英語とともに日本語を考える| 第3回 不思議な世界―オノマトペの話|武内道子

「蕎麦をするするとすする」といえばおいしそうに響きますが、「ポタージュスープをずるずるとすする」といえば文化的に下品なことと思われかねません。「べっとり血がついていた」と聞けば粘り気のある血が一面にこびりついていたというイヤな感触をもつでしょう。「するする」「ずるずる」「べっとり」といった表現をオノマトペと言います。ことばで、音や声を直接表す「擬音語(擬声語)」と、物や人の様子を直接表す「擬態語」に区別され、伝達内容に対する、話し手(書き手)の態度、心情、印象を伝えます。今回はオノマトペの世界を見てみましょう。

1.共有感覚とおんいん*

連句という世界に少し親しんでいます。私が連句会で出会った句です。

奮発し今日は銀座のヘアサロン
 じっとしてないもふもふの犬

参加者が五七五の長句と七七の短句を交互に詠み、一つの作品世界を完成させます。最初の句(発句)の情景から、短詩の小宇宙を想像する座の文学/文芸です。前句の余韻を生かしつつ(付けながら)、次の句で局面を大胆に転換する(転じる)のが作法です。

「もふもふ」というオノマトペを初めて目にしました。声に出して読んでみたら、温かみのある柔らかさが伝わってきました。『ウィキペディア』には犬や猫の被毛のような感触を表すという意味があり、2000年代初めごろから使われ始め、「モフる」という動詞も使われているようです。2010年には女子中高生ケータイ流行語大賞にノミネートされた由です。初めて耳にしたにもかかわらず、私のこれまでの体験・経験の記憶をよび覚まして、話し手(作句者)の感覚的意図をキャッチしたということでありましょう。

銀座のヘアサロンへ通う族、お金持ちの有閑マダムから得る印象に、「もふもふ」の犬の感触がよく添います。おそらく見た目は大きくなく、可愛くて、空気を豊富に含んで柔軟性の高いものをさわった感覚、すり寄ってくるときの吠えるというより鳴く声が一つになった感触です。

最初のモーラ「も」は「もちもちした食感のパン」や「頭がもやもやする」の「も」と、第2モーラ「ふ」は「綿毛がふわふわ飛んでいく」の「ふわふわ」の「ふ」と共通した意味合いをもちます。「もふもふ」という擬態語は、触覚と視覚を含む、聴覚も嗅覚も動員した複合的刺激を与えます。このオノマトペが発せられた瞬間(目にした瞬間)身体に響き、私のこころの中に蓄積されていた体/経験の記憶が、情景のイメージとしてよび覚まされ、膨らみました。

鶏や猫の鳴き声、「コケコッコウ」(cock-a-doole-doo)や「ニャー」(meow)については、日英のオノマトペは自語の発音でそれらしく写しとっているといえます。日本語では、「ゴーン」(鐘の音)や「キーン」(「マイクがキーンと音を立てた」)のような擬音語と、輝きを表す「ぴかぴか」や回転を表す「ぐるぐる」のような擬態語とを一括してオノマトペとよぶと定義しています。後者は、事物、人間の身振り、心情のように音の出ていないものを、感覚的に言語音で描写した語です。「視覚、触覚など聴覚以外の感覚印象を言語音で表現した語 『にやにや』『ふらふら』『ゆったり』の類」(『広辞苑』擬態語の項)と説明があります。

動物の鳴き声は日英でそれぞれの音声でそれらしく写しとってはいますが、少し考えてみると、表現上の相違があります。英語では「バウ‐ワウ(bow-wow)」という犬の鳴き声を表す擬声語より、動詞の「吠える」の意の’bark’が使われることが多い。「隣の犬がわんわん吠えている」は’The next-door neighbour’s dog is barking.’というように、視点が「吠える」という行為に置かれ、一方日本語は、どのように吠えているかという状況に重点を置いています。「ワンワン」「キャンキャン」「クンクン」「ウー」など豊かなオノマトペをもち、それぞれの使用の場でどんな犬が、どのような状況で吠えているのかが理解の中に入ってきます。

猫、鳥、蛙、虫などが「なく」場合も、「鳴く」という動詞を使い、それぞれが「オノマトペの擬音」で鳴くと表現します。猫は「ニャー」、蝉は「ジージー」、カラスは「カーカー」、小鳥は「チュンチュン」と鳴くのです。

