いまさらではあるが、「国語教師の“単独性”」という本連載のキーワードに違和感をいだかれた人もおおかったことだろう。柄谷行人『探究Ⅱ』に拠るなら、「単独性」とは固有名をもった「この私」、「もはや一般性に所属しようのない個体性」のことであり、国語教師という職名あるいは属性を指すことはありえない。だが私としては、「単独性」の定義をあえて踏みはずしても、国語教師が確固たる知性をそなえた代替不可能な存在であるべきことを主張してみたかった。
なぜかというと、この国の教育の歴史にすこし踏みこんでみれば、知的主体であることをかなぐり捨てた教師たちの死屍累々のありさまが嫌でも目に飛びこんでくるからである。とりわけ――これまでも時にふれてきた通り――自身の立場が問われるきびしい歴史の転換点に立たされたとき、おおくの教師が知力の根源的な欠如を露呈してしまう。
あまりにも露骨でわかりやすすぎる事例ではあるが、ひとつの回想をあげてみよう。
わたしが教師になりたての頃だから、確か昭和三十年前後のことである。ある研究会で、授業を見ようと階段を駈け登ったとき、二階から降りて来たA先生と、正面からばったりと出会った。十年ぶりで出会った恩師を見上げ、わたしは体じゅうの血が、逆流する程の憎悪を覚えた。
(本間芳男「軍国教師の戦後転向」)(注1)
先生は、しばらくわたしを見おろしていたが、高慢な勝利者の顔で、うす笑いを浮かべたまま、階段を降りて行かれた。
その研究会の最後は、A先生の「民主主義教育の何とか」という、いかにもアメリカやヨーロッパだけが教育の先進国のような、反吐の出そうな講演であった。この、時代の寵児に対して、わたしは唇を嚙んだものだった。
その十年前。わたしが小学校五年生だったから、昭和十九年のことである。
担任のA先生に召集令状が来た。先生には、二度目の応召だった。襟の詰った黒い軍服を着、金色のゴボウ剣を腰につけた、りりしい姿で、全校生徒の前に立たれた。
「自分もきょうからまた、日本海軍軍人であります。この非常時に、天皇陛下に召されて出征できることは、日本男児として本望であります。」
先生のことばに、わたしたちは酔っていた。これ程の、興奮はなかった。
教室へ来られた先生は、まず黒板の上に飾られた皇居の写真に向って、
「まもなく、自分は天皇陛下のおそばへ参ります。」
と、挙手の礼をされた。目深に水平にかむった軍帽、白い手袋は、戦時下における「われら少国民」の、もっとも憧れる海軍将校の雄姿であった。みんなも敬けんな気持ちで、写真に向って最敬礼をした。
「いいか、みんな」その日、先生の顔には、いつもの笑顔はなかった。「自分はかならず死んで来る。鬼畜米英を倒さん限り、生きては還らんぞ。」
溢れる気持ちを鎮めようとしたのか、先生は一息つき、さらに「おまえたちも日本男児だ。かならず後に続け。自分の教え子として天地に恥じない人間となり、皇国(みくに)のためにご奉公してくれ、今生の別れだ」と、疎開児童のため八十余名にふくれあがった教え子のひとりびとりと握手をされた。
わたしの番になったとき、思わず体が震えた。両手で先生の手を握って、
「先生、死、ぬな。」
泣き声になったとき、目の前に火花が散った。こめかみあたりを殴られ、倒れた。
「女々しい事。……それでもおまえは日本男児か、海軍軍人の教え子か。」
その日、A先生は八紘一字、滅私奉公ののぼりの中を、勇壮なブラスバンドに送られ征ってしまった。
そして終戦のよく年三月、先生は復員された。その時がまた、お別れのことばだった。
「先生していても、まんまが喰えねぇすけぇ、のう。先生やめて、百姓になっさ。」
方言まる出しで、完全な三枚目の挨拶であった。百姓でなければ、食料のない時代であった。
六年生であったわたしは、割りきれなかった。折り目正しかった軍人の、この豹変ぶりに、軍国教育を受けていた当時のわたしは、失望した。こういう場合、おとなという者は、日本男児と百姓の距離を、子どもに説明してはくれないものなのだ。
