〈社会システム〉として言語教育を観察していく| 第二回:学習による成長とは何か?いわゆる〈主体〉とは何か? —変容しつづける人と社会— |新井克之

いったい、なぜ、第二言語を学ぶのか。このあまりに素朴な疑問に、わたしたちはひとまず、こう答えてみる。仕事や進学のため、留学のため、将来や今後の生活に備えるため……しかし、考えれば考えるほど、はたしてその答えは、どうだろうか。ほんとうに、わたしたちは、純粋に仕事、進学のためだけにTOEIC等の各種試験を受け、その結果に一喜一憂しているのか。純粋に心からそうなのだろうか。

それとも、それはなにか、わたしたちの成長のあかしだろうか? 成長? では、その成長とは何か。言語教育による学習者の成長とはいったいなんだろうか。第二言語を学習とはいったいわたしたちの何が成長するのか。もちろん、ルーマンをよりどころとして、その問いについて、考えていきたい。

第二言語学習による成長とはなにか。その問いから、まず本稿では第二言語教育の目指す点を「学習言語を使用して円滑にコミュニケーションすること」と設定したい。わたしたちが、読み、書き、聞き、話すことは、目の前の誰か、もしくは時空間を越えて、ことばを用いてコミュニケーションすることを指す。むろん、ことばを使わずに表情、態度、ジェスチャーによってもコミュニケーションすることは可能ではあるが、やはりことばとは、わたしたち人間のコミュニケーションにとって重要な要素だ。ことばによって世界を認識し、他者とも交流する。この社会が成立するうえで、ルーマンはコミュニケーションこそ、不可欠要素とみなす。いいかえれば、そこにコミュニケーションがなければ、社会とは存在しえない。

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人間とは社会的な動物である。また、コミュニケーションすることなくして人間は、生きぬいていけないだろう。両親、家族、親戚、村、市区町村、学校、会社……ありとあらゆるさまざまなコミュニティにこの世界に生を受けた人々は縦横無尽に所属し、コミュニケーションしながら成長していく。そしてまたさらに、ことばとは、歩くことや走ることと同様に生得的に獲得される。人々はコミュニケーションによって、自然に言語運用能力を獲得していくのである。

そのいっぽうで、第二言語の獲得となると、そう簡単にはいかない。生得的に自然に獲得するのは難しくなる。第二言語の獲得には人為的な努力が不可欠であり、それなしでは成り立たないのである。それゆえ、人為的に計画されたカリキュラムや教授法によって、わたしたちは言語を学習している。そうして、あるものは挫折し、また、あるものは母語話者と遜色ないほどの言語能力を獲得することに成功する。

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ではこれまで、どのように第二言語を教えあい、学んできたのか。従来、言語学習分野においては、言語そのものの構造を重視した教育、すなわちソシュールのいうラング[1]が当たり前のように重視されてきた。言語の発話者の内面よりむしろ言語そのものに着目し、その構造を学ぶことで、学習者自身で理解、表現できるようにしていく。ときには学習者の第一言語と比較しながら学んでいく。

しかしながら、あまりにも言語の構造に着目しすぎることで、学習者の内面がおろそかになり、いくら言語構造を学んでも、実際のコミュニケーション場面での学習効果がみえてこない。どんなに筆記試験で高得点を取ったとしても、その学習言語でのディスカッションが成立しなければ意味がないではないか。そういったような学習内容がコミュニケーションの成立には直接的には結果に結びつきにくいといった批判が生じる。それゆえ、やがて、ことばの構造から、ことばの概念や機能が重視されていき、コミュニケーションの成立を学習目的とする言語教育が1970年代以降より80年代にかけて台頭してきた[2]。そこでは、教える側の言語教師よりも、むしろ「学習者主体」「学習者中心」に言語教育を行いコミュニケーションの成立が到達点となる。

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ここで話題となるのが「主体」である。これまで自明のように「主体的な学習」、「主体性をもった行動」等をわたしたちは教育分野で語ってきたが、はたして、この主体とはいったい何か。本稿では、この問いを第二の問いとする。突きつめていけば、この主体とはいったい何を指すのか。

