これからの英語教育の話を続けよう|第11回 自白:共犯者としての英語教育研究者|仲潔

授業を演劇化させてしまう見えない力

いろいろな立場で教育現場に行くわけですが、やはり①の自由度は低くなります。数年間の計画で担当校のアドバイザーとして赴く場合は、まだマシです。事前に打ち合わせをしたり、どういった悩みを抱えているのかを把握したりした上で助言ができるからです。とはいえ、しょっちゅう会っているわけではないので、どこか遠慮してしまいます。各教室の実態も、個々の生徒の特性もほとんど知りません。そういった状況で、「的確な」コメントを求められるわけです。

さて、私が現場に行くとなれば、当然のことながら現場の英語の先生は、授業を入念に準備されます。普段の授業でも一生懸命に準備されているかもしれませんが、そこはやはり気合が入っているようです。普段の授業も頑張ってるけど、授業参観はもっと張り切っちゃう、みたいな感じでしょうか。それは別に悪いことではないのですが、どうも気がかりなことがあります。それは、教師の働きかけに対する学習者の反応までが「練習済み」のような状態になっている時です。

教師と学習者とのやり取りも、ひとつのコミュニケーションです。その意味で、何が起こるかわからないという、不確定要素がつきまとうはずです。ところが、実際には教師の期待する発言を、学習者たちが「空気を読んで」発話したり、あるいは「私が目の前で見ている授業」は、すでに「私が見る前に1度行われた授業」ということさえあるようです(私自身が、英語教師から直接そのように伺ったのは2度ですが…)。そうなると、不確定要素はなくなってしまい、予定調和な教師と学習者の「コミュニケーション」が行われてしまいます。このことは、学習者同士のコミュニケーション活動についても言えます。表面的には「コミュニケーション」と呼べそうな活動をしている場合であっても、よく観察をすると、従来のパターン・プラクティスのごとく、お互いがあらかじめ決められた「発話」をしているだけのこともあります。これでは、『学習指導要領』で求められている「やり取り」と言えるのか、非常に怪しくなります。ある種の「セリフ」のように、学習者たちが「発話」しているのです。「授業の中で、生徒同士がコミュニケーションをしている」ように目に映る、演劇であるかのようです。

「未修の英語表現を、反復練習することも大事なんだから、〈演劇〉のようになって何が悪い?」という反論もあり得るでしょう。たしかに、語学の習得において反復的な要素は大事です。それを否定するつもりはありません。ただしそれは、学習者たちが教えられた表現のオウム返しをしているだけで、相手の発話に応じて発話内容を変えているわけではありません。これでは、「話す」のうち、「発表」であって「やり取り」とは言えません。それにもかかわらず、「生徒が自発的に発話していますよ」「生徒同士がやり取りしていますよ」といった演出を見ることが少なくないのです。もちろん、本当に生徒どうしが「やり取り」をすれば、おそらく上手く英語で表現することができない生徒がいて、「授業としての見栄え」はよくないかもしれません。しかしながら、生徒が「言いたいのに、英語で言えない」ことを体験することは、とても大事にすべきはずです。学習者が英語を習得することが目的なのであって、授業の成立が目標であるかのように陥ってしまっている状況に、危うさを感じるのです。

英語の先生方に、そのようにさせてしまっている要因の1つに、私のような外部からやってくる「アドバイザー」の存在があると思います。特定の学校を担当し、助言をすると言っても、しょっちゅう授業を見学できるわけではありません。生徒にとっては、せいぜい「見たことある人」くらいでしょう。たまたま私の現在のゼミ生に、アドバイザーを担当していた高校出身の学生がいますが、やはり「高校生の時に、見たことある」だそうです。授業をされる先生の中にも、「お客さん」という感じで私に接してくる方もいます。お客さんの前では、恥ずかしいものは見せられないという心情が働いても不思議ではありません。結果として、授業の演劇化を助長してしまっているのです。

さて、授業の演劇化を意識できている先生はここでは問題にしません。むしろ深刻なのは、ここであげた状況を「当たり前」と受け取ったり、「そうすべきだ」と信じて疑わなくなったりしている場合です。そういった場合、授業という演劇を成り立たせるために、生徒たちはセリフを効率的に身につけることが期待されます。そして、セリフをどれほど正確に身につけたのかが測定の対象となってしまいます。教師にとって生徒は成績評価を行う対象に過ぎず、もはや直接的な対面者としてのコミュニケーションが、授業という場において期待できなくなってしまうのです。

言うまでもありませんが、教師の働きかけに対して、学習者が教師の期待通りに反応し、行動するわけではありません。そのような授業があるなら、それは「もはや人間の学びではなく、性能のよいロボットの動きに過ぎない。そこでの『教育』とは、子どもの行動のコントロールであり、パターン形成に過ぎない」(佐伯胖『「学ぶ」ということの意味』、岩波書店、pp.19-20)ものです。教師が学習者に知識の伝達をするだけの授業は、フレイレに言わせれば「銀行型教育」です。与えられたお金を貯金するかのように、教師から与えられた情報やスキルを受動的に覚えるだけの授業のことです。彼は、銀行型教育には「人間をロボットに変えようとする意図が隠されている」と批判しています(パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』、亜紀書房、p.71)。授業が銀行型教育になってしまえば、学習者は機械化されてしまい、それにより授業を構成する要素として機能することが期待されてしまいます。それにより「演劇としての授業」が成立しやすくなってしまいます。なんとなく「生徒どうしが英語でやり取りをしている」という見かけを作り出せても、そこには主体的な人間としての学びは失われています。文法訳読式のように、あきらかに銀行型教育であれば教師も学習者も意識しやすい問題ですが、「やり取り」っぽく見えるために、かえって問題は深刻になっているのではないでしょうか。

