並行世界への招待:現代日本文学の一断面| 第3章 三浦俊彦・永井均の諸論──「この・・」性はどのように分析できるか|加藤夢三

可能世界論という鉱脈

 一般に哲学・思想の分野で並行世界について語るというのは、主として分析哲学の範疇に属しています。分析哲学というのは、ごく大雑把にまとめれば、記号言語や論理の力を用いることで、出来事や事象の構造を徹底的に解析することを目指した方法論の総称であると言ってよいでしょう。もっとも、そのパズルのような特有の思考スタイルは、いわゆる大陸哲学(時には詩的表現に依拠してでも、世界と私たちの関係についてさまざまな示唆を与えるもの)に親和性の高い伝統的な文学研究の領域では、敬して遠ざけられているところがありました。しかし、先に名を挙げた柄谷行人や東浩紀といった思想家は、分析哲学的な発想を自身の文芸批評に積極的に取り込んでいったことでも、あまり類を見ない書き手たちだったのです。かくいう僕も、分析哲学の厳密な考察手順には大いに魅了され、影響と言えるほどしっかりと咀嚼できていたかどうかはともかく、学術論文を書くときにもその考え方をとても強く意識していました。

 なかでも、可能世界論という分析手法は、この連載で扱おうとしている現実世界の「こうでしかなさ」とは何なのかというテーマにも、非常に意義深い見通しを与えるものでした。可能世界論は、世界のありようについて可能なこと/不可能なこと(世界はどのようでありうる/ありえないのか)、必然的なこと/偶然的なこと(世界はどのようでなければならない/なくてもありえたのか)といった体系的な整理(これらをまとめて「様相」と言います)を施すことで、それまでとは比べ物にならないほど現実世界や並行世界に関する思索を前進させたのです。

 とはいえ、その具体的な役割と意義は、専門外の僕の能力ではなかなか理解できず、有名な可能世界論者の書物をパラパラと捲ってみても、正直なところ議論の展開についていけない側面がありました。そのような折、たまたま読んだ三浦俊彦という哲学者の著作『可能世界の哲学──「存在」と「自己」を考える』(NHKブックス、1997.2〔のち改訂版として二見文庫、2017.4〕)は、僕にとって非常に優れた入門書であり、画期的なほど分かりやすい指針を示してくれるものでした。例によってその論点は多岐にわたり、ここで紹介できるのはそのごく一部なのですが、今回はまず三浦の著作を参照することによって、これまでの議論に、可能世界論の枠組みがどのように関わってくるのかを確認しておこうと思います。(なお、分析哲学者としての三浦の研究成果としては、『虚構世界の存在論』〔勁草書房、1995.4〕がとても重厚な議論を展開しており、これにも大きな示唆を受けました。)

可能世界論には何ができるのか

 三浦は、可能世界論が非常に多くの哲学的問題を取り扱うことができることを確認したうえで、とりわけ「なぜ現実世界はあるがままこの姿をしているのか、ということも思索の対象となる」と述べます。「他にもいろいろありようはあったはずなのに、どうしてよりによってこの姿をとっているのか?」という問いは、「それが一見いかにも珍しい姿だろうがそうでなかろうが、ただ一つのあり方をとっているならば、なぜよりによってこの姿が選ばれたか、という説明が必要」である以上、何らかの理屈をつけていくことができるというのです。

 そして、三浦はD・ルイスという論理学者の様相実在論と呼ばれる考え方を紹介していきます。一言でまとめるなら、それはあらゆる可能な様相(世界がどのようでありうるのか)が、実際に存在するのだという驚くべきものでした。様相実在論に従えば、何しろ可能なものはすべて実在するので、ペガサスやシャーロック・ホームズがいる世界はもちろん、人びとがみな死に絶えた世界やそもそも物質が何ひとつない世界というのも、およそ人間が想像できる限りすべての世界は実際に〝ある〟ことを認めるというのです。(なお、たとえば2+2が5になるというような、一見して私たちの論理に矛盾する世界も存在するのかという問題は、それ自体として非常に魅力的な議論へと誘うことになるのですが、ここでは省略させてください。)一見突拍子もない仮説に思えますが、こうした見方を採用すれば、現在解決できていない哲学史上のさまざまな不思議は、きわめて明晰に説明できるとルイス(を紹介する三浦)は主張します。たとえば、先に示した「なぜこの世は他ならぬこのようであるのか?」という問いについては、「他ならぬ? いやいや、他のありようもすべて実現しているのだ」というかたちで、実に単純に「可能世界の実在論は、完璧な答えを与えてしまった」ことになるのです。先述の問いに論理的な整合性をつけようとすると、どうしてもどこかの過程で、あらゆる可能世界を実在として認めざるをえなくなると言えば分かりやすいでしょうか。

