自分を変えるためのエッセイ作成術|第14回 この世は答えられない謎ばかり|重里徹也

ラグビーやアメリカンフットボールの試合をテレビなどで見るたびに不思議な思いにかられます。見ていて、自分の身体が宙に浮いていくような感じというか、地に足がついていないような感覚というか、そんな思いに誘われるのです。

どうして、そんなことになるのかというと、理由はボールにあります。野球やサッカーのような球体ではないのです。だから、どこに転がるか、わかりません。バウンドだって、予測しにくい。なぜ、こんなボールを使って、ゲームをやらないといけないのでしょうか。

この2つのスポーツの歴史について、私はよく知りません。だから、勝手な妄想をするのですが、そこには「世の中は予想を裏切るようにできているのだ」とか、「人生はどこに転がるかわからないから面白いのだ」といった思想が潜んでいるような気がしてなりません。単なる夢想のようなものですが。

ラグビーやアメフトを見ていて味わう不安定な感じは、どこにバウンドするかわからないボールに、実は自分の人生に対する感覚を重ねてしまうからかもしれません。私たちが生きている姿を、あの奇妙な形をしたボールに突きつけられるからかもしれません。

還暦まで生きるとしみじみとわかることですが、人生というのは謎に満ちています。どこに転がっていくのか、事前にはわかりません。一つの謎が解ければ、また、別の謎が現れます。謎はラッキョウの皮のように際限がありません。これが人生に抱く私のイメージなのです。

文章を書く時にも、この感覚は大切だと思います。ときどき世の中のことは全てわかっているような感じで文章を書いている人がいますが、読んでいるうちにムカムカと不快感がこみ上げてきます。自分を疑わない嫌ったらしさが、身体にまとわりついてくる感じといえばいいでしょうか。

私は自分を疑っています。同時に自分の外の世界にも疑問を抱いています。この世は謎ばかりで、暗い中を手探りで生きています。自分の心持ちをたずねられることがあると、そんなふうに答えることにしています。

自分にも世界にも疑問を持っているという態度は、文章にも深みをもたらします。読者は文字を追っていくうちに、その深みにはまってしまったり、その深みをのぞきこんだりするものなのです。なぜなら、読者の多くが本当は、自分にも世界にも、疑いを持ちながら生きているからです。

ラグビーの話題が出たついでに、彼氏がラグビーをしている女の子のエッセイを想定して、この問題を考えてみましょうか。次のような作品はいかがでしょうか。

ラグビーをしているトシオ。私が彼にひかれた理由はまず、その肩幅の広さだった。背はあまり高くないのに、身体全体ががっしりとしている。その確かな存在感のようなものが私を最初にひきつけたのは確かだ。そんなスポーツマンの彼なのに、タバコを吸うのが玉にきずだ。身体に悪いからやめてほしいというのにやめない。本数は少し減らしてくれたけれど、まだ1日に20本は吸っているのではないだろうか。タバコをやめれば、もっとスタミナがついて、ラグビーの試合でも、もっと頑張れるのではと思ってしまう。

ラガーマンの彼氏が好きなことはよくわかりますが、全体が平板で面白くありません。世間によくある話を書いているのだから、もう少し、工夫がほしいところです。こんな感じにしてみたら、いかがでしょうか。

ラグビーをしているトシオ。私が彼に最初にひかれたのは、その広い肩幅だった。背はあまり高くないのに、身体全体ががっしりとしている。その確かな存在感。それがたぶん私をまず、とらえたのだ。そんなスポーツマンの彼なのに、タバコを吸うのが玉にきずだ。なぜ、そんなことをしているのだろう。はがゆくて仕方がない。少しは減ったとはいえ、今でも1日に20本は吸っているのではないだろうか。なぜ、人はタバコなど吸うのだろう。ラグビーのボールがどこへ転がるかわからないように、私には彼の気持ちがわからない。だけど考えてみれば、どうして私が彼を好きになったのかだって、本当はよくわからないのだ。「確かな存在感」? こんな言葉で自分を一応は納得させるけれど、本当にそんなもので彼に恋をしたのだろうか。

どうでしょうか。少しはマシになったでしょうか。わからないことを効果的に書く。どうせわからないことなのだから、下手に理屈をつけるよりも、わからないことをそのまま吐露した方が深い表現ができる場合があります。「これはこういうことなんです。あなたたちにわかりますか」というよりも、「よくわからないので、どうか、一緒に考えてやってください」といった方が短い文章では奥行きが生まれるのです。

余談ですが、人の恋心というものほど、不可解なものはありません。論理的に考えると絶対にAよりBの方が優れている。客観的な評価をするとAよりBの方がいいに決まっている。誰に聞いたってそういう。実は当事者もそれはよくわかっている。

でも、Aの方が好き。Aと一緒にいたい。人から笑われたり、バカにされたりするかもしれないけれど、それさえ、快い。それが恋愛です。恋愛というものを考えるだけで、人間がいかに不思議な動物か、不可解な存在か、わかるというものです。