時代が落ち着くと、また復職された。そしてあの民主主義教育云々の、先生一流の論法が、時代を先行しているという錯覚を他人にもたせ、栄達の道を進まれた。
今でもわたしは年毎に、あの殴られ方を鮮かに思い出すのである。
このエッセイは、長浜功『日本ファシズム教師論』(注2)で取りあげられている。同書では、時流に乗りながら戦中―戦後を生き延びていったさまざまな教育者の実態が描きだされており、日本の教育史の悲惨を知るためにこれほど最適な書物は存在しない。おなじ長浜の『教育の戦争責任』(注3)とともに、教科領域にかかわらずすべての教師が読んでおかなければならない古典的著書である。
一方で、私は長浜の著書が語る戦時下の教師たち、研究者たちのエピソードにふれたとき、さしたる違和感や意外の感をいだかなかった。私がまだ比較的若手の研究者だったころ、陰湿な権力主義・権威主義を内にひそめた――世が世ならまちがいなく軍国主義教育の走狗を務めていたであろうタイプの――教師や研究者にしばしば遭遇したからである。若い研究者や実践者を高圧的に見くだす年長者、逆に名の通った年配の研究者に唯々諾々と追従する若手の研究者や実践者、特定のセオリーやメソッドを信奉するメンバーのみで凝り固まった研究集団、他領域の専門家を慇懃無礼に排除する人々、等々。そういう「業界」の病理は現在にいたっても完全に払拭されたとはいえず、本間の回想文や長浜の著書で糾弾された教師・研究者のメンタリティの問題は、いまだにリアルでありつづけているのだ。
本間ほどの暴力的な経験ではないにせよ、共通する問題をかかえた事例はさまざまにあげることができる。
昭和十六年十二月八日。旧制広島高校の一年だった。その朝の授業は「鬼」のあだ名で文科生に最も畏怖された雑賀教授の英語だった。廊下のマイクが臨時ニュースを伝えると、教授は廊下に飛び出して頓狂な声で“万歳”を叫んだ。
(林勉「戦列からの逃避」)(注4)
山田風太郎『同日同刻』、半藤一利『[真珠湾]の日』(注5)等でとりあげて知られるようになった、当時の旧制広島高等学校教授、雑賀(さいか)忠義(注6)にまつわるエピソードである。戦後、広島市長から依頼され、原爆死没者慰霊碑の碑文「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」を考案した人物だ。
開戦当日の雑賀の派手な歓喜ぶりを教師にあるまじき醜態として糾弾するつもりはべつにない。どこの学校でもこの日は似たような風景がくりひろげられただろうし、市井のおおくの人間の反応も同様であっただろう。だが、戦時に広島高等学校教授として勤め、戦後もそのまま新制広島大学教授として在職しつづけた雑賀が、学生たちの眼前での己れの振る舞いも、彼らに強いたであろう時局追従的な教育についてもいっさい不問に付したまま、「安らかに眠って下さい」「過ちは繰返しませぬ」などという白々しい美辞を死者たちに手向けていることに、私は厚顔と虚偽しか感じえないのである。林はさきの引用につづけて、「(碑文を)書かれた先生の心境は、私には分る」と書いているが、開戦の日に自国の覇権の幻想に酩酊した研究者が、わずか十年後に「世界市民であるわれわれ」「全人類の過去、現在、未来に通じる広島市民の感情」(注7)などと僭称する心性に対し、安易に納得したり肯定したりなどするべきではない。ここに見いだされるのは、教師あるいは研究者と呼ばれる存在が、自己の思想的遍歴の重要な節目となるべき瞬間に、もっとも知性の欠如した姿を露呈している事態にほかならない。その意味で、戦中―戦後の雑賀の言動は、本間芳男の回想文中の「A先生」の戦後転向の暴力性と、本質的に異なるところはないのだ。
そのような経緯によって発案された擬似平和主義的な文言が原爆死没者慰霊碑に揮毫され、あたかも超歴史的な価値をもつ鎮魂の言葉であるかのごとく修学旅行生などに受け入れられている風景は、滑稽以外のなにものでもあるまい。こうした観点にたつなら、いわゆる「碑文論争」(注8)などまったく的外れな議論にすぎない。あの空疎な碑文に刻みこまれているのは、戦後にすばやく民主主義者に変わり身した日本の教師・研究者の「永遠の恥」そのものなのである。平和記念公園を訪問し、慰霊碑の前に立ったなら、我々はその恥ずかしさを身にしみて味わうべきなのだ。