まず、第一に考えられるのは、「教師主導」の対概念としての「学習者主体」である。教師主導で知識を受け身のまま受け入れていく学習者に対する学習者主体であることがいえるだろう。この場合は、教師と学習者の関係性があり、教師が主体的に知識を学習者に伝授するという活動にたいしてのアンチテーゼとしての「学習者主体」が存在する。そのため、主体的な学習というと、権力を行使するような誰か、他者に、押しつけられ、命令、指示されたりすることなく、自らの意志で能動的に進んで何かを学習することを意味する。

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さらにもうひとつ考えられる主体とは行為者としての主体である。たとえば、社会学分野の機能主義(functionalism)における行為主体は、欲求にもとづいて行為することを基本とする。人とは、人それぞれの欲求の充足のため、さまざまな行為を行い、複数の個人行為者が、お互い相互の欲求を充足させるべく、相互行為している状態を社会とみなす。たとえば、社会学者のタルコット・パーソンズは、この欲求の充足にもとづく複数の行為者の相互行為をもとに体系化し、社会システムとして構想した[3]。しかし、現実社会においては、多くの人の共通の価値観等を普遍的な構造として捉え、そのシステム構造に影響をあたえる行為それぞれを機能としてとらえ、各々を変数として考え、体系化していくことは、現実的には困難が伴う。またその変数に例外が発生していくごとに、その都度バリエーションを増やしていくことは、もはや限界が生じていくともいえよう。

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社会に影響を与えうる個々の活動それぞれの機能に着目し、その特性によって体系化することを前提とした構造機能主義によるパーソンズの第一次社会システム論に対して、ルーマンはそれぞれの機能によって分化した複数のシステムから成り立つ構造を着眼点とした機能構造主義ともいえる第二次社会システム論を構想した。ルーマンは、このパーソンズの理論をふまえた新たな社会システム論を構想する際に同時に、以下に述べるようなデカルト、カントによる「主体」概念にも異議を唱える。本稿では、ルーマンに倣って、主体概念について考えていく。

デカルトはコギト・エルゴ・スム(cogito, ergo sum)という概念の発想によって、人間外部に存在する世界、それらあらゆる対象に対して、考えるがゆえに、その考える存在が認識するその個人の意識を主体とした。たとえば、「神」とはその存在が明らかになっていない。しかし、その「神」という対象は何かと考える存在は絶対的な存在である。思考するがゆえ、その思考する存在による主体が確立する。このようなデカルトの主体概念に対して、カントは、認識に対象が従うという主体概念を確立した。たとえば、ひとりの人間の視界をふと通り過ぎる浮遊する有機体らしきもの、それらが「アゲハチョウ」や「モンシロチョウ」と人間によって認識されることによって、はじめて対象であるそれらの概念が確立する。つまり、人間によって対象が、アゲハチョウやモンシロチョウと認識される。その浮遊物体そのものは人間のことばによって認識がされなければ、対象そのものでしかなく、もちろん、ことばでも表現されることもなく、それらは、存在そのものでしかない。それゆえ、カントの発想によれば、人間外部の存在に対して、人間の認識が従っていくことになる。この人間外部からの認識に従う存在こそが主体なのである。

デカルト、カントの主体概念が発想されることによって、たしかに人間はそれまでにあったような神との関係性からは解放されたかもしれない。しかし、そのままの主体認識であっては他者とのコミュニケーションによる相互作用がもたらす動的な「変容」を捉えることができない。そこで、対案としてルーマンによって提示されるのがオートポイエティックなシステム概念である。 

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ルーマンの社会システム理論では大前提として、まず自己準拠・自己言及的な性質を持つ「オートポイエーシス」概念を据える。チリの生物学者のフンボルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラがこのオートポイエーシスによって形成されるシステム(以下、オートポイエティックシステム)とは、構成上はインプットもアウトプットもない組織的に閉じた円環的な変容を遂げるシステムである。オートポイエティックシステムを理解するためには、まずそれと対概念ともいえるシステムを理解したほうが分かりやすい。その代表例がたとえば自動車である。自動車が稼働する際に、エンジン内部では、ガソリンと空気の混合による爆発を利用して、クランクを動かす。その動力がチェーンを伝い車輪が回る。これらの動きを生み出しているシステムを構成するのは、プラグやピストン、クランクといった構成部品である。それぞれの部品が、動力をinput/outputしながら相互連関するというメカニズムによって機能するシステムであり、そのシステムの構成要素は自己準拠的に自己生成することはない。

