並行世界への招待:現代日本文学の一断面|第10章 東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』──あれも「私」だったのか|加藤夢三

「量子脳計算幾科学」の意義

 本連載の2回目にも『ゲーム的リアリズムの誕生』という評論を取り上げた批評家・思想家の東浩紀は、2009年に『クォンタム・ファミリーズ』という長編ハードSFを上梓しており、この小説作品は第23回三島由紀夫賞を受賞しました。

『クォンタム・ファミリーズ』は、ありえたかもしれない別の生き方を夢想する作家兼大学教員の葦船往人が、未来の娘を名乗る人物のメールに導かれて、幾重もの並行世界を渡航しつづけるという筋立ての小説作品です。往人は、当初こそ並行世界で新しい人生を謳歌していたのですが、やがてその世界にもともと居た自分が計画していたらしき無差別テロに巻き込まれ、さらに漂着した異なる並行世界で擬似的な家族生活を営むものの、最期にはみずからの帰るべきもとの世界が失われて、非業の死を遂げることになります。もっとも、小説全体としては、さらにエピローグとして「物語外」と題された短編が挿入され、そこでは自身の犯した罪を償うために警察に自首しようとする往人を、妻の友梨花と、もとの世界では産まれなかったはずの汐子という娘が送り出す場面が描かれています。いつか・どこかで起こった/起こりうるかもしれない可能性(の断片)が示されることで、物語全体の構成がメタ次元から問い返されていくような作劇構造となっている点が特徴的です。

 作中において、物語展開の根幹をなす設定として導入されていたのが、「量子脳計算機科学」という架空の理論でした。これは、複数の値を同時に計算処理することができるという量子コンピュータの方法論を応用することで、インターネットによる通信を「並行世界からの干渉の集積装置」として理解しようというものです。作中の説明を引用しておきましょう。

 そもそもこの宇宙では、現実と虚構、現実性と可能性、起こったことと起こるかもしれなかったことの区別には数学的に意味がない、だからこそ人間は意識があるかのような錯覚をもつことができる。それが量子脳計算機科学の結論でした。

「量子脳計算機科学」のアプローチは、すべてを数学上の命題として計算処理する以上、現実世界と並行世界の差異(どちらが〝真なる世界〟であるのかという認識論的な解釈の仕方)を区別しません。それは、いま・ここでこうしている「私」と、いつか・どこかでこうであったかもしれない「私」もまた、少なくとも論理的に等価であるということを意味しています。そのような思考のあり方は、諸々の並行世界から回帰しうる現実世界(とみなされるもの)の存在論的なステータスを問い返す契機ともなるでしょう。

 たとえば、本連載の1回目に示したように、柄谷行人は『探究Ⅱ』のなかで「私」が「「ここにいる」という現実性は、あそこ(ここより他の場所)にいるかもしれないという可能性のなかではじめて在る」と述べましたが、それは取りもなおさず、いま・こことしての現実世界と、いつか・どこかとしての並行世界の暗黙の階層秩序を前提とするものでした。もちろん、各々の並行世界に生きる「私」は、いずれも「私」こそ「私」であると考えるだろうし、逆に数多の「私」がいるなかで、どうしてこれ(この個体)こそが「私」なのかという問いは成り立つでしょう(だから、この時点ではまだ「」性の問題が一切かかわってこないという点に注意してください)。しかし、並行世界の計算資源を借用するという「量子脳計算機科学」の発想は、おのずと「私」の生きるいま・こことしての現実世界の特権性を相対化することにもなるはずです。それは、柄谷の提示する問題系をゼロ年代の文化思潮とリンクさせながら再考することにも繋がるのではないでしょうか。

 ──ということを、実はすでに幾つかの既存の論考のなかで、僕は主張したことがありました。(✳)ここでまた同じ話をしても仕方がないので、今回はその方法論的意義を、少し別の角度から検討してみたいと思います。