 しかし、三浦はその直後に「可能世界論、特に様相実在論はあらゆる不思議を拭い去る万能理論なのでしょうか」と再び問いかけます。そして、様相実在論によって「この現実世界がこの姿で成立している理由はわかった」としても、「私自身がなぜこの存在なのかという、自分自身の存在についての疑問ということが起こりうる」と主張します。「なぜ自分はこのような人間なのか」という問いは、世界の成り立ちがすべて明るみになったとしても、なおのこと残りつづける……。当たり前の話なのかもしれませんが、僕は自分が抱いていた問いをそのように構造化して捉えることができていなかったので、こうした思考の道筋に対して強い衝撃を受けました。要するに、僕は可能世界論を学ぶことで初めて、世界がこのようであることそのものへの驚きと、そのなかに(なぜか)「私」という存在が〝いる〟ということへの驚きを、はっきりと分けることができるようになったのです。

 続けて、三浦は「諸可能世界に無数の存在者がいるだろうが、それらのうち一つがなぜあなたでなければならないのか」という問いに対して、「可能世界論の枠組では次のような答えが考えられる」と述べます。曰く「あなたは『あなた性』という必然的存在者である」。つまり、もし仮に無数の可能世界を想定するならば、あらゆる事物は、たとえ「ある世界に具体例が一つも存在しなくとも必ず他の世界に具体例(赤い花とか火星とか雌牛キャシーとか)が存在する」ことになるわけですが、それと「同様に、あなたという人の『あなた性』は、どこかに必ず具体化した個体を有するような抽象者である」というのです。もっとも、「その具体例は『赤さ』『惑星』『牛』の具体例とは違って、一つの世界につき一個以下しか現れない」ので、「この意味で『あなた性』は、個体の実現原理〔ここでは、あらゆる個体がいかなる性質とも無関係に、どこかの可能世界に必然的に存在するであろうことを認める立場のこと──引用者注〕である」と定義づけられます。したがって、「個体原理というものがどこかの世界で必ず具体的個体として出現すべき抽象体だとすれば、あなたがある世界(たまたま@ですが〔@は、自分が所属している時空間の拡がりに与えられた便宜的な名称のこと──引用者注〕)に存在することは必然的事実である」ことになるでしょう。そのため、あなたという存在が膨大な可能世界のどこかに生起することはきわめて当たり前のことなのだ……証明終了。いかがでしょうか。

 もちろん、すぐに分かるように、このようなかたちで「私」が「私」であるという個体の一般的な存在理由(=「あなた性」)が明らかになったからといって、それが(なぜか)「私」であることは依然として説明がつきません。三浦もまた、こうした解決のアプローチに対して、さらに残されるであろういくつかの課題を挙げているのですが、僕はむしろ個体原理の導入では、根本的に「」性は説明しえないということが明らかになるまでの理路に、強く惹きつけられました。それは、本連載の主眼である〝「私」には「」性を感じるのに、現実世界には「」性を感じないとはどういうことなのか(そのようなことがそもそもありうるのか)〟という問題を考える際にも、大きな手がかりを与えてくれるように思われたからです。

なぜこの人が「私」なのか

 その手がかりのことを話す前にもうひとり、この問題を考えていくにあたって僕が多大な影響を受けた書き手として、永井均の名前を挙げたいと思います。永井もまた、あるひとつの素朴な、しかし哲学史上でこれまでまったく問われていなかったとされる「謎」を継続的に探究しており、その議論の進め方そのものが数々の知見を授けてくれるのですが、例によってここでは、やや乱暴ながら、その「謎」の部分だけを切り取って紹介することにします。(永井の著作は、ある意味で全てこの「謎」を扱ったものだと言えますが、以下では直近に刊行された『存在と時間──哲学探究1』〔文藝春秋、2016.3〕と『世界の独在論的存在構造──哲学探究2』〔春秋社、2018.8〕から引用しておきたいと思います。)

 その「謎」というのは、色々な提示の仕方があるものの、最も端的には「この人だけが私で他の人たちが私で無いのはなぜか」という疑問文に集約されます。言い換えると、「すべての人に平等に脳があるのだからすべての人に平等に意識があるはずなのに、現実には一つの意識しか意識できないのはなぜか」という問いを永井は立ち上げ、それがまずということの検討を通じて、考えるべき「謎」の構造を明らかにしていこうとするのです。