これに対し、オートポイエティックシステムの代表例は生物有機体である。オートポイエティックシステムはそのシステム内部過程によって、自己準拠的に自己生成する。生物有機体内部の各システムでは、その構成要素の成り立ちが有機体の各細胞の動作のように、それぞれの内部過程によって、再生産される。つまり、たとえば細胞などの有機体組織が持続的に再生産、再形成されていくように絶えずみずからのシステムを自己準拠的に生成/変容させる。この作用を特徴づけるのが、円環的なネットワーク過程に示される自己言及/再帰的な性質である。それぞれの部品が、動力をinput/outputし、〈開放的〉なシステムによって相互関連するのとは異なり、システムは外部環境に影響をうけながらも自らのシステム内で〈閉鎖的〉に自己生成する。

むろん社会や社会の成立にかかせない人も情報を単純にinput/outputするだけではなく、オートポイエティックシステムからなる存在であり、第二言語学習者や言語教育現場は、コミュニケーションを生成/創発することで成り立つひとつの社会としてとらえることができよう。

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本プロジェクトでは、まずこれまでに自明のこととして脇においてきたわたしたちの「主体」にかんする認識を頭から一度取りはらうことから始めていく。オートポイエーシス概念を援用したルーマンの社会システム論は、いわゆる人間外部を認識するカントやデカルトのようないわゆる「個としての」人間の存在や主体概念を否定する。また、さらにルーマンの社会システム論に依拠するのであればパーソンズの機能主義社会学の前提とするような個として存在する人間が欲求にもとづいて行う行為するといった行為主体概念も否定する。ルーマンに依拠するのならば、現実社会においては、社会とはそれぞれ各システムの差異を基準に分岐し、各システム同士がオートポイエティックに自己生成、言い換えれば変容している。つまり神経システム、有機体システム、免疫システム等の生物有機体システム、そして心理システムの〈複合〉によって人や社会は成り立つ。そして、コミュニケーションが作動することによって社会とは存在しうる。それゆえ、いわゆる「個としての自我」やカントやデカルトのような「主体」とは実在しているものではなく、ルーマンに依拠するならば、それらは後からシステム自身によってそのように意味づけされたものとなる。

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以上より、まず、わたしたちが第二言学習において考えるべきことは、まず言語学習者とは欲求にしたがって、行動する主体ではないということである。ということは、たとえば、学習者は資格試験の合格や海外へ留学するといった純粋な欲求にもとづいて一直線に目標にむかって第二言語を学習しているわけではないのだ。そしてまた、日々システムから成り立つ学習者自身も変容している。

ここで、主体について、言語教育の状況下を考慮しながらまとめる。

1)いわゆる発話や行為を主導する〈個としての〉人間存在、主体とは実際には存在していない。また行為主体が欲求にしたがって行為するわけでもない。

2)各システムの〈複合〉によって成立する人および社会とは、それらが存在しているかぎり自己準拠的につねに自己生成している。言い換えれば人も社会もそこにあるかぎりに恒常的に変容をつづけている。

社会とはコミュニケーションするゆえ存在し、変容しつづける。ひるがえっていえば、その変容がなくなれば社会も人も存在自体が消える。人が生きて生活し、社会が存在する限り、それぞれのシステムはコミュニケーションによって変容しつづけるのだ。そしてまた、これらの変容こそが、まさしく何らかの学習による成長ではないか。言い換えれば、この変容こそが、言語学習においては、言語学習による成長となる。その独自の変容、すなわち成長へと導くためにわたしたちは試行錯誤しながら日々教育を施しているのである。

では、社会において、コミュニケーションによって導かれる変容とは実際にはどのような動作によって発生するものなのか。また、たとえば、第二言語学習者の自律的な学習、学習者オートノミーとはルーマンの一般理論に依拠するならば、どのように作動しているのか。さらに、ルーマンに依拠するならば、教師と学習者のコミュニケーションとは、どのようなことなのか。以上のようなルーマンの社会システム理論を言語教育にあてはめていく作業は、次回に機会を改めて、考えていくこととしたい。    