* * *
さて、以上のような暗鬱な記憶を踏まえた上で、国語教師として生きてゆく方途をどう探すか――ということになるのだが、もとよりあるべき国語教師の像がひとつであるはずはない。それぞれがみずからの教師像を追求するべきなのだが、ここでは知識人の定義にかかわる言説を二例ほどあげてみよう。またしてもかなりながい引用となってしまうが、ご容赦いただきたい。
わたしが使う意味でいう知識人とは、その根底において、けっして調停者でもなければコンセンサス作成者でもなく、批判的センスにすべてを賭ける人間である。つまり、安易な公式見解や既成の紋切り型表現をこぱむ人間であり、なかんずく権力の側にある者や伝統の側にある者が語ったり、おこなったりしていることを検証もなしに無条件に追認することに対し、どこまでも批判を投げかける人間である。ただたんに受け身のかたちで、だだをこねるのではない。積極的に批判を公的な場で口にするのである。
これはなにも、政府の政策に対して批判者たれということだけではない。むしろ、たえず警戒を怠らず、生半可な真実や、容認された観念に引導を渡してしまわぬ意志を失わぬことを、知識人の使命と考えるということだ。こうしたことは、ゆるがぬ現実感覚をどこまでもちつづけられるか、合理性を求める体力をどこまで維持できるか、そして、公的な場で出版したり話をしたりする活動のなかで、自分自身を見失わずにバランスをとりながらどこまで奮闘できるか、にかかっている。いいかえるなら、知識人の使命とは、つねに努力すること、それも、どこまでいってもきりのない、またいつまでも不完全なものとならざるをえない努力をつづけるということだ。(注9)
……知識人としての教師は、学校における、時間、空間、活動、そして知識を自らの手で組織することで学校の日常生活を組織していく、そのための方法を自ら形作ることができなくてはならないという訳である。より具体的に言えば、教師は知識人として機能していくために、同僚とのカリキュラム作成、協働、研究、執筆の上で必要となってくるイデオロギーや構造的な環境を自らの手で生み出していかなくてはならないということである。研究を通してめざす最終的なところとしては、教師自らが変革的な知識人としてより具体的に機能していけるような言説や一連の仮説群を生み出していくことにある。知識人としての教師は、生徒が不正について明らかにしたり、抑圧や搾取のない世界の開発に関わる批判的な行為者となるために、必要不可欠な知識や技能を持ちうるように生徒をエンパワーメントしていくことになる。またそのために、行為と反省を結びつけていくことになる。こうした知識人としての教師は、単に個人的な学力の向上や、生徒に出世の階段を駆け上らせると言ったことには関心がない。むしろ彼らは、生徒が世界を批判的に読み解き、必要ならば世界を変えることができるように彼らをエンパワーメントしていくことにずっと関心を持つ。(注10)
サイードは知識人の思想のアクチュアリティについて、ジルーは「変革的知識人」としての教師の役割について語っているちがいはあるが、いずれにも共通するキーワードが「批判」であることは明瞭だろう。自己の内に蓄積した知性にしたがって、権威・権力あるごとくふるまうもの、「真実」「自明」をよそおうものにたえず疑義を提示し、同時にその行為自体によってみずからの思考を解体し更新してゆくこと。それが知識人であることのひとつの条件をなすということだ。(ちなみにジルーはべつの章で、学校以外の公共圏で抗争するために必要な知識や社会的技術を生徒にエンパワーメントすべきだとまで語っており、日本の国語教育の腑抜けた「批判的思考」など及びもつかないラディカルな主張を行っている。)(注11)
