英語とともに日本語を考える| 第2回〈ソト〉のものを借用して〈ウチ〉化:表記の話|武内道子

日本語に3表記があるということは、世界に言語多しといえども他に類を見ない特徴である。この表記の多様性、使い分けは日本人の語学的センスの現れであるということを認識し、これがことばの使用の上で(語用論的に)どんな効果をもたらしているか、書きことばによるコミュニケーションに与える影響を考えるのが今回のテーマである。

1. 3表記

日本は7世紀から8世紀にかけて国として体裁が整っていくが、国家ができるときに国家の方針、理想として仏教が、また行政、刑法において律令という中国の法典が必要であった。それらが漢字で入ってきた。聖徳太子(574-622)の時代に始まった遣隋使派遣(第1回が600年、小野妹子の派遣は607年第2回目といわれる)は、遣唐使派遣へと引き継がれ、260年間続く(894年に中止される)。

 日本語には古来書き文字がなかった。漢字が伝わることによって表記方法を手に入れるのである。日本語が発達するためには、中国から輸入した漢字がなくてはならなかったのだが、しかし漢字だけでは日本語はその機能を果たせなかった。

 遣隋使、遣唐使を出さなくなった後、いわば、閉じた国になってからことばを熟成させていく。「十七条の憲法」は、漢字を通してもたらされた儒教と仏教の思想を、日本人が理解しやすいかたちで作っただけでなく、書きことばとして伝来した漢文を日本語として作り替えた。すなわち、漢字を読むためにカタカナが生まれ、さらに和歌に代表される歌をことばに書き表すためにひらがなが生まれる。〈ソト〉の漢字を借用して独特の文字を作り上げた、借り物を「昇華」させ、自国の文化を繊細に表現する日本語を生み出したのです。

 カタカナとひらがなは、ゼロからの出発ではなく、〈ソト〉の文字を摂取し、それを〈ウチ〉化したと言えます。漢字、カタカナ、ひらがな(今の世、ローマ字も加えますか)という表記をもち、私たちは日常的に使い分けているという事実は、日本人の実に驚くべき技量を示しているというべきでしょう。

2.器と中身の調和

ここで、ひらがなだけで書かれた、山村暮鳥の詩集『聖山稜玻瑠』より「風景」(「いちめんのなのはな」)という詩を読んでみて下さい。

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしゃべり
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな
一面の菜の花
一面の菜の花
一面の菜の花
一面の菜の花
一面の菜の花
一面の菜の花
一面の菜の花
かすかなる麦笛
一面の菜の花    

これを読んだ時の第1印象はどうですか。この詩の解釈とひらがな表記は結びついていると考えますか。オールひらがな表記を英語の表記に移し替えることはできるか、英語には表記法が一つしかありませんから、英訳者がひらがな表記の意味合いを訳文に組み込むことは可能ではないでしょう。たとえばイタリック体を使っても、原詩のひらがな表記のもつ特異性は伝わるとは思われません。

 では、この詩を、私が漢字交じりの詩に書き替えてみたものをみて下さい(最初の一連だけですが)。元のひらがなだけの表記と何が変わるか、どう変わるか考えてください。

 ひらがなだけの表記と漢字交じりの表記では何かが違う。オールひらがな表記は「広がり」といった詩の意味合いにぴったり、この詩のもつ広がりとその中で感じるゆったりした気持ち、優しい気持ちに添うように思います。読む人が「共感」しやすい表記といえないでしょうか。

 表記という器は、その中身と調和することによって、作者と読者間に「共感」という感情が認められるといえるかもしれません。

 次に、宮沢賢治と「雨ニモマケズ」を表記の面から見てみます。賢治は漢字とカタカナ混じりの表記をなぜ使ったのか、もし漢字ひらがな混じりの表記にしたらどこが違うかを考えながら読んでください。

宮澤賢治(1896-1933)
「雨ニモマケズ」(1931)
ロジャー・パルパース訳*
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ怒ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル 一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイイト
イヒ
北ニケンカヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
Strong in the rain
Strong in the wind
Strong against the summer heat and snow
He is healthy and robust
Free of all desire
He never loses his temper
Nor the quiet smile on his lips
He eats four go of unpolished rice
Miso and a few vegetables a day
He does not consider himself
In whatever occurs…his understanding
Comes from observation and experience
And he never loses sight of things
He lives in a little thatched-roof hut
In a field in the shadows of a pine tree grove
If there’s a sick child in the east
He goes there to nurse the child
If there’s a tired mother in the west
He goes to her and carries her sheaves
If someone is near death in the south
He goes and says, ‘Don’t be afraid’

