伊達聖伸氏の書評(『週刊読書人』2022年4月22日号)を拝読し、伊達氏には、本書に関心を持っていただいたこと、複数の指摘や意見をいただいたことに心より感謝申し上げたい。伊達氏の言及については大変参考になったことを申し上げるとともに、以下に指摘に対する返答をさせていただきたいと思う。
1.Un peuple「イスラエルの民」と解釈したことについて(本書p.190-191)
Un peupleを「イスラエルの民以外には考えられない」と記したことについて、現段階では、伊達氏の言う通り強引な解釈であったかもしれない。「イスラエルの民ととらえることもできるのではないだろうか」くらいの書き方にした方が無難であったと考えている。デュルケームがLe peupleではなくUn peupleとしたことに「フランス国民」とは異なるニュアンスがあったのではないかと考えたことがこの解釈の発端であった。le peupleをヘブライ語にするとהאנשים(ハアナシム)となるが、un peupleをヘブライ語にするとעם(イム)となる。一般的な人々というよりも限定された民を指すと考えた結果の邦訳であった。デュルケームの意思がun peupleを何と考えていたのかを示す証拠は未だ見つからない。一つの提案という書き方をせず、断定的に記述したことについて反省している。
2.アレクサンドル・デルザンスキーの邦訳について(本書p.12)
伊達氏の指摘している部分は、筆者が引用したデルザンスキーの文章の一文である。筆者が引用したデルザンスキーの文章はかなり長いものとなっている。この引用文には重要な指摘があると考えての引用である。重要と思える部分の邦訳は本書では途中中略をしているが、「タルムードの研究者はタルムードからの引用を通してのみ聖書を知るため、聖書のメッセージは解釈に委ねられる。ラビ法は、空間と時間を基準とする慣習法である」という説明があり、「したがってユダヤ的な意味でのあらゆる宗教的事実は、社会的な事実である」とデルザンスキーは述べている。その上で、「フステル・ド・クーランジュにとって、宗教が政治からの完全な自立をもたらすものであるならば、デュルケームは、教育による道徳的援助の庇護のもとで、社会と法とが出会うといったことに関心を払った」として、この次の「これらはすべて宗教的なものを引き継いだもの」の「宗教的」を「ユダヤ教」と訳したことについて伊達氏から指摘があった。ここで示した通り、指摘の部分以前には「タルムードからの引用を通してのみ聖書を知る」とあり、聖書のメッセ―ジはタルムード研究者の解釈にゆだねられることが記されている。その続きで記された宗教がユダヤ教以外の宗教とは考えられなかったため「ユダヤ教」とした。しかし、ご指摘を受け止め、「このことすべては宗教から引き継いだもの(ここではユダヤ教のタルムード解釈から引き継いだもの)と、( )付けで記した方が適切であったかもしれない。
3. juifを「ユダヤ教徒」と訳したことについて(本書p.70)
キリスト教徒とフランス人は必ずしも同一ではないということは説明するまでもないことである。一方、ユダヤ教徒とユダヤ人は同一なのか。19世紀初頭にユダヤ教徒解放政策が実現したフランスにおいてさえも、ユダヤ教徒とユダヤ人は、あたかも同一であるように扱われていることにユダヤ問題の難しさがある。ナポレオンのユダヤ教徒解放政策以降、宗教は民族としての血統と切り離されたはずである(本書第2章)。アナール学派を創設したマルク・ブロックは、自分はフランス共和国市民であり、ユダヤ教徒ではないと公言した。ブロックよりも一世代前のデュルケームも同じである。デュルケームはフランスの社会学者でありフランス共和国市民である。彼も彼の家族も「フランス人である」と認識していたし、そのようにふるまっていた(本書第2章)。また、『アルシーヴ・イスラエリート』にも(制度としては)ユダヤ人が市民権を得てフランス人となったことを喜んだ記述がある(本書第2章)。私は、Juifを「ユダヤ人」と邦訳することに抵抗がある。彼ら自身、Juifの持つ差別的なニュアンスに抵抗があったし彼らは自分たちを努めて「イスラエリート」と呼んでいた。それではJuifをどう訳せばよいのだろうか。民族と宗教が同一とは限らないはずなのに、彼らは「モーセの律法」を指針とする共同体に出自を持つことで「ユダヤ人」として扱われる。共同体を離れてフランス人であると表明し、「モーセの律法」を遵守していなくても、彼らは血統をたどられて「ユダヤ人」とされた(される)のである。Juifの邦訳に限らずとも、私は「ユダヤ人」という言葉を本書では極力使用しなかった。Juif(「ユダヤ人」)という言葉自体に侮蔑の意味が込められていることをイスラエリートたちはよく知っていたからである。伊達氏のいうところの『アルシーヴ・イスラエリート』の記事のJuifを「ユダヤ人」と訳さなかったのはこのような考えからである。『アルシーヴ・イスラエリート』では、ユダヤ人がフランス人になったことを祝い、ナポレオンに感謝の意を表明した記事が解放政策当時掲載されていたことも本書では示している(本書第2章)。デュルケームはフランス人でありユダヤ人ではない。しかしJuifであるということが当該記事には記されていたわけである。それゆえに私はJuifを「ユダヤ教徒」と訳した。非ユダヤ人からJuifと表現される彼らにとっては自分たちは当然「フランス人」であるからである。
