句読法、テンマルルール わかりやすさのきほん|第2回  句読点の成立:戦前・戦後、現代|岩崎拓也

 前回は、日本語の句読点における一応の規則、『くぎり符号の使い方』と「公用文作成の要領」を取りあげて、どのように句読点の使い方がまとめられているかを概観しました。ですが、現在のように句読点を使うようになったのは、いつからなのでしょうか。はじめからテンとマルが使われていたのでしょうか。そして、句読点はどのように普及していったのでしょうか。

外国から学んだ句読点

 一説によると、日本語の文章には句読点というものは存在しておらず、テンやマルは中国から伝わったものだと言われています(大類1990)。テンとマル自体は、中国の秘省校書式に起源があるという記述が『国文句読法』(権田1895)にあります(「漢土の秘省校書式に出でたること」p.5)。この「秘省校書式」ついて中国のインターネットを調べてみたところ、東漢時代に存在した、「秘書省(秘书省)」における文章の書き方である、とありました。この書式は不明なのですが、宋の時代に書かれた《増修互註禮部韻略》卷四(《增韻》とよく略される)によると、「現在(宋)の秘書校書式は、文が終わっているところにはその字の横に点をつけ、読みが分かれているところには、字の真ん中に点をつける」(“今秘書校書式,凡句絕則點於字之旁,讀分則微點於字之中間。”)と書かれています。

『増修互註禮部韻略』卷第四 京都大學人文科學研究所所藏 #青線の箇所が句読点にかんする記述箇所

 ご存知の方も多いと思いますが、日本語の表記体系は、歴史的にさまざまな変遷を辿って今のような漢字仮名交じり文に落ち着きました。どのような表記の変遷を辿ったのかという話は、それだけで一つの記事になってしまうので割愛しますが、昔は漢文で書いたり、漢字を借りて日本語を表記したりするなど、さまざまな方法が存在しました。そのため、句読点のような符号は訓読に必要不可欠なもので、平安時代ごろには存在していたようです(飛田1974)。といっても、それは単に自分が読解したことを示す記録でした。鎌倉時代においては、「・」でテンとマルを示すなど(金子1986)、先ほど挙げた「秘省校書式」と類似した使用方法が見られます。室町時代ごろになると、印刷が行われるようになり、句読点のような符号は読者のための手引として使用されるようになりました。

 漢文訓読のテンやマルの使い方にかんするもっとも早い時期の解説として、貝原益軒(かいばらえきけん)が1703年に『点例』(https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00004295)に、太宰春台(だざいしゅんだい)が1728年に『倭読要領』で示しています。漢文訓読の句読点の使い方はさまざまであったようです。

太宰春台(1728)『倭読要領』(下巻)(早稲田大学図書館古典籍総合データベース)

 このように、漢文訓読のための句読点というものが考えられ、日本語の句読点に影響を与えた一方で、オランダからの文化や蘭学も日本語の句読点の成立に影響を与えたと考えられています。実際にある例としては、1600年ごろのキリシタン文献にみられるものが最も古い例とされるという記述もあります(小学館辞典編集部編『句読点、記号・符号活用辞典。』)。このキリシタン文献については、私は実際に見たことないのでよくわかりません(ご存知の方はご教示ください)。ただ、大槻磐水が1788年にオランダ語の文法についてまとめた『蘭学階梯 巻下』には、コンマやピリオドを含む6種類の符号の使い方についての記述が見られます。

家具, 座る, 立つ, キッチン が含まれている画像

自動的に生成された説明
大槻磐水(1788)『蘭学階梯 巻下』におけるコンマとピリオドの記述(早稲田大学図書館古典籍総合データベース)

 このように、漢文、またはオランダをはじめとする西洋の文章の句読点について、この頃から論考がまとめられていたにもかかわらず、この時代(江戸時代)における日本語における句読点は、必ず使用しなければならないものではなく、テンかマルのどちらかだけ、または・や﹆といった、現在では使用しない符号を使ったりしていたようです(杉本1967)。江戸時代の文学作品における句読点の考察については、杉本(1967)に詳しくまとめられています。気になった方は一読をおすすめします。

 そのほかにも歴史的な話として欠かすことができないのが、前島密が1866年に提出した『漢字御廃止之儀』に端を発する漢字廃止論者、「かなのくわい」をはじめとする仮名文字専用論者、「羅馬字会」をはじめとするローマ字論者の存在です。

 前島密というと、よく「日本郵便の父」と言われる人物ですが、いわゆる「国語国字問題」で最初に取りあげられる人物でもあります。この『漢字御廃止之儀』は慶応二年(1866)に前島密が徳川慶喜に提出して建白書(主君に対して意見を記した文書)です。その内容は、難しい漢字ではなく、簡易な仮名、口語体の採用、文章を用いて教育を行うことで国民の知的水準を引き上げようという考えから提出されたものです。その後、明治に入り、「国字改良運動」とも関連し、表音的仮名遣いによる仮名文の普及を目的として「かなのくわい」が結成され、また、ローマ字を推進する「羅馬字会」が結成されました。(このあたりの問題については、「国語施策沿革資料2(昭和56年3月31日)仮名遣い資料集(論評集成その1)」に収められている「仮名遣い問題概説(明治以降「現代かなづかい」制定前)」に詳しく書かれていますので、興味のある方はこちらをご覧ください(https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/sisaku/enkaku/enkaku2.html)。)