If there’s strife and lawsuits in the north
He demands that the people put an end to their pettiness
He weeps at the time of drought
He plods about at a loss during the cold summer Everybody calls him ‘Blockhead’
No one sings his praises
Or takes him to heart
That is the kind of person
I want to be

漢字+カタカナ表記は「硬い」という印象をもちませんか。何か「突っ張っている」、あるいは「がんばるぞ」という決意的な意味あいを「感じる」かもしれません。

 実は、この詩の最後に、賢治は「南無妙法蓮華経」(「法華経の教えに帰依する」の意)という法華経の題目を、中央に書いています。このことは示唆的です。この詩全体を僧侶の口からき聞く経のような印象をもたせる、宗教講和のような印象を与えます。カタカナは仏教解読の際の「テニオハ」として生まれたと言われているのです。 したがって、カタカナに仏教的、宗教的味が感じられるのは当然、カタカナは僧侶の文字であり、つまりは男性のもの、男性表記ということがいえます。仏教解釈の際使われて発達したのですから、賢治が漢字とカタカナからなる表記を使用したのは、宗教的認知を視覚的に伝えようとした意図的選択だったのでありましょう。ひらがなは宮中の女性たちが漢語を解読するときに生まれ、歌によって自分を表現しようとしたときに使ったことを考え合わせると興味深いですね。

 では原詩の英語訳を見てみましょう。述べてきたジェンダー性は、heの使用で残っていると辛うじていえましょうか。では宗教性はどうか、英訳では消えてしまいます。表記という器と中身の調和となると、英訳では失われてしまいます。ラテン語は、カトリックの宗教性を内在しているといわれますが、「この詩をラテン語で翻訳したら、おもしろい言語の再構築になるかもしれない」と言っている言語学者もいます(牧野 2018)**。

 私たちは小学校で、「あいうえお」という母音から始まる五十音を習い、話しことばを文字にすることを知る。しかし戦前は、文字はまず「アイウエオ」が先だった。ひらがな表記は「いろは歌」によって学ばれた。「いろは」は五十音のように母音と子音を組み合わせたシステマチックなものではなく、情緒的、意味的要素を含む「歌」である。

 日常的には、漢字+ひらがなで表記し、外来語といわれるものはカタカナで書く。この3表記法によって、私たちは思っていることをスムーズに文字にでき、人の書いたものを容易に読めるのです。ひらがな表記、カタカナ表記だけの語句や文に遭遇すると、そこで読みが止まったり、解釈に少し時間がかかることはよく経験します。

3. 語用論上の効果

ひらがな書きにするか、漢字で書くかは文体上の違いです。その違いにこだわって選択するのは、詩人や小説家の専売特許ではありません。私たち誰もが、3表記の間で行ったり来たりしています。無意識に選択し、意識的に選択し直し、と私たち一人ひとりの能力なのですが、こういった文体的特徴の効果は何といったらいいでしょうか。一体それによって何を求めているのでしょうか。

 まず次の俳句(と思しき)3句を見てください。

1.冬の空あおって痛い色ですね
2.蜩のこえにせかされ昇る月
3.海越えて子からのたよりミモザ咲く

いずれも五七五調で書かれているので、俳句という特殊な形式のライティングだからひらがなにしているのだ、と結論しないでください。「あお」とひらがな書きにすることによって、読み手が「青」「蒼」「藍」「碧」といった漢字をあてることになります。選んだ漢字の意味合いはそれぞれ読み手の異なった気持ち、経験に基づいています。その人の中にある「あおい色」に対する認知といえます。書き手がかな書きを選んだのは、読み手に解釈を任せようとしたからです。

 「ひぐらし」の声は「声」でなく「こえ」でなければならない、暑さ残る初秋の暮どきに響く鳴き声、「かなかなかな」と軽い金属音のような澄んだあの声です。俳句として独り立ちするには旧かな遣い「こゑ」にするのですが、いずれにしてもひらがな書きによって、蜩特有の鳴き声に添い、書き手の蜩およびその情景への心情が表されます。「便り」を「たより」とすることによって、通り一遍の便り、友人や周りの人との便りからは出てこないかもしれない、遠く隔たって暮らしている子との、母のしみじみとした交流と情がいっそう増すことになりはしませんか。