また、「ユダヤ教」を意味する〝judaïsme″は「ユダヤ信仰主義」というよりも「モーセ律法主義」である。本書で何回か繰り返しているが、モーセ律法主義はキリスト教とは異なり、天界での幸福が約束される宗教ではなく、現世での生き方を問う「主義」である。世俗的であり現世主義的であるユダイズムについては、19世紀にヨーロッパで近代主義的な「ユダヤ学」が開花したことを本書でも記した(本書第3章、第4章など)。ユダヤ教ラビの、特にアシュケナージ系のラビたちのタルムード学が学問体系としての地位を確立するほどのものであることをラビたちが自覚していたからである。エミール・デュルケームをつくったのは幼少期からのタルムード学である。市川裕氏が述べているように「ラビ・ユダヤ教は私たち日本人が「宗教」として想像する、いわゆる「ユダヤ教」とは似て非なるもの」なのである」(市川裕(2019)『ユダヤ人とユダヤ教』岩波新書、p.4)
4.ルソーの一般意志からの影響について
「集合意識」に関して、「ルソーの一般意志や革命期以来の共和国思想とも深いつながりがある」と伊達氏は述べている。伊達氏の論文「デュルケムと市民宗教:ルソーとベラーの間」では、ルソーとベラーの「市民宗教」に関する見解の違いが述べられている。そして、「市民宗教」という発想に関してベラーが影響を受けたのはルソーではなく、むしろデュルケームであると指摘したのちに、デュルケームが「市民宗教」という言葉を用いなかったことを疑問に思い、デュルケームが「人類教」という言葉で呼んだ、それが何を意味するのかという疑問を挙げている。筆者としては「人類教」がユダヤ教と深く関係していると考えている。本書においては論述が不十分であったかもしれない。しかし、伊達氏のこの論文にも記されている「ユダヤ・キリスト教」という言葉は長い間ユダヤ教に対する誤解を生じさせてきた。ユダヤ教はキリスト教とは別のものである。西洋におけるキリスト教的世界観の影響は大きく、近代日本における西洋文化の導入においても、キリスト教的世界観とは切り離せないものであった。いわゆるヘブライズムとは、キリスト教であり、ユダヤ教はユダイズムとしてヘブライズムとは切り離して考える必要があると考えている。そのような素地がない中での本件に関する議論は無意味であるように思う。キリスト教的世界観で歴史を見てきた人々にとって、文化的優位はキリスト教的西洋にあると考えられているように思う。文化に優劣があるとして無意識にバイアスを掛けて資料を読み取り解釈している。
したがって「「ユダヤ教の本質」と「ユダヤの本質」の区別をどうかんがえているのかが判然としない」という伊達氏の指摘については、両者に区別はないと回答する。両者は同一のものである。本記事の3節でユダヤ人とユダヤ教についての説明をしたように、フランスのJuifはフランス人でありながらモーセの律法を守って生活をする人々のことである。非ユダヤ人がJuifをフランス人として扱うことを嫌ったために、Juifはフランス人であるにもかかわらず、その日常生活には意識的に境界線が引かれていた。境界線を引かれたJuifは、彼ら特有の生活習慣を持ち、それこそが自らを守る手段として継承してきた。それを一概に宗教と表現していいものかは不明であるが、同一の習慣をもち「モーセ五書」を朗読し、イディッシュ語を話す人々がJuifであった。フランス人になることを許されてもなお、差別を受け、フランス人として混在されることを許されなかった彼らの本質は、「人としてのあるべき姿」を日常生活の中で実行することで連帯を図り安全・安心を誓ってきた。「ユダヤの本質」(ユダヤ教の本質)はユダイズムの本質であり、ユダイズムは「ユダヤ教」としばしば訳されるが、religionというよりはism、(法治)主義・生活様式に近いものである。
5.筆者の年齢に関する評価
「五〇代半ばから学習し始めたというヘブライ語」という言葉は不適切に思われた。書評という場で、言語の学習を始めた筆者の年齢を指摘することに何の意味があるのだろうか。侮辱とも受け取れる不適切な指摘に対しては遺憾に思っている。

デュルケーム世俗道徳論の中のユダヤ教
ユダヤの伝統とライシテの狭間で
平田文子著
定価7000円+税
A5判 304頁
ISBN978-4-8234-1101-4
https://www.hituzi.co.jp/hituzibooks/ISBN978-4-8234-1101-4.htm