(✳)『クォンタム・ファミリーズ』については、拙著『合理的なものの詩学──近現代日本文学と理論物理学の邂逅』(ひつじ書房、2019.11)の「補論ⅰ」や、拙稿「偶然性・並行世界・この私──量子力学と文学をめぐる諸問題」(『現代思想』第48巻2号、2020.2)で詳細に論じたことがあります。今回の内容は、それらの論旨を踏まえつつ新たにアレンジしたものですが、よろしければ上記の論考も併せてご参照ください。

『ミスター・ノーバディ』との比較

『クォンタム・ファミリーズ』のことを考えるとき、いつも僕はひとつの映画作品のことを思い出します。それは、ジャコ・ヴァン・ドルマル監督、ジャレッド・レト主演の『ミスター・ノーバディ』(パテ、2009)です。僕はこの映画作品がとても好きなのですが、その物語展開は『クォンタム・ファミリーズ』と類似しているところがあるのと同時に、きわめて重要な点に差異があるとも思っています。以下では、双方の作品内容をざっと比較することを通じて、『クォンタム・ファミリーズ』の特質を明らかにしてみたいと思います。

『ミスター・ノーバディ』は、誰もが不死の生命を持つようになった近未来、人類で最後に死ぬ男となったニモ・ノーバディの回想によって物語が進展していきます。ニモの回想には不審な点が多く、両親の離婚の際に母親を選んだルートと父親を選んだルートが並存しながら語られたり、どうも結婚の候補となる3人の女性との生活を同時に体験したりしているようです。さらには、原始時代の記憶や遥か未来の宇宙船内の記憶などが混在し、そもそもどのルートが〝正しい〟ものであったのかということ自体が、作中の後半ではいよいよ不明瞭になっていくのですが、それを現在時点から語るニモは「私の生きたどの人生もが真実だ」「どの道も──正しい道だった」と断言するのです。

 聴き手となる新聞記者に対して、ニモは「人生には他のどんなことも起こり得ただろう」「それらには同等の意味があったはずだ」というテネシー・ウィリアムズの言葉を引用します。そして、なぜ複数の人生を同時に過ごすことができるのかという新聞記者の問いかけに対して、実はニモや新聞記者の居る世界は「想像の産物でしかな」く、両親のどちらと生活するのかという「究極の選択を迫られて」、「9歳の子が想像の世界で生み出した」壮大なシミュレーションであったことが明かされるのです。もちろん、それ自体が老人となったニモの語り/騙りに拠るものであり、作中の超常的な演出の数々もまた、どこまでを信頼すべきなのかが曖昧に描かれているのですが、いずれにせよ物語の結末は、ニモが臨終を迎えた場面が逆再生され、もう一度あるべき人生のシミュレーション(の断片)が開始されることが示唆されて幕を閉じます。

 この映画作品から読み取れる主題は、作中で少年時代のニモが母親に尋ねる「なぜ僕は僕で他の人じゃないの?」という質問に集約されています。いま・ここに居る「僕」の人生と、いつか・どこかに居る「僕」かもしれなかったの人生を分かつものとは何か。ニモはそのような問いの強度を確かめるかのように、幾度も執拗に複数のルートを再設計しようとするのです。

 こうした発想は、『クォンタム・ファミリーズ』にも見いだされるものです。作中の冒頭に示される「三五歳問題」の説明を引用しておきましょう。

ぼくは考えた。ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけではなく、決してなしとげなかったが、しかしなしとげられる《かもしれなかった》ことにも満たされている。生きるとは、なしとげられるはずのことの一部をなしとげたことに変え、残りをすべてなしとげられる《かもしれなかった》ことに押し込める、そんな作業の連続だ。ある職業を選べば別の職業は選べないし、あるひとと結婚すれば別のひととは結婚できない。直説法過去と直説法未来の総和は確実に減少し、仮定法過去の総和はそのぶん増えていく。