たんなる好悪の表明や誹謗のたぐいではない、正当な批判、精緻な思考、状況へのコミットを遂行するためには、強靱な人文知のサポートがなければならない。つきつめていえば、その学びを推進することが国語教師の仕事だ。だから私は、「教師主導の授業は駄目だ」とか、「一斉授業の形態は古い」とひとつ覚えのごとくくりかえす研究者や実践者を信用する気にならない。教育行為は所詮、すべてが強制であるにすぎない。その強制の場において、教師自身に内包された知性が学習者と共有/分有される「命がけの飛躍」が起きること(注12)――授業における“出来事性”とはそういう事態を指すのではないか。教師は側面からの支援者、調整者の役割に徹すべきだという物言いは、己れが知性の主体であるべきことを引き受けようとしない怠惰と怯懦、教師が権力の主体でもあることを隠蔽しようとする欺瞞と無責任の産物でしかない。そういう没主体の教師が過去になにをしでかしたかについては、ここまで見てきた通りだ。
サイードやジルーの時代とは異なって、いまや知識人、インテリ、知的エリートといった属性は、傲慢だの尊大だのと揶揄され忌避される対象であるし、権力ある存在に批判をあびせる行為は煙たがられる一方である。批判的知性を教師の必須の条件とする認識は、いかにも古風にみえてしまうかもしれない。だが、そういう風潮に迎合する必要などまったくない。「自分はインテリなどではない。大衆の味方です」などと多数派に媚びてみせる教師ほど醜悪な存在もまたとないのである。あえていうが、「自分は頭のてっぺんからつま先まで知識人である」という確固たる自負をもつ者だけが教師という職業に就くべきなのだ。教師ははじめから知識人たるべき歴史的・社会的責任を負っている――日本の教育の過去をその恥辱とともにふりかえってみるなら、そのことはあきらかだからである。
* * *
さて、「国語教師の“単独性”はどこにあるのか」は今回が最終回となる。国語教育(学)に関してひたすら言いたいことを連ねてきた連載の終末にふさわしく、このエッセイの根底にこめた目的あるいは悪意(?)について、簡単に説明しておこう。
ひとつは、「説得などしない」ということである。文章を書いて発表しておきながら説得しないとはどういうことだ? といぶかる読者もいるだろうが、私が意図していたのは、自分が書いた内容をもって読者を折伏することではなく、「ここで話題にしたテーマについて考えをめぐらせてみてほしい」ということであった。各回のエッセイを読んでくれた読者の思考になんらかの波動を呼び起こすことが私の望みだったのである。これについては、「連載読んでるよ」と声をかけてくれる知り合いもおおく、一定の達成はあったのではないかと思う。
もうひとつの目的は、教育行政側のプログラムを日々忠実に実行することが職業的義務であると考えているような「真面目」で「良心的」なセンセイ方に、不愉快な思いを存分に味わっていただくことである。アニメ監督の庵野秀明は、かつてTV版『新世紀エヴァンゲリオン』の最終2話が物議を醸したとき、「見てる人間を、ホントはゲロ吐くぐらいイヤな気分にさせるのが目的だった」と語った。私も、権威に逆らわない生真面目な実践者・研究者の方々に「ゲロ吐くぐらいイヤな気分」になってもらいたかった。それでこそご自身の立ち位置が理解できようというものだが、なかなかそういう人にこの連載の言葉は届かず、また内容としてもそこまでの尖鋭さがあったとはいえず、私の力量がまだまだ足りなかったと思う。自分の言葉がどれだけ読者に刺さる射程をもちうるのか、ということは研究者にとって永遠の課題であり、今後も試行錯誤がつづくことになるだろう。
各回に書いたことは、国語教育の研究に足を踏み入れて以来、喉に刺さった棘のように私を苛立たせていた問題であり、エッセイを書いてゆく時間はその棘をひとつひとつ抜いてゆくプロセスでもあった。自分の内部にわだかまっていた諸々のことがらを墓場へもっていかずに済み、いまはすこし安堵している。連載の機会をあたえてくれたひつじ書房の松本功氏に感謝したい。
(注1)教育証言の会編『昭和教育史の証言』(1976 山脈出版の会)に収録。