 どのように日本語を書き表すか、という問題と句読点使用の問題は非常に密接な問題でした。このころの仮名文字専用論者は、仮名で書くさいに分かち書きを加え、さらにテンとマルを使用しています。また、ローマ字表記の場合はコンマとピリオドを使用することを挙げています。これらは日本語の句読法の成立に影響を与えていると考えられます。

 ここで、小説や詩といった文学作品に目を向けてみましょう。文学作品においても、句読点の使い方の試行錯誤が見られます。山田美妙は『新体詞選』の諸言において、「我邦の文章には欧州文にある如きパンクチュエーション(句読法)といふものなし。」と書いています。山田美妙は句読点を自らの作品にも使用し、句読点の打ち方を模索しています。

 また、巌谷小波の『妹背貝』の「読者心得」には、「此の小説は句読無くして読めるものに非ず」という一文が書かれています。また、「、」「﹆」「。」三通りの句読点を設けていることがわかります。

 このテンと似た符号「シロテン(﹆)」は、大雑把に言ってしまえば、挿入文の終わりに使用されたりするものなのですが、今ではすっかり使われなくなってしまいました。今でも「てん」と入力して変換すれば、パソコンで打つことができます。

 このような試行錯誤が行われたあと、1906年(明治39年)に文部大臣官房図書課によって示された『句読法案・分別書キ方案』(以下、『句読法案』)が発表されました(この『句読法案』は「くぎり符号の使い方」のもととなったものです)。飛田(1974)によると、現行の句読法が定着したのは明治39年の『句読法案』発表後であるとし、この『句読法案』を一般に浸透させるのに一役買ったのが、学校教育です。

 明治時代初期の小学校の教科書の句読点を見てみると、テンだけでマルとテンの両方の役割を持たせていたり、マルのかわりに 」や○を使っていたり、と多種多様な符号で句読点を示しています。飛田(1974)によると、テンだけで句点と読点の役割を、○は段落の初めを、 」は段落の終わりをそれぞれ示しているとまとめています。

小學讀本 巻1 4
文部省(1874)『小學讀本 巻1』(国立教育政策研究所教育図書館貴重資料デジタルコレクション)

 明治・大正期における教科書の句読点を調査した坂井(2018)によると、「初等教育において、〈、〉と〈。〉を使い分ける句読法は、明治20年代に国語読本、明治30年代には文範に用いられるようになる。一方で、その用法については、公的で総合的な基準が存在していなかった。」(p.91)とまとめており、当時のくぎり符号は一定していなかったことが伺えます。

句読点の使われ方の変遷

 どのように句読点が成立していったかを考えてみると、おおまかに次のような流れが考えられています。我々が普段使っている句読点は外国から伝来したもので、漢文訓読や西洋の句読法(パンクチュエーション)を参考にしたものです。日本語の表記の書き表し方の試行錯誤とともに句読点の打ち方についても試行錯誤されてきました。この試行錯誤は、文学作品においても同様で、さまざまな符号を用いて文や節の区切りを示していました。この文学作品における試行錯誤は原文一致運動と大きな関わりがあると考えられます。そして、1906年(明治39年)に文部大臣官房図書課より示された『句読法案』が教科書の句読法の基準となり、テンとマルを標準とする句読点が次第に浸透していきました。その後、より現代口語文に適するように調整された基準である1946年(昭和21年)の『くぎり符号の使い方』や1952年(昭和27年)の「公用文作成の要領」が広く浸透し、今日の句読点に至るわけです。

参考文献

巌谷小波(1889)『妹背貝』(http://dbrec.nijl.ac.jp/BADB_CKMR-00876
大槻磐水(1788)『蘭学階梯 巻下』(https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko08/bunko08_c0001/index.html
大類雅敏(1990)『文章は、句読点で決まる!』ぎょうせい
貝原益軒(1703)『点例』(https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00004295
金子彰(1986)「中世仮名資料の句読点について : 高山寺経蔵の片仮名交り文について」『鎌倉時代語研究』9巻,pp.77-98,鎌倉時代語研究会・武蔵野書院
毛晃・毛居正(1037)『増修互註禮部韻略』卷第四(http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/db-machine/toho/html/A0220001.html
権田直助(1895)『国文句読法』 近藤活版所
小学館辞典編集部編(2007)『句読点、記号・符号活用辞典。』小学館
坂井晶子(2018)「明治・大正期の初等教育における句読法」『日本語の研究』第14巻2号, pp.84-100,日本語学会
杉本つとむ(1967)「句読点・記号の用法と近代文学」『国文学研究』35,pp.1-13,早稻田大學出版部
太宰春台(1728)『倭読要領』(下巻)(早稲田大学図書館古典籍総合データベース:https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ho02/ho02_04738/index.html
内閣閣甲第16号依命通知(1952)『公用文作成の要領〔公用文改善の趣旨徹底について〕』(https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kokugo/kento/kento_03/pdf/sanko_2.pdf
飛田良文(1974)「句読表示の成立過程―明治初年から『句読法案』まで―」『言語生活』277,pp49-60,筑摩書房
文化庁(2018)『平成29年度国語に関する世論調査〔平成30年3月調査〕』(https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/kokugo_yoronchosa/pdf/92701201_02.pdf
文部省(1874)『小學讀本 巻1』(https://www.nier.go.jp/library/rarebooks/textbook/K110.82-2-1/
文部省教科書局調査課国語調査室1946年(昭和21年)『くぎり符号の使ひ方〔句読法〕(案)』(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126388/1)
文部大臣官房図書課(1906年)『句読法案・分別書キ方案』(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/903921
山田美妙編(1886)『新体詞選』香雲書屋(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/876381/6

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