村上春樹をさがして|第14回 アリクイの正体とは何か|重里徹也

 カエル、ミミズ、ヒツジ、サル、ネコ、カンガルー、カラス、ネズミ、ゾウ、クマ。他にもあるだろう。一角獣やねじまき鳥もここに加えたい。村上春樹の小説には動物が頻出する。そして、特別な役割を担う。それが現実を超えた村上ワールドに私たちを連れて行く。これは一体、何なのだろう。

 

 小山鉄郎に『村上春樹の動物誌』(早稲田新書、二〇二〇年)という本がある。小山は共同通信の記者で早い時期に村上に注目し、何度もインタビューを重ねてきた。この本は長年、村上作品を読んできた人ならではの知見に満ちている。登場する動物についても、よくまとめられていて重宝だ。

 

 私は思うのだが、村上の小説に多くの動物が登場する背景には、すべてのものに霊魂が宿っているというアニミズム的な世界観があるのは確かだろう。村上の作品が日本の多神教的な精神世界に根づいていることの表れと考えられるのだ。

 

 村上がときどき言及する芥川龍之介の小説にも、よく動物が登場する。両者の共通点と相違点を比較するのも興味深い。たとえば、芥川の代表作の一つ『地獄変』に出て来るサルは、登場人物の分身のように、心の一部を代行するように読める。まるで、影のように。村上作品における動物はどうなのだろうか。

 

 新しい短編小説『武蔵境のありくい』(「新潮」五月号)にはタイトルの通り、アリクイの夫婦が登場する。今回はこの小説について考えよう。全体を論じるためにネタバレしているので、注意してほしい。

 

 主人公は夏帆という女性だ。タイトルの下に「〈夏帆〉その2」と記されている。昨年三月の朗読会で村上自身が朗読し、「新潮」の昨年六月号に掲載された短編小説『夏帆』の続編ということだろうか。この後も、夏帆を主人公にした短編がいくつか書かれて一冊にまとめられるのなら、楽しみなことだ。

 

 美術大学を卒業して一人暮らしをしており、絵本作家として暮らしているという主人公の設定も、担当編集者の「町田」という名前も共通しているので、連作と読んで間違いないように思う。

 

 今作はこの夏帆が東京都の足立区から東京西郊の武蔵境(東京都の武蔵野市)に引っ越すことから物語が動き出す。引っ越しのきっかけは、JR山手線の車内でアリクイに強く勧められたことだった。

 

 奇妙な設定だ。なぜ、アリクイが東京の電車に乗っていて、突然に話しかけてくるのか。村上の読者の多くは、大きなカエルが突然に現れて話しかけてくる短編『かえるくん、東京を救う』を思い出すのではないだろうか。

 

 アリクイの話を総合すると、アリクイ夫婦はブラジル奥地のジャングルでシロアリを食べながら生活していたが、邪悪なジャガーに子供二匹を食べられてしまい、逃げるように東京にやってきたという。アリクイは「悪」に敏感で、夏帆の足立区の住居は危険にさらされているので転居した方がいいとアドバイスする。夏帆にはこの危険について思い当たることがあった。

 

 武蔵境の新居(一戸建て)の床下に住みこんだアリクイの夫婦は夏帆に難題を依頼する。密輸されたシロアリのオイル漬けを武蔵境駅近くの店に取りに行ってほしいというのだ。夏帆は気が進まないながらも、依頼を受けるが、そこにいたのは耳がとがっていて太い眉をした不思議な容貌の老人だった。

 

 この男は悪魔なのだろうか。尻尾が見えると決定的なのだが、村上はそこまではしない。この男とのやりとりにアリクイがからんできて、小説は劇的に展開する。

 

 謎に満ちた小説について考えるうえで、夏帆のキャラクターについて整理しよう。私には特に注意すべき点が三つあるように思う。

 

 一つは孤独なことだ。ほとんど他人と話をしない。静かに自分の世界を守っているように見える。社会の動きとも、あまりかかわらずに、マイペースで生活している。そんな生き方に居心地のよさを感じているようでもある。

 

 二つは絵本作家をしているということが重要なポイントだろう。絵本を作るということは、自分の無意識を表現するということだ。心の底に沈めている無意識の願望や感情を形に表すこと。それが絵本に限らず、優れた創造の条件だろう。そこには同時代を生きる人々が無意識に抱いている思いと共通している部分があるかもしれない。

 

 三つは親切で、優しくて、善人だということだ。自分の世界を守って生きているのだが、他者や社会への悪意を持たず、他人に迷惑をかけずに健全な市民として生活しているように見える。犯罪にかかわるのはちょっとしたことでも嫌なのは特徴的だろう。

 

 それではアリクイの正体とは何なのだろう。このことを考えるうえで、とても印象的なエピソードがあった。夏帆はアリクイに会った後、アリクイのことを絵本にしようとする。文章と絵と。アリクイに会ったばかりだから、表情や仕草を生き生きと描ける。密輸品を渡される店の店主も絵に描く。禿げ上がった細長い頭。コウモリのような、とがった耳。広い額。黒くて太い眉。細い両目。横に大きく広がった鼻孔。特異な容貌は子供を怖がらせるかもしれないと考える。

 

 つまり、アリクイにまつわる経験は夏帆に絵本執筆を促すのだ。このストーリーを読んでいて、私が思い出したのは突飛かもしれないが、宮沢賢治の童話『セロ弾きのゴーシュ』だった。楽団のチェロ奏者であるゴーシュが夜ごとに訪れる動物のおかげでさまざまなことを学び、表現力も養って演奏家として成長する物語だ。アリクイは夏帆に絵本作家として成長することを促したと考えられるだろうか。どうだろう。絵本は完結しないのだが。

 

 小説は最後に衝撃的な結末が待っている。二回目にシロアリのオイル漬けを取りに行った時に、アリクイの夫が初めて現れて(それまではアリクイの妻が夏帆の前に姿を現していた)、悪魔のような店主を包丁で刺し殺すように言う。この店主こそがアリクイ夫婦を脅かし続けたジャガーだというのだ。戸惑い、迷った末に、アリクイの夫から背中を押されたこともあって、この店主を刺してしまう。

 

 この暴力をどのように考えるか。事件はしかし、この現実で起こったものではない。いわば異界(夢か幻想の中のような)での出来事で、店主の身体からは血も出なかったし、事件が報道されることもない。夏帆は責務を果たしてよかったのではないかと振り返る。アリクイ夫婦が幸せになったのなら。

 

 アリクイが夏帆の心の底にあるものと強く結びついているのは確かだろう。そして、アリクイのおかげで、夏帆は悪と対峙でき、行動できたともいえる。しかし、暴力が事態を解決すると考えてもいいものだろうか。よくわからない。謎が残る。

 

 夏帆という絵本作家はこの経験から何を得たのだろうか。〈夏帆その3〉で明らかにされることはあるのだろうか。

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