スコット・フィッツジェラルドの長編小説『グレート・ギャツビー』が村上春樹に深い影響を与えたことはよく知られている。村上はこの作品を自ら翻訳することになるのだが、二〇〇六年に中央公論新社から刊行されたその本の「訳者あとがき」でこんなふうに記している。
もし「これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を三冊あげろ」と言われたら、考えるまでもなく答えは決まっている。この『グレート・ギャツビー』と、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』と、レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』である。(中略)どうしても一冊だけにしろと言われたら、僕はやはり迷うことなく『グレート・ギャツビー』を選ぶ。
何がそれほどに村上を惹きつけたのかというのは面白い問題だ。いくつか答えが考えられそうだが、まずは村上訳の『グレート・ギャツビー』を読むことが肝要だろう。
『グレート・ギャツビー』がアメリカで刊行されたのは一九二五年。ちょうど今年が百周年になる。小説の舞台は一九二二年に設定されている。一九二〇年代といえば、アメリカの時代。第一次世界大戦後の好況を背景に、自動車、映画、ラジオが大衆に広がり始め、街にジャズが流れ、ダンスが盛んになり、ニューヨークに超高層ビルが増え始める。
小説はこんなストーリーだ。語り手は中西部の裕福な家に生まれたニック・キャラウェイという二十九歳の青年。彼はイェール大学を卒業し、兵役を経て、ニューヨークの証券会社に勤めている。ニックは大学時代の友人の家に招待される。友人の妻、デイジーはニックの親戚にあたる。ニックは友人夫妻の仲がギスギスしているのを感じる。
ニューヨーク郊外のニックの家の隣に住むジェイ・ギャツビーは連日連夜、大邸宅で派手なパーティーを開いていた。ギャツビーの正体は不明だったが、ニックは彼と親しくなり、彼が五年間にわたって元恋人のデイジーへの思いを持ち続けていたことを知る。ニックが便宜をはかってギャツビーとデイジーは再会し、再び、恋愛が燃えあがる。しかし、悲劇的な事故から二人は破局する。過去は取り返せなかった。
次に村上春樹の翻訳について書こう。一読して、隅々にまで神経が行き届いている訳だと感じた。原文と対照したわけではないので、訳を読んでの素朴な感想に過ぎないが、原文を丁寧に扱う手つきが見えてくるような訳だ。一つだけ、すぐに目につく特徴を例示しよう。
ギャツビーの口癖で「オールド・スポート」(old sport)という言葉がある。この言葉を日本語にどう訳すのかというのは、この小説を翻訳する時の難問の一つらしい。村上は先述した「訳者あとがき」でこんなふうに述べている。この言葉は「おそらくは英国人の当時の言い回しだったのだろう。今のold chapに近いものだったはずだ」。
「オールド・チャップ」は英国で使われる英語で、「ねえ君」とか「おい」「なあ」とかといった訳語があてはめられるらしい。村上は「似たような表現をアメリカ英語に求めるなら、おそらくmy friendになるだろう」と指摘している。
とにかく、ギャツビーはこの言葉をよく使う。村上はこんなふうに解説する。ギャツビーはおそらくこの言葉をオックスフォードにいた時に覚えたのだろう。アメリカに帰ってきてからは、身についた口癖として、あるいはある種の気取りとして、使い続けた。ギャツビーの演技性(うさんくさくもあり、ナイーブでもある)をこの呼びかけを通してほんのりと示唆している。この見え透いた俗物性がピンク色のスーツや黄色のスポーツカーと同じ文脈で、本物の上流階級出身のデイジーの夫の癇に障ることになる、というのだ。
一カ所引用しよう。第四章から。七月の後半、「僕」(ニック)がギャツビーと少し親しくなり、ギャツビーが初めて「僕」の家を訪ねて来る場面だ。
村上春樹訳
「おはよう、オールド・スポート。我々は今日、昼食を一緒にすることになっているわけだが、ついでだから一緒に街まで車で行かないかと思ってね」。ギャツビーは車のステップボードに立ち、せわしなく身体を動かしながら、均衡を保っていた。
そう、「オールド・スポート」をそのままカタカナで表しているのだ。これについても、村上は「訳者あとがき」で説明している。
僕としても「何か適当な日本語の訳語」があれば、喜んでそれを使っていたと思う。しかし適当な訳語はとうとう見つからなかった。(中略)もう二十年以上にわたって「ああでもない、こうでもない」と考えに考えてきたのだ。そして二十年後に首を振りながら、これはもう「オールド・スポート」と訳す以外に道はないという結論に達したのである。
翻訳に協力した柴田元幸(アメリカ文学研究者、翻訳家、東大名誉教授)も同意見だったという。ちなみに村上に先行する翻訳では「親友」(野崎孝訳、新潮文庫)、「ねえ、君」(大貫三郎訳、角川文庫)と訳されている。また、村上より後に出た小川高義訳(光文社古典新薬文庫)では、特に決まった訳語をあてていない。「ギャツビーの口調全体に、どこで覚えたのかという気取りが出ていればよいものとして処理した」(小川による解説)という。
果たして、「オールド・スポート」を何と訳せばいいのか。私には明言できない。もちろん、翻訳なのだから、何とか日本語に訳すべきではないかという意見もありえるだろう。一方で、適切な訳語がないのだから、そのままカタカナで示すしかないという考えもありえる。とても面白く興味深い問題だ。
ただ、私はこんなふうに思う。この「オールド・スポート」に村上の『グレート・ギャツビー』への思いが詰まっているのではないか。この作品を重んじる態度が結晶したような訳だと思うのだが、どうだろう。この小説を読んでいて、「オールド・スポート」という言葉が出てくるたびに、読者がだんだんと慣れてくるということもあるだろう。
最後に、この『グレート・ギャツビー』という小説の特徴を三つ挙げておこう。もちろん、文章が優れていて、情景などの描写が繊細で、人物の輪郭がはっきりとしていて、会話が卓抜だということはあるのだろう(私は翻訳でしか読んでいないのだが)けれど、それ以外の全体を通しての特徴だ。
一つは一人の女性へのピュアな思いを貫く男の心が描かれていることだ。私見ではそんなに夢中にこだわらなくてもいい女性のようにも見えるのだが、余計なお世話だろう。
二つは形のあるものの豊かさ(大邸宅やたくさんの財産)はあくまでも手段で、形のないもの(女性への思い)を優先する人物を描いていることだ。目に見えるものと見えないものとでは、見えないものを大切にする人物を描いていることだ。
三つは、そしてその思いはかなえられない、挫折に終わるという結末だ。過ぎ去った時間は戻らない。過去は取り消せない。
この小説が村上に深い影響を与えたのは確かだ。この小説について考えることは村上の表現の根幹に触れることになるのは間違いない。