 たとえば、哲学や思想の歴史においてこの問いは、常に「なぜ人は他人の意識を意識する(他人の痛みを痛む)ことができないのか」という問いにすり換えられてきたと永井は指摘します。「どの人間もその人間にとっては私であるが、そうした諸々の私たちの中にこの私というきわめて特殊な──それがなければ何もないのと同じであるような──ものが存在している」ということへの率直な驚きが、なぜか人間の知覚や認識の不可能性というきわめて一般化された問いとして誤解されることで、結果としてその最も重要な核心を逃してしまうというのです。これは、永井の言う「なぜこの人(だけ)が「私」なのか」という問いと、可能世界論で扱われていた「なぜ自分は他ならぬこのような人間なのか」という問いの混同に重ね合わせることができるでしょう。永井の言う「私」をめぐる「謎」の構造は、それを「私」ではない特定の誰かの視点から語ってしまった瞬間に、見かけは同じでもまったく異なる問題へと変貌してしまうのです。こうした発想は、いままでの議論とどのように関わってくるでしょうか。

 柄谷の「単独性」の話を思い出してください。その論旨はまず、世界に数多ある個体のひとつとしてのひと・もののあり方(特殊性)と、端的に「」としか指示しえないようなひと・もののあり方(単独性)を、根本的に区別しようとするものでした。この二重性は、当然ながらあらゆる事柄に当てはまるので、そのなかで「私」という存在の特殊性/単独性という区別がとりわけ破格に重要なように思えるのは、単に自分自身のことであるがゆえに最も切迫した問題であるからではないかと僕は考えていました。しかし、永井の議論を吟味していくことで、単に「」としか指示しえないような具体的事物のあり方と、世界でただひとり感じたり考えたりする特別な個体としての「私」という存在のあり方は、そもそも質的に異なるのではないかということに気づかされたのです。

 やや抽象化してまとめれば、「私」以外のひと・もののかけがえのなさは、それをどのような視点から理解するのかという認識論的なレベルの問題であるのに対して、「私」そのもののかけがえのなさは、そこに〝いる〟ということが先んじた存在論的なレベルの問題であると言えるでしょうか。しかも、それが言語によって他人に共有された瞬間に、認識論的なレベルでしか指示しえないものとなってしまうというのが、ここで最も重要なところだと思われます。そうであるとすれば、いま・ここで端的にこうしている特別な個体としての「私」の「単独性」は、「特殊性」と区別されることで事後的に見いだされるものではなく、むしろそのような区別の前提としてまず成立していたものであるがゆえに、その異なり方を理解するためには、柄谷の議論とは別の視角が必要だと言えそうです。

 さて、別の箇所で永井は、「私」という存在のあり方を、現実世界という存在のあり方と結びつけて捉えようとします。永井は「ある一つの世界の中に、複数の〈私〉が存在することはありえない」のは、「もしそんなことがあったら、それらのうちのどれが〈私〉であるのか、が分からなくなってしまい、それを識別するためのさらなる方途を探らねばならなくなってしまう」(傍点原文)からであると述べつつ、「この困難を逃れるための唯一の方法は、〈私〉ごとに世界を分裂させて、世界そのものを複数化することである」と指摘します。当然ながら「すると、世界に唯一の〈私〉がいることになる」(傍点原文)わけですが、しかし「今度は、そのように中心化された複数の世界のうち、どれが現実世界であるか、という問題が起こる」ことになるでしょう。「この世界そのものがなぜか中心化されたあり方をしていたから(いま想定されたような複数の世界の存在を前提にするなら、そのうち一つの世界がなぜか端的に現実の世界であったから)、そこから問題が始まったはずなのに、どの世界もそうなっていることになってしまっては問題は消滅してしまう」というわけです。

 ここから、数多の複数世界を想定したとしても、いま・こことして中心化された現実世界が端的にひとつだけあるということの不思議さは、先述の「なぜこの人だけが私なのか」ということの不思議さと同型上のものであることが了解できます。逆に言えば、先にも示したように、可能世界論の導入によって無数の存在者のひとつが「私」であることは了解できたとしても、それがなぜ「私」であるのかは依然解決しえない難問として残るわけですが、その解決しえなさは、世界そのものに関する問い(なぜ数多ある可能世界のなかで、現実世界は「世界」であるのか)にも、まったく同じように適用可能であるということです。

