英語とともに日本語を考える| 第5回 過去の話なのに現在形? :〈た〉形と〈る〉形の交替 |武内道子

5-1 現在形と過去形の間で

日本語の小説やエッセイには、しばしば過去形と現在形の混在がみられます。同じ場面で、同じ状況を、同じ人が語っているのに、です。

はじめの例は『窓ぎわのトットちゃん』からで、この本は、第二次世界大戦終了前まで東京にあった小学校に通っていた女の子が、戦後40年余り経って、東京大空襲の時焼失したこの学校のことを書いたものです。書全体は過去形ですが、短い章立ての始まりの部分が時として現在形で書かれています。

 トットちゃんは、いま、ランドセルをカタカタいわせながら、わき目もしないで、家に向かって走っている。ちょっと見たら、重大事件が起こったのか、と思うくらい。学校の門を出てから、ずーっと、トットちゃんはこうだった。

 トットちゃんは、おぎょうぎよく歩いている。犬のロッキーも、たまにトットちゃんの顔を見上げながら、やっぱりおぎょうぎよく歩いている。こんなときは、パパの練習所をのぞきに行くときに決まっていた。普段のトットちゃんは、大急行で走っているとか、落としたものをさがすためにきょろきょろしながら、いったりきたりとか、よその家の庭を、次々とつっ切って、垣根からもぐって、でたり入ったりしながら進んでいく、という風だった。  

(黒柳徹子『窓ぎわのトットちゃん』)*

最初は、はじめての通信簿をもらった日のこと、いつもと違う気持ちを表すのに、現在形の使用は効果的です。通信簿をもらったという興奮、それを家の人に(彼女の場合は飼い犬にも)に見せてどんな反応をするかという好奇心がもろに感じられます。「走っていった」「や「思うくらいだった」となると、出来事そのものの描写になり、心の中の興奮と好奇心が一緒になったこれまで経験したことのない気持ちは伝わりにくいように思われます。二つ目も、現在形の使用が、パパの仕事場へ行くという、少しあらたまった日常とパパへの一種の敬愛の念を伝えています。「おぎょうぎよく」という語が、パパを誇らしく思う気持ちとそれにふさわしい自分であろうとするわきまえの気持ちとともに、現在形がよく添うように思います。

いずれの語り手トットちゃんも、一瞬過去の状況を語ることを止めて、出来事を、過去の時点から発話時に置き、自分をその中に融けこませ一体となって語ります。学校を出て家に到着する時点まで「走る」という行為が継続している印象をもちます。同様に、「歩く」という行為がどこかへ到達するまで継続するという感じです。現在形の使用が読者を引き込むように思うのは、「走って」「歩いて」到達点まで動く行為そのものよりむしろその行為が継続していると感じるからでしょう。

 次の日本語原文とその英訳を比較してみてください。

「今日の掛け軸、読める?」
 達筆なのか、ヘタクソなの [1]か、一文字も読めない[2]。ぐにゃぐにゃしたり、暴れたり[3]、わざと一般人には読めない[4]ように書いているとしか思えず[5]、 腹が立ってくる[6]。
 それらが、禅寺の高僧の筆だと聞くと、わざと難しくしてエラぶっているように思えた。          

(『日日是好日』 119)** 

 “Can you read today’s scroll?” Sensei asked.
  Whether because the calligraphy was [1] so dexterous or just downright inept, I could not read [2] a single character.
  Sometimes the brush strokes looked [3] limp and formless, sometimes aggressively harsh. Either way, I felt [6] a sense of annoyance, because I could not help [5] but think that the calligraphers had gone [4] out of their way to make the characters illegible to the uninitiated.
    When I heard that the calligraphy was the word of notable Zen priests, it seemed certain that they had deliberately made the characters hard to read, to assert their superiority over others.

  (Every Day a Good Day p. 86)***

先生の問いかけに対して心の中で答えているといえます。過去の出来事ということは最後の段落の「思えた」で分かります。英訳では最初に「先生が尋ねた」とはっきり状況の枠組みが過去のことであることを明示し、最後の「思えた」に至るまで、原文の現在形(〈る〉形)はことごとく過去形([4]は過去のさらに過去)になっています。この日英の差はどう考えたらいいのでしょうか。

日本語原文は、発話時の話し手のこころの中の思いであり、「つぶやき」とでもいうものです。自分に向かって、納得させようと話しているという印象です。最後に我に返って、自分の気持ちをまとめた形で過去の現実に立ち返ったのが過去形の使用になっているのです。

