文部科学省 教科書調査官(体育) 渡辺哲司
1. 言語学徒こそ読者
言葉こそが人間の本性――と郷田は言う(第5章)。郷田とは、言語学者/彫刻作家にして、実は本書の著者・酒井氏の“分身”の一人である(はじめに)。その郷田がさらに続ける。
「人間とは何だろうか」という問いは、つまるところ「言語とは何だろうか」という問いと同義であり…(p. 136)
「人間とは何だろうか」は、もちろん、本書のメイン・タイトルである。それが「言語とは何だろうか」と同義であるなら、人間とは、すなわち言語。つまり、本書のメイン・テーマは言語だということになる。
評者(渡辺)が思うに、本書第一の読者は、現在日本の言語学徒(言葉を専門に探究する人々)である。言い換えれば、現在日本の言語学徒にとって本書は“読むべき本”の一つである。そのように思う根拠は、本書の随所に散りばめられた、下記のようなセンテンス/フレーズ群にある。これらを見て少しも興味を持たぬ言語学徒は、おそらくいまい。
・模倣や再現を超えて、いくらでも新たな組み合わせを生むのが言語能力だ(p. 53)
・言語の核心は「思考の道具としての言語」にあります。(p. 87)
・人間の言語に普遍的に関わる遺伝子、つまり人間という種を決める遺伝子は必ず存在します。(p. 117)・母語の次に第二言語、第三言語、…と覚えていっても、まったく同じ脳の場所が使われるということが分かった(p. 145)
・わたしは今まで、当たり前に日本語で考えて話をしてると思っていました(中略)でも本当は、すべて脳言語で考えて日本語に変換しているだけだった(p. 145)
・言語を生み出すメカニズムは古代人から現代人まで、そして世界中のあらゆる言語間で普遍的だと考えられています(p. 154)
・「人間が言語を作った」という考えが誤っている(p. 158)
2. 言語脳科学をベースに、デジタル化・AI濫用を批判
上掲のセンテンス/フレーズ群からも推察できるだろうが、著者の酒井氏は、言葉をテーマにもっぱら自然科学的な手法(実験)で人間の脳のはたらきを解明しようとする研究者、すなわち言語脳科学者である。その一方で氏は、以前から科学一般についても世間向けの情報発信(著述や講演など)を重ねており、そのオーディエンス(読者や聴衆)は数多い。
ただ、このところ氏に世間の注目が集まっているのは、行き過ぎたデジタル化やいわゆる生成AI(人工知能)の“濫用”(リスクを顧みない安易な利活用)に対する舌鋒鋭い批判によってである。それに類する言辞は本書でも随所に見られ、ことAIについては、まるごと一章(第6章)を当てて論じられている。その点でも、オーディエンスの期待は裏切られない。
3. 特徴は小説仕立て
これまで酒井氏の著作を読み重ねてきた評者から見て、本書第一の特徴は、形式が〈小説〉仕立てになっていることだ。なぜ科学者が小説を?――との疑問も湧くが、それを考える前に、まずは本書の内容と構成をざっと見ておこう。
メイン・キャストは阿部富人(あべ とみと)、田筆子(でん ふでこ)という二人の若者。彼らの出会いと対話から生まれる疑問に、7人の(冒頭の郷田を含む)「解説者」たちが代わる代わる答えていくという、伝統的な問答スタイルをとる。章は解説者と同数の7つで、そのテーマは第1章から順に[花(植物)→ 鳥(動物)→犬 → 古代人(芸術)→ 現代人(言葉)→ 人工知能(機械)→ スーパーインテリジェンス]と連なる。なお、その連なりは、著者によれば、章ごとに理解が進むことを目標としたものであるため、読むときも変えてはいけないらしい(はじめに)。
各章の末尾には、著者自身による「補足と解説」が置かれる。富人も筆子も、また解説者たちも、とうてい一般人とは思えぬ知性の持ち主であり、ときに難解(高度?)なことも言うため、たしかに補足・解説は必要だ。しかし、その量が累計60ページ(書籍全体の約4分の1)にも及んで内容も濃いため、通読後に「小説を読んだ」という気にはなりにくい(かもしれない)。
4. 小説仕立ては著者の挑戦?
そうした小説仕立ては、おそらく、著者にとっては新たな試みであり挑戦である。さらに推測を重ねるなら、著者はこれまで、サイエンスの語り部として一つの壁――説明や訴えをわかってもらえないという悩み――に突き当たっていたのかもしれない。氏が人々にわかってもらいたいのは、例えば、根本的な言語能力が人間にとって生得的なものであるという科学的な知見、教育現場における行き過ぎたデジタル化やAI導入のリスクなどであろう。それらを何としてもわかってもらいたいがゆえの、小説仕立てではないかと評者は見る。
そのように評者が推測するときの根拠は、本書の第4章の末尾「補足と解説」の中にある。そこで著者はこう述べる。
よく、人の心は言葉では言い表せないなどと言われます。しかし、創造的な人間の能力をもってすれば、たとえば文学作品という形式で的確に表現したり、それをさらに深めていったりする可能性が常に開かれていることを忘れてはなりません。(p. 126)
つまり、文学作品=小説という形式で表現すればわかってもらえるのでは…という著者の目論みを、評者は読み取るわけだ。ただ、根拠として強いものではないし、そもそも評者の推測じたいが“はずれ”かもしれない。それでも、科学的に確かなことを、よりわかりやすく――という酒井氏の思いは、これまでと同様、書籍の全体から感じ取れる。
そのような本書が一人でも多くの言語学徒に読まれ、その探究の糧となることを評者は望む。