 葦船往人は、村上春樹の小説作品の読解を通じて、ひとが成熟するということは「仮定法の亡霊に悩まされる」ものだと喩えます。どれほどいま・ここの生き方に自信を持っていたとしても、人間が「こうではなかったかもしれない」という可能性を想像できるかぎり、歳を重ねるにつれてその可能性の集積が「亡霊」のように取り憑きつづけると言うのです。

 何だかピンと来ない話かもしれませんが、ひとが未来に待ち構える可能性にではなく、むしろ過去にあったかもしれない無数の可能性に恐れ慄くというのは、ある意味で感覚的に納得できるところもあるのではないかと思います。たとえば、次のような「分裂病」患者の「症例」を参照してみましょう。

 自分が二人いるのではないか。合わせ鏡の無限連鎖のように、ある確率ですべてが可能なのに、いまここにいる私としては一つに決まっているのが不思議。ある一つの認識行為をしたとき、そこで分岐してしまう。その瞬間に世界が二つに分かれる。いくつかの支流が重なって一つの川になる。自分はつねにその合流点に立っている。歯を磨いたと思っている過去と、磨かなかったという過去があって、それで反復する。時間がブツブツ切れている。未来の自分は一人なのだが、現在の自分が認識した時点で分かれてしまい、過去を振り返ると何人かの自分が平行してある。他の自分も確率的に存在しているように思う。車に乗っていて別の自分が人をはねたのではないかと思って何時間も捜した。物事の真理には統計性があるのではないか。

(木村敏『偶然性の精神病理』岩波現代文庫、2000.2)

 実際に〝こうだった〟自分と、数多の〝こうであったかもしれない〟自分が並存しているという感覚は、まさにニモや往人が直面していたものであり、上記の「症例」はまるで彼らを診断したかのようです。しかし、こうした感性の発現がごく一部の精神疾患による「病理」ではなく、むしろきわめて〝まともな〟ものであることは、たとえば後悔や自責の念をめぐる中島義道の以下のような指摘からも了解できます。

 「そうしないこともできたはずだ」という私の思いは、そのとき私が「自由であった」という思いとリンクしています。とはいえ、ここで頭の切り替えが必要なのですが、私は自由であるがゆえに、後悔するのではない。あのとき私がAを自由に選んだから、Aを選ばないこともできたはずだ、と推量するのではない。まったく逆なのです。私はあのとき「Aを選ばないこともできたはずだ」という信念を抱くからこそ、私はAを自由に選んだと了解しているのです。つまり、自由とは、みずから実現したある過去の意図的行為に対して、「そうしないこともできたはずだ」(他行為可能)という信念とともに生じてくる。この信念は根源的であり、ほかの何ものにも由来するものではない。

(『後悔と自責の哲学』河出文庫、2009.5)

 中島によれば、人間が自由であるという信念は、未来に向けられた溢れんばかりの可能性から感得されるのではなく、むしろ過去の「他行為可能」性を受け止めることで事後的に見いだされるものなのです。そうだとすれば、自分が自由であると信じるすべての人間は、多かれ少なかれ〝こうだった〟現実世界だけでなく、何かしらの仕方で〝こうであったかもしれない〟並行世界のありようと、つねに折り合いをつけながら生きているのだと言えます。

 もちろん『ミスター・ノーバディ』にしても『クォンタム・ファミリーズ』にしても、数多の可能性のうえでは〝こうであったかもしれない〟けれど実際のところは〝こうだった〟という、いま・こことしての現実世界のあり方を称揚するものではないし、ましてや自分の選択の〝正しさ〟を噛み締めようという話ではないことは言うまでもありません。むしろ、そのような現実世界で起こった出来事が、絶えず無数の可能性の「亡霊」に曝されつづけ、そこに人間のどうしようもない思考のあり方が刻まれていることを抉り出しているという点で、双方の物語作品は多くのモチーフを共有しているのです。