 ヒラリー・クリントンが自ら書いた自叙伝を翻訳した人がいます。酒井洋子さんといいますが、翻訳書では著者を指す’I’は「わたし」となっています。かな書きを選んだ翻訳者の主張があるでしょう。「訳者あとがき」に次のようにあります。

 わたしは昔から「訳者は 役者 ・・ であるべきだ」と信じている。とりわけ作品が自伝の場合、訳者には主人公の感性で人生の一コマ一コマを演じるだけの演技力がほしい。それでこそ主人公の、「日本語の声」になれるのだと。ところが、今回わたしに振られた役どころは、とほうもない大役だった。 ...

私は、酒井氏が書き手のヒラリー・クリントンに自分を重ねているという印象を受けます。翻訳者が著者の心情、言動、経験を、著者と一体になって、わがごととして吐露している、語っている、説明しているという思いがします。それが同時に私たち読者、日本語母語使用者である読者を意識し、同じ思いを共に感じてほしいという翻訳者の意図があると思われます。(『リビング ヒストリー ヒラリ・ロダム・クリントン自伝』ヒラリ・ロデム・クリントン(著)酒井洋子(翻訳)早川書房 2003)

 漱石の『こころ』を『心』としたらどうでしょうか。ひらがなにすることによってある種の「深み」「広さ」が出てくると思われます。人それぞれの、同じ人でも状況によるさまざまな心情の中で、『心』の場合よりも広く、書き手と呼応する想定を読み手はシェアしますが、その想定はこれと特定されるものではなく、言ってみれば、弱い「想定群」とよぶもので、さらにもっと深く広く想定群を探すよう書き手は意図しているとも考えられます。漱石のタイトルに対する思い入れが感じられ、それによって伝えようとしていることは読者との間に共感を築くことだと思いいたります。 

 次の文は、歌人でもあり細胞生物学者である永田和宏という方が自分のしゃべったこと(対談)を文字にしたものです(下線は私による)。(「私の生き方―恋と短歌とタンパク質 私の人生のいちばんの意味は?」『公研』2023年2月号 (No. 714) pp. 18-37.)

4.私の人生のいちばん の意味は、河野裕子に会って、彼女に愛された、それに尽きるのではないかとも思
  います。
5.a. ほんた(と)うに俺でよかったのかと訊けなかったのだ。
5.b. 俺は、本当に一生懸命に人を愛することができる人に愛されていたんだっていうことを...。

(4)は対談のタイトルになったのですが、細胞生物学者として内外の大学、研究所で研究と教授の第一人者であり、歌人としても宮中歌会始や新聞社の歌壇の選者として一流である本人が、自分の人生の歩みをあれこれ比べて一番ということではなく、この上ないものという自身の思いをひらがな書きに託したと思います。漢字書き(5b)は、見せかけでなく、真実・実際であることを伝えるのに対し、こころの中の心情の吐露ということがかな書き(「ほんとうに」)の使用をさせたと思われます。

 私自身は、文章を綴るとき、いわゆるつなぎのことばと私がよぶ語句は、かな書きにすることが多い。「したがって」「すでに」「また」「さらに」「たとえば」「ようは」「ゆえに」「たぶん」など、文頭に立ち、漢字表記もある語です。「従って」や「例えば」「既に」「更に」「故に」「多分」などはどうしても使う気がしない、そこに私の、好みを越えた主張があるのです。たとえば、「したがって」に続く文の内容は、直前の文を含め、前に述べた事柄の順当な結果であることを伝えるつなぎことばですが、そのつながりはゆるやかであり、読み手の共感に訴えようとするところがあるのです。一方で「従って」とすると直前の文で述べた内容にのみ言及するように思われ、しかも論理的な結果であるという主張が、押し付けにはいかないまでも前面に出るように思います。

 私たち言語学者は実際のことばの使用に際して、当該の語ないし語句の使用がそれを含む発話解釈全体に及ぼす影響を「語用論的効果」とよびます。効果は、特定の文体の使用、特定の言語形式の使用の結果として伝えられることになります。「強調」はその一つの例としてわかりやすいかもしれません。たとえば、会の呼びかけのチラシの中で、