以前、私はこの連載で、AIや自動翻訳について触れました。期待通りの発言・発話の「やり取り」ができるようにするのなら、わざわざ人間がやらなくても、AIや自動翻訳で済んでしまう時代がもうそこにやってきています。しかし、実際のコミュニケーションでは、「期待通りの発言・発話」でやり取りが行われるわけでは決してありません。2020年度からはじまる『学習指導要領』では、いわゆる4技能の中の「話す」力が「発表」と「やり取り」に分けられました。本当に「やり取り」のできる学習者を育てたいのであれば、「期待通りの発言・発話」という発想、ひいては「演劇としての授業」の成立から離れなければなりません。そのような教育観であっては、見かけ上は「やり取り」のように見えても、実際には「発表」と変わらないからです。そして、「教え込み」により、学習者の考える力・機会を奪ってしまうのです。そうなると、『学習指導要領』が求めている「思考力・判断力」といった面も実現がますます困難になってしまうでしょう。

2014年に刊行された『「英語教育神話」の解体: 今なぜこの教科書か』(中村敬・峯村勝・高柴浩、三元社)は、使える英語に特化し、「さながら英会話のテキストと化した」(p.1)学校英語教育の教科書を憂い、「理想的な」教科書の実例を示した良書です。同書の「まえがき」には、次のような文言があります。

 

英語教育にたいしては、原発にたいする「安全神話」を想起させるようなさまざまの「英語教育神話」が信じられている。「英語教育は英語を使える日本人を育成する教育である」「英語の学力とはまず英語で会話ができる能力である」「英語は英語で教えるのが一番よい」 「英語の指導者は英語のネイティブ・スピーカーが一番よい」「英語教育は早く始めれば早いほどよい」「学習時間は多ければ多いほどよい」「日本人が学ぶ英語はアメリカ帝国主義の言語ではなく 国際共通語という中立の言語である」など枚挙にいとまがないが、 最近学習指導要領中心の国策英語教育に悪乗りした「TOEFL (トーフル) 神話」が急浮上してきた。TOEFLというアメリカ製の英語テストで日本の大学の入学試験や卒業試験をやれというのである。このような神話が国策英語教育をささえる信条である。

(同)

 

ここには、「国策英語教育」の問題点の一端が示されています。その多くは、中村さん自身のご著書をはじめ、最近では久保田竜子さんによる『英語教育幻想』(ちくま新書)などで、厳しく批判されてきました。私たちの連載においても、小学校英語教育やネイティブ・スピーカー、入試改革などに触れてきました。そのほかにも、英語教育やその周辺に位置するさまざまな研究者が、いろいろな角度から批判してきたのですが、問題の解決にはいたっていません。研究者による問題提起は、その多くが根拠もなく主張しているのではありません。

しかし、英語教育の「改革」は続いています。学術的な根拠にもとづいた主張とは関係なく、国家政策としての英語教育が変わってきました。「病院によく行くので、医学の改革案を提言しよう」と思うでしょうか。「カラオケで上手に歌えれば、宴会の時に盛り上がるので、学校の音楽ではカラオケをすべきだ」など、思う人はいないのではないでしょうか。ところが、どういうわけか、「英語を普段から使う仕事なので、英語教育の改革案に関わろう」とか、「一般の方は、英語力を求めているので、学校教育の英語は英語でコミュニケーションを図れるようにすべきだ」という主張がまかり通ってしまうのです。教育学的でもなければ、広義の意味での言語学的でもない、まったくの素人的な意見で「国策英語教育」が変えられてきたのです。しかも、大抵の場合が英語教育の外部から、つまりライオンズクラブの非会員からの提言によります。こうした非科学的・非論理的な国策を無批判に受け入れてきたのは世論のせいだ、という面も否定できません。世論が操作されてきた、という方が正しいでしょうか。冷静に考えれば、たとえ素人であっても、小学校で週に1時間や中学校で4時間、英語を学んだからといって、英語を使いこなせるようにならないことは、すぐに気づくことだと思います。

見当違いの英語教育改革が断行されつつあります。過去にも、理不尽な英語教育改革は行われてきましたので、今に始まったことではないのですが…。国策としての英語教育政策にもたくさんの問題があるのですが、英語教育の内部や保護者の期待など、議論すべき問題はまだまだあります。いずれも、とても根の深いものばかりです。このような事態に対しては、即効性はありませんが、粘り強く、問題点を指摘し続けるしかありません。私個人としては、英語教員の養成に携わっていますので、微力ながらも英語教師の意識改革という草の根的な運動を地道に続けたいと思います。

 

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