 では、その差異はどのような点に求められるのでしょうか。

並行世界の存在論的な承認

 双方の物語作品における重要な差異は、『ミスター・ノーバディ』における並行世界の創造は、少年ニモが直面した人生の脳内シミュレーションに拠るものでしたが、『クォンタム・ファミリーズ』においては「量子脳計算機科学」の成果によって、その並行世界の実質が承認されていたということです。作中では、「量子脳計算機科学」の進歩に伴い、「現実がただひとつのものではなく人間の生もまたただ一回かぎりのものではない、そのような新しい世界観に基づいて、急速に、そして暴力的に再編されることになりました」とあります。『クォンタム・ファミリーズ』における並行世界の実在は、個人的な信条による問題ではなく、人びと全体の生き方を方向づけていくような「世界観」そのものの更新でした。それは、少なくとも表面上はひとつの存在論的な事実として提示されているのです。

 こうした特異な設定を支えているのは、前出の「量子脳計算機科学」をはじめとして、作中に散りばめられた数々のSF的な意匠にほかなりません。よく知られているように、D・スーヴィンはSFというジャンルの定義を「認識」の異化作用に求めましたが(『SFの変容──ある文学ジャンルの詩学と歴史』大橋洋一訳、国文社、1991.3)、まさに『クォンタム・ファミリーズ』における「量子脳計算機科学」の設定は、読み手に既存の秩序体制を〝異化〟させるような一定の真実味を喚起させるものでした。もちろん、どのような物語空間にリアリティを感じるのかはひとそれぞれだし、こうした表現戦略を衒学趣味に過ぎないと切って捨てることもできるでしょう。しかし、あくまでもすべてを計算処理の結果として描くことで、かたちだけでも客観性を担保しようとするSF的な趣向は、作中における並行世界の存在感プレゼンスを考えるうえで、やはり重要なものだと思うのです。

 事実『クォンタム・ファミリーズ』では、ある世界が存在することは計算されることと同義であり、その外部を想定することはきわめて困難なものとなっていました。それは、葦船家の家族関係に集約されるかたちで、端的に以下の引用部にまとめることができます。

 運命を受け入れるとは、過程を受け入れることでも結末を受け入れることでもなく、おそらくはその数学的な限界を受け入れるということなのだ。人間は数学には抵抗できない。そして抵抗しても意味がない。二かける二は断固四であり、それはドストエフスキーの時代もいまも変わらない。ぼくは、どの人生を選んだとしても、渚と友梨花と風子と理樹が作り出す四角形から決して逃れることができない。

 いかなる行動・言動も「数学的な限界」のなかで運命づけられていることに対して、もはや往人は「抵抗」することを放棄しています。ここに示されているのは、詰まるところ現実世界であろうと並行世界であろうと、自身が経験すべきただひとつの人生のあり方があらかじめ数学的に決定されているという諦念にほかなりません。もっとも、そのような往人の感覚が、以下で示されるような「物語外」のパートに、独特の切なさを与えることになります。

 ……ただ、ぼくがいま知っているのは、友梨花を愛するためにはこの堂々めぐりを断ち切らねばならないということだ。そしてそんな決意を、まるでもう無限の回数、無限の機会にわたり繰り返してきたような、そんな錯覚に捕らわれてかえっていま足が動かなくなっているということだ。

「物語内」で往人を懊悩させた「渚と友梨花と風子と理樹が作り出す四角形」は、「物語外」で対象化され、数学的に運命づけられていた現実世界の秩序体制とは異なる人生のルートを、いつか・どこかの往人は確かに試行しようとしていました。そのような「物語内」の運命を覆すかのような可能性が描かれること自体が、読み手にとってある種の救済となりえていたと言ってよいでしょう。