6.a. 各自が昼食を用意してください。
6.b. 各自が用意するものは昼食です。
6.c. 昼食(について)は各自が用意してください。

(6)はいずれも各自は昼食をもっていかなければいけなという事実を伝達していますが、(6a)は中立的であるのに対し、(6b)は「昼食」に、(6c)では「各自」に強調があります。特定の構成素をハイライトして聞き手(読み手)にそのコンテクストにおいて単に意味内容の解釈以上のことを導くと説明します。

 こういう構造的な違いがスタイル上の違いとして、発話解釈の折特定の効果(ハイライトするという)を生じせしめる一方で、表記の使い分けは書きことばによるコミュニケーションのものです。漢字にするかひらがなを使うかの選択によって、書き手の、伝えようとする内容への態度、心情といった情報が伝えられるとしたら、表記選択は語用論的効果と結びつくといえます。しかも書き手と読み手間に生み出される「共感」の程度の違いに遭遇させることになります。

 英語では、大文字書きにしたり、イタリックにする手段がありますが、果たして漢字とひらがな、カタカナによる書き手の態度を表すことができるか疑問です。ましてひらがなの使用が書き手―読み手間の共感を得るようなことはないといえます。こう考えると、日本語の書きことばの豊かさがわかるというものです。日本語は書きことばの言語であると訴えてもいいですね。

4. 共感度ということ

これまで「共感」ということばをたびたび使ってきました。漢字で表されている語彙がひらがなで表記されていると共感度が高くなるといえるのではないかと考えられます。ひらがな表記は共感度が高く、カタカナ表記は、外来語に使用されることからみて、共感度が相対的に低いという仮説を立ててみます。3表記は、漢字を中にひらがなは共感度が高く、カタカナは低いという階層性をなし、相対的に位置づけられるといえましょう。

 さて、〈ウチ〉と〈ソト〉の概念と共感度の関係を考えてみると、〈ウチ〉空間に存在する「人、もの、状況」に対して私たちは心理的に共感を抱くといえます。一方、〈ソト〉空間に存在する「人、もの、状況」となると共感はもちにくいものです。物理的な〈ウチ〉と〈ソト〉ではなく、心理的なものだけにどこまでが〈ウチ〉でどこからが〈ソト〉かという線引きはできません。日本家屋のちょうど縁側のイメージでしょうか。縁側は出入り口を閉め切れば外ですが、開けて、内の者と外の他人とお茶したり、おしゃべりしたりもします。(もっとも「縁側」はもはや死語に等しいかもしれません。)

〈ウチ〉空間から〈ソト〉空間への移行と共感度の高低は重なると考えられます。カタカナ書きが、外来語の表記を担っているように、〈ソト〉空間と結びつき、対照的に、ひらがな表記は〈ウチ〉空間と結びついていると考えていいかと思います。共感度階層性として次のような図式が作れるかと思います。

共感度の階層性
高 <←――――ひらがな―――――漢字―――――カタカナ――――――> 低
〈ウチ〉<―――――――――――――――――――――――――――――>〈ソト〉

表記法が共感度の相対的な差を表しているという仮説によって、書き手による表記選択が説明されることになり、表記選択は書き手が受け手との間に共感をもちたいという意図の現れであり、とりもなおさず、語用論上の効果として機能しているのです。

5. 結語

多様な表記の使用は読み手の解釈過程に影響するところがあるということを話してきました。ことばに出して言い表せない感情、印象を伝達するのに預かっていること、しかもこれという一つないしは特定できる強い(具体的な)態度表示ではなく、心的レベルの弱い想定群とでもいうものであることをシェアしていただけたでしょうか。書きことばにおいてもコミュニケーションのコアはもちろんその内容ですが、オーラルでのジェスチャーや顔の表情、声の調子で訴えることを表記の書き分けが果たすと認識してもいいと思います。

 文字は、「打つ」ものという時代を迎えて、あなた(機械)任せの面が大いにあります。だからこそ、多様性をもつ母語表記を、あなた任せにしないで意識して使いましょう。日本語にしかない特典を利用していっそう豊かな母語使用者になりましょう。


* https://www.japantimes.co.jp/life/2013/08/24/general/strong-in-the-rain/

** 牧野成一(2018)『日本語を翻訳するということ 失われるもの、残るもの』中公新書

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