(注2)長浜功『日本ファシズム教師論――教師たちの八月一五日』(1981 大原新生社、のち1984明石書店)。
(注3)長浜功『教育の戦争責任――教育学者の思想と行動』(1979 大原新生社、1984明石書店、1992増補版 明石書店)。
(注4)東大十八史会編『学徒出陣の記録――あるグループの戦争体験』(1968 中公新書)に収録。
(注5)山田風太郎『同日同刻――太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日』(1979 立風書房)、半藤一利『[真珠湾]の日』(2001 文藝春秋)。安川寿之輔『十五年戦争と教育』(1986 新日本出版社)もこのエピソードにふれている。
(注6)大正・昭和期の英文学者(1894~1961)。旧制広島高等学校教授、のち広島大学教授。
(注7)東京裁判の弁護人であるラダ・ビノード・パールが、「ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたのは日本人でないことは明白である。落としたものの手はまだ清められていない」と碑文のあいまいさを批判したのに対し、雑賀は「広島市民であるとともに世界市民であるわれわれが過ちを繰り返さないと霊前に誓う――これは全人類の過去、現在、未来に通じる広島市民の感情であり、良心の叫びである。“広島市民が過ちを繰り返さぬといっても外国人から落とされた爆弾ではないか。だから繰り返さぬではなく繰り返させぬであり、広島市民の過ちではない”とは世界市民に通じないことばだ。そんなせせこましい立ち場に立つときは過ちは繰り返さぬことは不可能になり霊前でものをいう資格はない」と抗議した(中國新聞社編『ヒロシマの記録――年表・資料篇』1966 未来社 より引用)。
(注8)注7の応酬以降、「過ち」の主体が誰であるかをめぐり、左・右の市民グループのあいだで、ときに政治家をも巻き込みながら論戦が行われたことを指す。
(注9)エドワード・W. サイード『知識人とは何か』(大橋洋一訳 1995 平凡社)。
(注10)ヘンリー・A・ジルー『変革的知識人としての教師――批判的教授法の学びに向けて』(渡部竜也訳 2014 春風社)。
(注11)ジルーは同書で「文化の政治学の一形態として批判的教授法が発展していくためには、教師も生徒も「変革的知識人」として見なされることが必要不可欠である」という考え方も表明しており、この点も注目に値する。
(注12)柄谷行人『探究Ⅰ』(1986 講談社)のつぎの一節を参照のこと。
「ウィトゲンシュタインは、《他者》 を、「われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人」とみなしている。むろん、それは子供であっても動物であってもかまわない。肝心なのは、「話す=聴く主体」における、「意味していること」の内的な確実性をうしなわせることであり、それを無根拠的な危うさのなかに追いこむことなのだから。
私はここでくりかえしていう。「意味している」ことが、そのような《他者》にとって成立するとき、まさにそのかぎりにおいてのみ、“文脈”があり、また“言語ゲーム”が成立する。なぜいかにして「意味している」ことが成立するかは、ついにわからない。だが、成立したあとでは、なぜいかにしてかを説明することができる――規則、コード、差異体系などによって。いいかえれば、哲学であれ、言語学であれ、経済学であれ、それらが出立するのは、この「暗闇の中での跳躍」(クリプキ)または「命がけの飛躍」(マルクス)のあとにすぎない。規則はあとから見出されるのだ。
この跳躍はそのつど盲目的であって、そこにこそ“神秘”がある。われわれが社会的・実践的とよぶものは、いいかえれば、この無根拠的な危うさにかかわっている。そして、われわれが《他者》とよぶものは、コミュニケーション・交換におけるこの危うさを露出させるような他者でなければならない。」







