言語技術教育」『木下是雄と学習院「言語技術の会」』アマゾンPOD、2021年:pp. 132-139

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