「お寺の鐘がゴーンと鳴った」の「ゴーン」を表現するために英語では’The temple bell rang out with a boom.’というように「轟いて」という意味で副詞表現のoutを加える方法をとります。私たちは「鐘がゴーンと鳴った」と聞けば「鐘が鳴った」というより鐘の音そのものを耳にした気分になります。オノマトペから感じる音響を介しての印象が英語表現では十分表されていないという感じがします。その場の状況・情景を、日本語では音声で聴覚的に訴えるのに対し、英語では、「鐘」という主体が「その音を響きわたらせた」と説明しています。

英語はことばによる表現の程度が高く、したがって説明的で、受け手の推論の余地が少ないといえる一方、日本語のオノマトペは、聞き手(受け手)の感覚に訴え、状況を推論によって復元させる表現であり、そのありようを直接描写・説明することはしません。その結果、「もふもふ」や「ゴーン」の使用によって話し手(伝達者)が伝えようとした、事象・事物に対する態度や気持ちを含めた「印象」を、受け手は復元することになります。

擬声/擬音語は聴覚から得られた音響そのものをことばにしているのに対して、擬態語は複数の知覚器官からの情報を組み合わせたものから生まれてくる「響き」をことばにしたものです。日本語オノマトペの話し手(伝達者)は瞬間的にその場の情景を、一つの感覚でなく、複数の感覚でとらえ、この感覚上の体/経験を聞き手(受け手)の感覚器官の中に放り込んで、体験してもらいたい、これを分かちあいたいと考えているのです。その際、話し手と聞き手双方の脳内に蓄積されている多様な体/経験の記憶を「共有感覚的記憶」とよび、状況・情景から得た複合的刺激(音声そのものはありませんが)+身体的感覚を言語化したものを「おんいん」とよび、「擬音音」が「共有感覚」を直接よび覚ますと、私は主張したいと思います。「擬音音」は決して人工的に作り出す音でなく、日本人の自然現象に由来するものです。

コミュニケーションには、ことばによる行為とことばによらない行為が包含されています。たとえば、「何てことしてくれたんだ!」と「怒り」を発するとき、怒った口調、つまりどなり声になる場合です。ことばにしたこと(「何てことしてくれたんだ」)は怒っていることを意図的に伝えます。一方、その発話に伴う大きくて、強い高いどなり声、もしかしたら震えているような声音など(あるいは必然的に顔つきやジェスチャーも)によっても、怒っていることを伝えることになります。そうとは意識してはいないが、付随的に伝わる情報(自然意)です。オノマトペは、この時の「怒りの口調」に相当すると私は言いたいのです。いわば自然意を、これを伝えたいという意図をもってことばにして提示したものということです。コミュニケーションの場では、当該のオノマトペ発話解釈にあたって、コンテクストによって決まってくる意図的概念的意味内容とともに、意図をもって提示された「擬音音」による情報も、聞き手は取りこまなければなりません。

私の主張は、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の「五感」と身体的感覚を加えた「擬音音」が生み出した意味合い(漠とした曖昧模糊としたものだが)を、オノマトペはことばにしたものであるととらえるものです。オノマトペ発話は、発話の意味内容とともに、「擬音音」の意味合いが包含されているのです。

2.擬音語

宮沢賢治の『風の又三郎』の冒頭にある句をみて下さい**。

どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹き飛ばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
Doddo-do Do-doh-do Do-doh-do Do-doh..
Blow away the green walnuts as well,
Blow away the sour quince as well,
Doddo-do Do-doh-do Do-doh-do Do-doh.

風に関するオノマトペは「ぴゅうーぴゅう」「びゅう―びゅう」「ひゅうーひゅう」「さ~」「ご~」「そよそよ」「すーすー」「しゅうしゅう」などたくさんあります。どのオノマトペも向かってくるという印象、打ち続けるさまを表していて、そこに音があるわけですが、向かう相手、打ち続ける対象がいないから、音の描写は「擬音音」を五感で感じるだけです。

では、「ど」音はどういう風の擬音音なのでしょうか。「ど」音(あるいは/d/音)は「重い」と結びつき、感覚的に「重くて強い風」を想起させます。実を吹き飛ばすというのですから強い風でなくてはなりません。「大きな太鼓はどんどんどん」と「小さな太鼓はトントントン」を比べてください。もし反対になったら(「大きな太鼓がトントントン」だったら)、「『ふざけるなッ』と言いたくなります(井上ひさし)」***ね。つまり、濁音になると力感と強さが出てくるのです。さらに「どっどど」と「どう」の連続は音楽的なリズムと絶え間ない風の動きを感じさせます。

私たちは、重くて強い風を全身でもろに受け、木の実になったような気分に襲われ、樹に必死でしがみつく思いをもちます。目も耳も皮膚も匂いも風の音を「聞き」、複合的刺激として風が出す「擬音音」は、動画的に、樹々や空が一体になった風景を写像します。このオノマトペがなければ、情緒的、情動的風景が解釈に入って来ないし、ことばで説明されても伝達者の心情は受け手には伝えられないでしょう。

