村上春樹をさがして|第21回 永沢が登場する理由とは|重里徹也

 長編小説『ノルウェイの森』(上・下、講談社文庫)には、主人公や彼とかかわる二人の女性(直子と緑)以外にも、個性的で癖の強い人物が何人か出て来る。それがこの小説の面白さの要因にもなっている。そういった人物の一人が永沢だろう。

 初読の時から、変に印象に残る人物だった。ある種の魅力も感じた。実際にいれば、深くは関わりたくないけれど、注目したくなる人物だろう。

 主人公は大学入学と同時に神戸から上京する。彼が入ったのは右翼団体が運営しているとおぼしき寮だった。そこで出会うのが永沢だ。東大法学部の学生で学年は主人公より二歳上。とても頭がよくて、外交官志望で、のちに外務省に入る。

 父親は名古屋の大きな病院の経営者。兄は東大医学部を出てあとを継ぐことになっている。何でもできるエリートで、寮でも一目置かれており、ハツミという上品な彼女がいた。

 主人公と永沢はフィッツジェラルドの小説『グレート・ギャツビイ』を通して知り合いになる。二人とも愛読していたのだ。当時、主人公がよく読んでいた作家を列挙しておこう。カポーティ、アップダイク、フィッツジェラルド、チャンドラー。なかでも、『ギャツビイ』が彼にとって最高の小説だった。

 クラスでも寮でも、そういう作家の小説を好んで読む人間は見当たらなかった。当時(一九六九年)、東京の学生によく読まれたのは高橋和巳、大江健三郎、三島由紀夫、現代のフランス作家だったという。

 永沢の好きな作家も列挙しておこう。バルザック、ダンテ、コンラッド、ディッケンズ。主人公は永沢に「今日性のある作家とは言えない」と話す。永沢は、他人と同じものを読むのは田舎者、俗物の世界、と答える。

 二人とも読書について見る限り、反時代的な志向を持っているといってもいいか。学生運動が世間をにぎわせた状況に距離を置いているという共通点がうかがえる。

 二人は何度か一緒に女性を漁りに行く。永沢の話術や誘い方が抜群で、二人連れの女性に声をかけると面白いようにうまくいき、ホテルでセックスをすることになる。お互いに合意の上とはいえ、女性にとってはむごいなあと思う描写もある。翌日に「もう会えないの」と淋しそうに尋ねられたり、主人公が別の女性(直子)のことを考えながら寝たり。性欲を晴らすだけの行為といえばいいか。

 そういえば、主人公は上京する前にも、神戸で女性に残酷なことをしている。キズキが自殺してから上京するまでの間に女の子と仲良くなった。関係を持ったが半年ももたなかった。女の子は主人公に「東京に行かないでくれ」と頼んだが、主人公は神戸の街を離れたかった。

 もう寝たからどうでもよくなったんでしょ、と彼女は泣きながら訴えたが、聞く耳を持たなかった。東京に向かう新幹線で、主人公は彼女のことを思い出し、ひどいことをしたと後悔したが、とりかえしはつかなかった。

 何か、モテ自慢を聞かされているような感じになる。これもお互いが合意の上でセックスをし、男の都合で付き合いが続けられなくなったから別れたというだけのこととも考えられる。実際には主人公はこんなふうに述懐する。「彼女は僕に対して何ひとつとして訴えかけてこなかったのだ」。

 主人公にとって、「訴えかけてくる」ものが恋愛の要諦らしい。しかしどうなのだろう。近いうちに捨てる街なのなら、神戸の本気の女性と付き合わなくてもいいのではないかという考えもあるだろうか。

 考えてみれば、永沢という男はこういう主人公の傾向を極限まで推し進めた肖像といえるように思える。第八章。外務省の採用試験に合格した永沢とハツミと主人公の三人が麻布の裏手にある上品なフランス料理店で食事をする場面だ。永沢と主人公が女漁りをする話をした後で、問い詰めるハツミに対して永沢は話す。引用しよう。ワタナべとは主人公の名前だ。

 「俺とワタナベには似ているところがあるんだよ」と永沢さんは言った。「ワタナベも俺と同じように本質的には自分のことにしか興味が持てない人間なんだよ。傲慢か傲慢じゃないかの差こそあれね。自分が何を考え、自分が何を感じ、自分がどう行動するか、そういうことにしか興味が持てないんだよ。(以下略)」

 永沢は別れる間際には「俺とワタナベの似ているところはね、自分のことを他人に理解してほしいと思っていないところなんだ」とも話す。自分は自分で、他人は他人。頭のいい永沢は主人公をクリアに分析し、その特徴をよくつかまえている。永沢は主人公を「心の底から誰かを愛することはできない。いつもどこか覚めていて、そしてただ渇きがあるだけなんだ」とも評する。

 この共通した特徴で二人は一緒に女性ハントをするぐらいに仲がよかったのだろう。永沢とは主人公のある部分を拡大して映し出す鏡のような存在なのだ。

 とても印象的だったのは、三人で気まずい会話をしている時に、主人公が「激しい想い」に駆られたことだ。阿美寮(心を患った人たちの療養施設)の直子とレイコのいる部屋に戻りたいという切望だった。実はここに、主人公のほんとうの心があったのではないか。

 主人公も阿美寮で直子やレイコと一緒に過ごせばよかったのではないか。それが主人公自身の心が求めていたことだったのではないか。自分の浮気が原因で妻が発狂して、一緒に精神病院に入った男の小説もあったではないか。吉祥寺の郊外に直子を呼ぶのではなく、自身が阿美寮に入るという方法はなかったのだろうか。それでこそ100パーセントの恋愛小説ではないか。

 永沢のような人間はこの後も村上春樹の小説によく登場する。だいたい悪役の面を被って登場する。だけど、どうなのだろう。主人公がそういう人間を引き寄せるということはないのだろうか。

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