 これは完璧に正しいにもかかわらず、従来の文学研究では、この両者が重なり合うことの意味があまり問われてこなかったように思えます。近代文学の領域では、いま・ここに生きる「私」の強度を確かめようとする登場人物が幾度も描かれており、またそれが文学者の生涯を懸けた探究に値する重厚なテーマだとみなされていました。翻って、現実世界そのものの強度を確かめようとする試みは、ごく少数の例外を除けば、せいぜい長いことSF的な思考実験のようにしか思われていなかったのです。しかし、もし双方の「」性が同じような論理構造を有し、しかもその問いの仕方が相似形をなしているのだとすれば、こうした文学的主題のズレはいったい何に起因するものなのでしょうか。

私」と現実世界のズレ

 柄谷行人は『探究Ⅱ』のなかで、近代小説(や近代哲学)は「この私」という「単独性」を描こうとしてきたと述べています。しかし、柄谷自身も指摘するように、端的にいま・ここでこうしている「私」という、たったひとりだけの交換不可能な存在を表現することなど、もとよりできるわけがありません。どれほど精巧にある登場人物の造型にリアリティを持たせたとしても、結局のところそれは「特殊性」を積み重ねるだけであり、その人間の「単独性」に近接することは原理的にできないからです。言い換えれば、私たちが「ある小説を読んで、まさに「自分のことが書かれている」かのように共感」したとしても、、端的に「このような自分=私は、「この私」ではない」ということを、皮肉にも証し立てることになるのです。

 同じことが、現実世界をめぐる共感の構造にも言えるでしょう。ある小説作品に描かれた時空間の拡がりを、まさにいま・ここ(三浦が言うところの「現実世界@」)の姿が描かれていると思うことはありうるでしょうが、それはやはり現実世界の「特殊性」(内実や属性の近さや親しみ)に関わる事柄であり、現実世界の「単独性」とは無縁の感覚であるはずです。したがって、ここでも「私」と世界のあいだには、ある種の論理的な相同性を認めることができるでしょう。

 しかし実際のところ、そこに認められた「私」と世界の構造的な類似は、たとえ論理的には理解できたとしても、感覚的に納得できるものでしょうか。つまり、先ほどの例で言うならば、〝「私」という存在者がいることそのものへの驚きと、それが「私」であることの驚き〟と、〝ある何らかの世界があることそのものへの驚きと、それが現実世界であることの驚き〟を、そもそも僕たちは同じ種類の驚きとして捉えているのでしょうか。もし、そこに何かしらの差異が見いだされるのだとしたら、それは分析哲学的なアプローチとは別の観点から考えてみる必要がありそうです(論理的に正しいか間違っているかを唯一の価値基準とみなす立場からすれば、こうした外見上に現れない差異は、およそ「錯覚」の一言で片付けられてしまうものと思われるので)。

 実はここにこそ、文学という営みに固有の問題系が出現するのではないかと僕はにらんでいます。本連載の初回にも示したように、文学が矛盾を肯定するものであり、場合によっては「現実世界@」に向けられた「」性すらも誤認しうるということが、人びとが物語というものに惹きつけられる最大の理由であるように思えるのです。

 ……ということで、理論的な話はこのくらいにして、次回からはようやく具体的な作品分析に移っていくことにしましょう。この連載は、(言い訳めいたものとなりますが)それほど学術的な厳密性にこだわっているわけではないので、扱う対象作品は僕が見知っているものや慣れ親しんできたものに限定されるため、おのずとその選定は恣意的なものとなってしまうかと思います。ただ、それでもやはりあるひとつの時代・場所の定点観測としての機能はあったほうが良いように思うので、以下では主にゼロ年代以降の現代日本文学の動向(いわゆる〝並行世界ブーム〟の諸相)に触れていくつもりです。先にも示したように、「私」ならぬ現実世界の強度は、これまで近代文学の領域で真剣に問われるに値するテーマとしてみなされていなかった──もちろん、まったく問われてこなかったわけではありません──にもかかわらず、ゼロ年代以降に並行世界を扱った物語作品が、純文学・サブカルチャーを問わず量産されていたということは、何か単なる流行現象に止まらない固有の意義が見いだされるように思われます。各々の物語作品が描こうとしたテーマは異なりつつも、本連載のなかで、その核となる発想の連帯のようなものを浮かび上がらせることができればと考えています。

 しかし、まずはその前段階として、多少とも時代を遡って一連の〝並行世界ブーム〟の淵源を理解するために、次回は1980年代に発表された並行世界SFの色褪せない名作、筒井康隆『夢の木坂分岐点』(新潮社、1987.1)を取り上げることにしましょう。

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