もし樹にある木の実を飛ばしてしまうほどの風の吹き荒れる音を経験していなければ、「どっどど どどうど どどうど どどう」を、まず読むことができない、読み方がわからない。読めるということは、自分の経験の積み重ねである記憶の中から、文字を通して「その音」を再体験できる、まさに読みながらその音を体験しているということなのです。興味深いのは、このオノマトペが翻訳されないで日本語の音をそのままアルファベットに直している点です。このオノマトペを、同じ効果が達成されるよう別の語、言語形式に翻訳できないと判断したからでしょう。

このオノマトペは音響をことばで表しているので、擬音の表現ですが、自然界の音に複合的感覚が関与することによって、伝達者の心情と印象を、身体に写像し伝えます。その意味合いの微妙さは、受け手の経験がそれぞれなので、同じものとは言えません。伝達者が「擬音音」によって伝えようとした意味合いに「類似」したものです。オノマトペは、複合的感覚がとらえた「擬音音」とできごとの間の類似を探るものでもあります。

「雷がゴロゴロ ピカピカ/情容赦ないみたいだ(Thunder rumbles, lightning sparks /looking merciless.)」(井上陽水「夕立」)について、翻訳者のロバートキャンベル氏の次のような言を目にしました****

ちなみに、英語では「ごろごろ」と「ぴかぴか」の主語をまとめて「雷」とはできません。「サンダー」が音で、「ライトニング」が光だから、そこは分けざるを得ないのです。[日本語は]...ふつう「雷」というと音も光も全部一緒くたに表現できるあいまいだけれど便利な言葉です。従って、英語では’thunder rumbles, lightning sparks’と分けて訳すことになります(63)。

音と光は耳と目の両方から受ける感覚です。英語話者のキャンベル氏は、日本語の「雷」は音も稲妻も「一緒くた」と言っていますが、日本語は雷をまるごと一つの状況としてとらえていると感じたのです。

英語は、音を出す主体(動作主)を伴わなければ文を作ることができません。(だから状況の’it’とかいう、私たちにとってはわけのわからない語を主体に据えて’it rains’とするのです。) 「ごろごろ」と「ぴかぴか」の主体が違うのですから、異なる主体をそれぞれ動作主に立てなければ表現できません。その点日本語は、「ごろごろ」と音を出す主体も「ぴかぴか」と光る主体も「一緒くた」になった状況・情景として提示できるのです。いわばその状況全体を一枚の絵として鑑賞するのです。「ごろごろ」と「ぴかぴか」のいずれか一方だけでも絵自体はあまり変わらないでしょう。

3. 擬態語

典型的なオノマトペ、擬態語を考えてみます。いきものがかりの歌う「さくら」の歌詞の一部です。

さくら ひらひら 舞い降りて落ちて
ゆれる想いのたけを抱きしめた
・・・   
さくら 舞い散る
さくら 舞いゆく

「ひらひら」の解釈を考えてみたとき、「ひらひら」はどんな心情、印象を伝えるでしょうか。オノマトペ「ひらひら」の使用は聞き手(受け手)にとってどれだけ文脈を、状況を豊かにしてくれるか、ということです。

「ひらひら」には音そのものは感じられません。桜の花びらの舞っている状態を説明的に表現したものでもありません。絶え間なく静かに花びらが舞っている「情感」を凝縮した語です。まず、花びらが空中を舞っているさまを見せる。醸し出される擬音は風の動きであり、花びらの移動していくさまからも来る。そして花弁はやがては水面や地面に落ちる、その時の感覚的擬音もあります。これら感覚・知覚的刺激は複合的に組み合わさって身体的に吸収され、記憶の中に写像されます。「ひらひら」の使用は、風のあることも、舞っているさまも、どこかに落ちる様子も、花びらで覆われた地面、あるいは水面を付いたり離れたりしながら流れに身を任せている花びら、これらを連続した一つの絵として見せてくれるのです。その絵には、樹にある爛漫の花も入っているでしょう。「ゆれる想いのたけを抱きしめ」させたのは1枚の絵まるごとの情景なのです。

したがって、この光景を経験したことがなければ、ただ空中に花びらが舞っているという理解だけになるでしょう。その理解は「舞う」という花びらの「行為」に重点を置いているということです。それでは「ひらひら」の使い手の心情を読み取ったとは言えません。「ひらひら」の使用は、舞っているという出来ごとだけでなく、複合的刺激からとらえた「擬音音」が生み出す風景の広がりを、伝達者の記憶にある風景と連動させるということになります。