もちろん、恋愛だけではありません。信仰や犯罪も論理を超えたところがあります。「頑固」とか、「意地っ張り」とか、「執念」とか、「嫉妬」とか、そんな身近な性向や感情を考えても、人間は論理だけで動く動物ではないことがわかります。

さて、自分で自分のことがわからないと同様に、他人のこともわかりにくいものです。大学などの日本語表現法の授業では、2人1組になって相手のことを書くという課題を出すことがあります。インタビューして、その人の肖像を描き出す課題です。

といっても、何もきっかけがなければ、インタビューもしにくいものです。それで相手に「好きなもの」をたずねることにします。「好きなもの」はその人のことをよく示しているでしょう。だから、課題は「○○さんの好きなもの」です。

できるだけ知らない人とペアを組む方がいいので、トランプを配って、同じ数字の人と組んでもらうことにします。お互いにインタビューをし合います。相手の好きなものを聞くのはもちろん、家族構成や出身地、住んでいる街、専攻、サークル活動、将来の夢など、さまざまな質問が飛び交います。

「あなたは芸能事務所の社長で相手の人を売り込むような感じで紹介しよう」「でも、ほめ過ぎるとうそっぽくなるから注意しよう。少しけなしてからほめると本当っぽくなるよ」「シーンを描くのは今回も有効です。ちょっとした場面を想定しよう」。執筆を始める前には、そんなアドバイスをします。

たとえば、次のような作品が出て来たとしましょう。

タカ君は子供が好きだという。この大学に入ったのも、小学校の先生をめざすためだ。「なぜ、子供が好きになったの」とたずねると、「うーん、純粋なところかな」と笑顔で答えてくれる。弟(タカ君はふたり兄弟)はもちろん、近所の子、親戚の子、中学生の時ぐらいから子供と一緒にいるのが楽しいという。
真っ黒に焼けた顔は、ボランティアで子供たちにサッカーを教えていて、日焼けしたためだ。小柄なタカ君に、小学生たちとグラウンドを駆け回る姿は似合いそうだ。「何か、自分も無心になれるんだよね」
「どんな小学校の先生になりたいの」と質問を重ねると、「うーん(うーんというのがタカ君の口癖だと発見した)、子供の気持ちに敏感というか、子供が悲しい時は同情しながら励ましてあげたいし、嬉しい時は一緒に喜んであげたい。そんな先生になりたい」と話してくれた。黒目がちの目を見ながら話を聞いていると、きっといい先生になると思えてくる。

どうでしょうか。タカ君の素直な感じが伝わってくるようです。でも、なんだか凡庸な印象も受けます。理屈で割り切れ過ぎていて、世の中、そんなにうまくいくかなあ、とツッコミを入れたくなるのです。本当かなあと疑ってしまうのです。黒目がちの目が涙で曇らなければいいけど、と捨てゼリフを吐きたくなってきます。

いくつかの疑問を文章に埋め込めばどうでしょうか。たとえば、こんな具合です。

子供が好きだというタカ君。この大学に入ったのも、小学校の先生をめざすためだという。「なぜ、子供が好きになったの」とたずねると、「うーん、純粋なところかな」と笑顔で答えてくれる。弟(タカ君はふたり兄弟)はもちろん、近所の子、親戚の子、中学生の時ぐらいから子供と一緒にいるのが楽しいという。真っ黒に焼けた顔は、ボランティアで子供たちにサッカーを教えていて、日焼けしたためだ。
でも、子供ってそんなに純粋だろうか。場合によっては大人より残酷だし、大人より意地悪になるような気がする。それも純粋といえば、純粋なのだけれど。
でも、小柄なタカ君に、子供たちとグラウンドを駆け回る姿は似合いそうだ。
「何か自分も無心になれるんだよね」
「どんな小学校の先生になりたいの」と質問を重ねると、「うーん(うーんというのがタカ君の口癖だと発見した)、子供の気持ちに敏感というか、子供が悲しい時は同情しながら励ましてあげたいし、嬉しい時は一緒に喜んであげたい。そんな先生になりたい」と話してくれた。黒目がちの目を見ながら話を聞いていると、この目が曇るようなことがあれば悲しいな、と心配になってくる。そんなことがないようにと祈ってしまうのだ。

どうでしょうか。少しは立体的になったでしょうか。インタビューをエッセイにまとめるという課題では、特にこの疑問を投げかける方法が効果をあげるような気がします。自分はその人のことをどれだけ知っているかと自問すれば、誠実な態度だといえるようにも思います。

疑問を多用すると、何をいいたいのか、わけがわからなくなることがあります。でも、効果的に使うと、いいたかったことをより豊かに表現できることが少なくありません。賢いあなたも、いや、賢いあなただからこそ、何となく答えがわかりそうな時でも知らないフリをして、読者に素朴に疑問を投げかけてみましょう。きっと多くの読者が、その疑問めがけて読みを深め、あなたの文章の底にあるものを訪ねてきてくれるはずです。

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