今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな
この歌は表現に多少の無理があります。無理をしてでも表現したかったことがあるからこそです。
では、その無理とはどんなことか。順に見ていきましょう。
〔ウロコ1〕「今来む」
この表現のすぐ後に「と言ひ」とありますから、「今来む」は誰かが言った言葉ということになります。誰が、どこに、が欠けていますが、その会話の当事者は詠み手と相手に限られますから、そのうちのどちらかです。結句にある「待ち」の主体は詠み手でしかありませんから、言ったのは相手であり、来る場所としたら、詠み手のところでしょう。
「来る」と「行く」という、対になる移動動詞の違いは、「行く」が出発点に表現主体の視点を置くのに対して、「来る」が到着点に視点を置くところにあります。これは現代語でも古典語でも変りありません。
ところが、この歌の口語訳が「今すぐ行くよ」のように、「来る」が「行く」に置き換えられているのが大方です。とすれば、相手のこの言葉は手紙か人伝てに詠み手に伝えたことになります。
しかし、「来る」が使える、普通の状況を考えて見れば、それを告げた相手が到着点である詠み手のところにいたことになりませんか。
たとえば、「またすぐ来るよ」という男性の台詞は、女性との別れの挨拶言葉として常套的なものでしょう。そのつもりがあろうとなかろうと。
この歌の詠み手の女性の場合、相手の男性のその台詞に、そのつもりがあると思い込んだのでした。「言ひしばかりに」の「ばかりに」には、その思い込みがよく現れています。
〔ウロコ2〕「有明(ありあけ)の月」
「有明の月」とは、明け方になっても見える月のことです。その月を見るというのは、その時間帯に起きていることを意味します。なぜそんなに早く起きているのか。女性の立場としては、2つの場合があります。
1つは、共寝をしていた男性が帰るという場合、もう1つは、男性の訪れを待ち続けるという場合です。この歌では当然、後者ということになります。
有明月は、季節を問わず見られますが、この歌では「長月」つまり旧暦九月という時期限定があります。九月は秋の終りですから、夜の時間帯が長くなることが実感される時期です。その分だけ、詠み手は相手を長く待ち続けたということになります。
〔ウロコ3〕「待ち出で」
直前の「有明の月を」に続く「待つ」は月を待つととるのが自然ですが、詠み手が待っているのは相手であって、月ではありません。というか、有明の月など待っていたくないはずです。それに、この月も、当り前ですが、明け方になって急に見えるわけではなく、夜中から明け方までずっと空にあるのですから待つまでもありません。
このような、詠まれた状況に対応させるとしたら、やや無理がありますが、この歌の「有明の月を」は、有明になるまでの間を、であり、「待つ」のはあくまでも相手であり、そうして、「出づ」はその時分に見える月、ととらざるをえません。相手を夜通し待っているうちに、有明の月が出る明け方になってしまった、ということです。
このような状況を、無理してでも、有明の月が出るのを待つ、と受け取れるように表現して、相手の不来訪を直接には示さないようにしたとすれば、そこには女心の奥深さがありそうです。