 一見すると、このことは『クォンタム・ファミリーズ』の主題と密接にかかわっているように見えます。『クォンタム・ファミリーズ』が、先に示した「ゲーム的リアリズム」という理念の具体的な実践として解釈できることは指摘されていますが(✳✳)、それは果たして「一回かぎりの生を、それが一回かぎりではなかったかもしれない、という反実仮想を挟みこむことで、はじめて一回かぎりだと認識することができる」という「ゲーム的リアリズム」の命題の忠実な反映となりえていたでしょうか。

 柄谷行人の「単独性」をめぐる議論の復習となりますが、」という現実性は、ほかでもありえたという可能性を含み込むことで事後的に成り立つものでした。『ゲーム的リアリズムの誕生』において、東はそのような思考のあり方を「リアリズム」の問題として提示しており、あるひとつの物語の唯一性・特権性を感得するために、美少女ゲームを典型とするゼロ年代の「新しい表現」は(逆説的なことに)「構造のメタ物語性」をはらんでいるというのが、その理論的な要諦でした。

『クォンタム・ファミリーズ』に話を戻してみれば、確かに「物語内」で決定づけられた運命が「物語外」で覆されるという作劇のあり方には、「構造のメタ物語性」という解読格子を見いだすことができるでしょう。実際、東自身もまた「物語内には並行世界がある」にもかかわらず「最終章だけは、その並行世界がたくさんある「物語」をまるごと外部から見た、また別の世界で記されていることになっている」ことを、『クォンタム・ファミリーズ』読解の核心として強調していました(東浩紀ほか「東浩紀の11年間と哲学──『クォンタム・ファミリーズ』から『存在論的、郵便的』へ」『新潮』2010.7)。それは、数多の〝こうであったかもしれない〟並行世界と〝こうだった〟という現実世界のあいだの階梯構造を保持するものであり、ゆえに柄谷の「単独性」をめぐる議論と同じように、あるひとつの時空間のあり方を特権的な指標として位置づける解釈であったようにも思えます。

 しかし、他方で作中の「量子脳計算機科学」は、そもそもそのような区別自体を数学的に等価に置こうとする点で、現実世界と並行世界の位相差を失効させてしまうものでした。もはや詳述する紙幅はないですが、現に「物語外」で往人が運命の「四角形」を抜け出た象徴としての汐子というキャラクターは、「物語内」においてもすでに、往人が初めて並行世界へ渡航する際の受話器の向こう側で、確かな「声」を伴って存在していたのです。(✳✳✳)この「物語内」におけるノイズのような汐子の形象は、いま・ここの内側で、その秩序体制を存在論的に転覆させてしまう(=「認識」を異化させてしまう)ものであるという点で、「ゲーム的リアリズム」の理念とは異なる志向性をはらんでいたとも言えるでしょう。『クォンタム・ファミリーズ』から読み取るべきなのは、こうした現実世界の〝確からしさ〟を支えている質感自体を書き換えてしまうようなSF的想像力の拡がりではなかったでしょうか。

 もっとも、そのような〝異化〟の操作は、ごく一部のSFマニアだけが理解できるものに過ぎないのではないかと思われるかもしれません。しかし、同様の問題意識は『クォンタム・ファミリーズ』と同時期に刊行され、広く人口に膾炙した〝純文学〟の小説作品にも共有されているものでした。ということで、次回は村上春樹『1Q84』(新潮社、2009.5)を扱うことにしましょう。

(✳✳)たとえば、中島一夫は『クォンタム・ファミリーズ』における読解の力点を「自らの娘の単独性を感受する唯一の方法は、娘が生まれなかったかもしれない、妻と結婚しなかったかもしれない、という「可能世界」を志向することだ」とまとめており、そこに「ゲーム的リアリズム」の理念との連続性を読み取っています(「可能世界の「起源」」『述』第4号、2011.1)。

(✳✳✳)この点は、前出の拙著『合理的なものの詩学』で詳細に論じましたので、よろしければご覧ください。

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