ここで起こっていることは、伝達者が伝えたいことは、掴みどころがなく、あいまいでボンヤリしたモノなので、ことばで説明することが不可能に近いということです。オノマトペの使用は、体/経験を聞き手と分かち合おうと、当該のコンテクストにある、体全体で経験するものごと、ことがらを引き出すよう働きかけています。花びらが舞い落ちるさまが、何とも言えず風情があって、美しく、感動的であると伝えたいとき、「ひらひら」を使うのです。「ひらひら」はこういった心情を直接的に伝えます。ことばで説明しようとしても伝わらない心情です。もちろん話し手は、聞き手がこういった経験を記憶の中に持っていると判断したから使うのです。

4.語用論のかなめ

オノマトペは語の形式と感覚間のつながりを言語構造に組み込んだものというのが私のオノマトペ観です。一つの感覚だけでなく、複数の感覚に関与するので、もはや身体的言語と言えます。それは外界の事象について述べるのではなく、事象への感覚的かつ身体的経験、言ってみれば事象へのこころの寄せ方、印象を描写して伝える言語表現です。五感を通して身体的に体得した記憶というのは、脳内に長くとどまり、その人の感性を作ります。オノマトペを通して伝達しようとすることは極めてあいまいな印象であり、したがって命題的にことばで表現することが難しいものです。「擬音音」という用語で示そうとしたことは、音声と意味のある種の関係ですが、伝達者が感覚でとらえた経験を受け手に再創造させようとした結果なのです。

そもそも、動物の鳴き声や「ドシン」「パチパチ」のような物音を模写することは自然発生的だったでしょう。自然との共存意識の強い日本人は、自然環境の中から音を吸収することに強い興味と意識をもってきました。それが多くの擬音語、さらに擬態語を作ったと言ってもいいかもしれません。反面、英語は音と意味のリンクが強くないと考えられます。言いかえれば、人間に聞こえた自然の音をそのまま擬声/擬音語として、さらに擬態語にも音を残し多用しているのが日本語であり、様態の動詞および副詞の中に洗練された形で含有されているのが英語であると考えることができます。日本人の自然現象に対する感覚的繊細さがオノマトペ表現に反映されていることは確かでしょう。

オノマトペの多用は日本人の自然の風物に対する受けとめであり、自然のままをできるだけ活かそうとする日本人の感性の現れであるといえます。広く日本文化にみられる自然愛は、西洋の洗練された、人工的美しさと対比されるものかもしれません。

日本語はあいまいである、論理的でないという批判は、オノマトペ多用の反映とウラオモテをなすのかもしれない。英語は動作主・行為者中心の文化という特性を反映していることと対照的に、状況中心的、省略の言語であることもオノマトペの豊富さと無関係ではないかもしれません。

冒頭の「もふもふ」に見られるように、オノマトペはどんどん進化してもいます。痛みを正確に説明するのは難しいものですが、オノマトペの使い分けでたやすく理解してもらえることは日常的に経験するところです。「キリキリ」「ズキズキ」「ズキンズキン」「ジンジン」「チクチク」と豊富です。もっと作られるかもしれません。スィーツやスポーツの分野で日々新しいオノマトペが生まれています。相手との間に「共有感覚」が構築されていれば即理解に及びますが、共有感覚を新たに創造することもあるでしょう。身体のリズムとも連動しているので、子どもは喜んで真似しようとします。

独特の世界を作るオノマトペを、日本語の魅力の要素のひとつとして、大切な文化の反映のひとつとして使いたいものです。簡潔で、臨場感あふれ、リズムが心地よく、繊細な意味を伝え、相手と土俵を共有する、ことばによるコミュニケーションの楽しさをもたせてくれます。まさに語用論のかなめというべきでしょう。

*「共有感覚」については当初「共感覚」としましたが、心理学者から心理学の用語であると指摘を受け、変更しました。ここでの「共有感覚」とは、「共有された感覚」ではなく、オノマトペを介して使い手と受け手の間で「共有していく感覚」という意味合いです。
おんいん」については『福音書』の「いん」の意味と読みから借用。「福」は「よろこび」、「音」は「知らせ」を意味する。

** 宮澤賢治. 『風の又三郎』岩波文庫. 1991.
   Translated by Y. Toyozaki and Varnam-Atkin, アイビーパブリッシング株式会社. 2005. 

*** 井上ひさし. 『日本語教室』新潮社. 2011

**** ロバート・キャンベル. 『井上陽水英訳詞集』 講談社. 2019.

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