                       

全9回(予定)

第一回 序論:なぜ言語教育に社会システム理論が必要なのか。
第二回 学習による成長とは何か?学習者の〈変容〉か?いわゆる〈主体〉とは何か?
第三回 行動主義でも機能主義でもない〈実践〉が導出する各々の〈変容〉について
第四回 ひとは知識を吸収していない。〈予期〉にもとづくコミュニケーションとは?
第五回 〈社会〉を構成する背景と4つの分化について
第六回 認識はどのようになされるか。意味にもとづくバイナリーコードとは何か?
第七回 〈社会〉における各メディアとコードについて
第八回 分化で生まれる新たなコミュニティについて 
第九回 結語:〈社会〉の「よりよき未来」の自己生成へ導く言語教育について

文献

デカルト, R(1997),谷川多佳子(訳)『方法序説』岩波文庫(Descartes.R.(1637). Discours de la méthode pour bien conduire sa raison, et chercher la vérité dans les sciences. Plus la Dioptrique, les Météores et la Géométrie, qui sont des essais de cette méthode.

ハリデー,M.A.K, ハッサン.R(1991)筧壽雄(訳)『機能文法のすすめ』大修館書店(Haliday, M.A.K. & Hassan Ruqaiya (1985) Language, context, and text: Aspects of Language in a social-semiotic perspective.Mellbourne:Deakin university )

Hymes, D. (1972). On Communicative Competence. In J. B. Pride and J. Holmes (Eds) ,Sociolinguisitcs: Selected Readings. Harmondsworth: Penguin Books.

カント,I.(2010)『純粋理性批判1』中山元(訳)光文社古典新訳文(Kant,I.(1781). kritik der reinen Vmunft.

ルーマン, N(1993).佐藤勉(訳)『社会システム理論 上・下』恒星社厚生閣 Luhmann,N.1984.Soziale Systeme: Grundriß einer allgemeinen Theorie, Frankfurt: Suhrkamp

マトゥラーナ・H.R,ヴァレラ・F.J,(1991)河本英夫(訳)『オートポイエーシス 生命システムとは何か』国文社(Maturana,H,R. and Varela F,J.(1980).AUTOPOIESIS AND COGNITION:THE REALIZATION OF THE LIVING. Dordrecht: D.Reidel Publishing

パーソンズ・T, (1974) 佐藤勉 (訳) 『社会体系論』青木書店,(Persons,T.(1951)The Social System. New York, The Free Press.)

ソシュール,F(2007)『一般言語学講義 コンスタンタンのノート』影浦峡,田中久美子訳,東京大学出版会(Maurice Constantin.(1910).3 ème Cours de linguistique générale by Ferdinand de Saussure .


[1]ラングとは、社会制度・規則の体系としての言語を指す。対照的な概念としてパロールがあり、そちらは言語を発話する際の個人的側面を指す。

[2] コミュニカティブアプローチの基盤となっている概念・機能主義とは、構造シラバスに代表される意味・文法主義に対立する概念として発生したものである。Hymes(1972)が提唱した「コミュニケーション能力(communicative competence)」やハリデー(1995[1985])の機能文法の概念を取り入れたコミュニカティブアプローチでは、コンテクストに沿ったタスクワークによって、ある依頼をしたり、場所を尋ねたりといったように、人が相手に何らかの働きかけをするときに取る手段の一つとして言語を使用して、なんらかの欲求を充足するためのコミュニケーションの成立を目指していく。

[3] パーソンズ(1974[1951])は社会を行為によって成り立つシステムと捉えた。この行為システムとは行動有機体システム、パーソナリティシステム、社会システム、文化システムという4つの下位システムによって構成される。後期になってパーソンズは社会とはシステム存続のため、満たさなければならない4つの要件があると考え、その要件を適応(adaptation)目標達成(goal attainment)統合(integration)潜在的な型の維持(latent pattern maintenance)とするAGIL図式を開発した。

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