「つぶやき」部分は原文では一つの段落ですが、英訳の方は二つの段落になっていることに注目してください。日本語原文は一つの段落構成になっているのは、つぶやき全体がそのままひとつのまとまりとして「一つのことがら」を語っているということで、束として相手に訴える主張の表明になっています。英訳で二つの段落になっているのは、話題の整理がなされて、一つ目は、「読めない」という主張。2番目は「読めない」ことの理由と腹立ちの表明です。それぞれの段落にははっきりした「言いたいこと」が一つだけあるということです。日本語では最後に視点を過去に戻しているのですが、英訳では過去形の使用によって、終始過去の視点から、過去に起こったことがらを一つ一つ「独立して」描写しているといえます。

5-2 〈る〉形と〈た〉形‐視点の移動

現在、過去、未来は、今の自分を現在に、過ぎ去った時間空間、まだ来ていない時間空間の連続です。書き手の視点が時間空間のどこにあるかによって描写の手立てが異なります。過去のことがらを、過去に視点をおいて観るとき〈る〉形が、視点が今にあるとき〈た〉形が使用されます。英語の場合、視点は現在で固定されます。

一方、動詞、形容詞、形容動詞について「現在形」「過去形」という時制は文法の範疇です。言語は時間空間を、時制として文法に組み込んで表現します。日本語には時制があるとはいえません。過去の事象の中に〈る〉形と〈た〉形が混在するということは、この二つの表現が時制として機能をはたしていないことを示しています。言いかえると、〈る〉形は何かが「まだ終わっていない」といういわば「未完了」の状態を表し、〈た〉形はすでに終わったこと、「完了」したことを表すということです。英語は時制があり、過去の事象は一貫して過去形で表します。(日本語のテンス・アスペクトについては一筋縄ではいきません。包括的に扱っているのは寺村秀夫で、ル形とタ形はそれぞれテンス・アスペクトの両方を表すとしています。日本語教育をはじめ研究に最も影響を与えているといえるでしょう****。)

視点は過去―現在間を移動しますが、視点が現在(発話時)にあるということは、現在から過去に向かう変化と現在から未来への見通しを区別することです。「夏が終わった/行ってしまった」は夏が現実のものからもはや過去のものになったこと、「秋が来た」「秋になった」は未来のものだった秋が現在のものになったことを記述しています。視点から離れていく変化と視点へ近寄ってくる変化は「行く」と「来る」という移動動詞の使用によっても示されています。いずれの場合も、〈た〉形を使っているにもかかわらず、話し手の視点は発話時にあります。

プラットホームで電車を遠くに認めたとき、列車はまだ到着していないのに「電車が来た」と言いますね。自分に向かってくるという意味の動詞「来る」という動詞によって、事象が「起こった」ことという認識で〈た〉形の使用になります。この場合、電車を目にした段階で、すでに到着しているという完了の思いを伝えます。〈た〉形は現在のことと過去のことと事象の完了を表すのです。

見てきた3つの引用例から、〈た〉形の文で描写されていることはすべて起こった出来事そのものである一方、〈る〉形で描写されていることは出来事そのものというより、風景描写であるといえます。書き手が内に取り込んだ風景を描写しているといえるでしょう。個体としての出来事でなく、出来事の周りの状況、心的状況がまつわりつき、完了もしていません。連なって全体の中に埋没している感じです。出来ごとそのものだけを見つめるときと、出来事の環境・心情を含めた全体を見つめるというとらえ方の切り替え(視点の行き来)が、〈る〉形と〈た〉形の交替によって成り立っているといえます。

過去のことを語るのに現在形が使われることは歴史的現在とよばれて英語にもあります。たとえば野球の放送でアナウンサーが、外野手が捕球したとき、すでに完了した事象を「大きなフライです、センターが捕球する、3塁へ投げる」と、〈る〉形を使用することは、「連続した出来事」として、「今」の状態に注目させることになるのです。一つ一つは全体を作る一部としてとらえられます。英語の歴史的現在の使用は、その事象が「過去」の事実としてとらえるのではなく、出来事の描写だからです。

また、他人の過去に言ったことを伝えるときは、過去の言を〈る〉形で表わすことが多々あります。まさに、日本語には時制がなく、アスペクトを示していると思います。英語では常に過去形が使用されます。

先生に呼ばれたAが先生の研究室から出てきたとき、
B:先生になんて言われた?
A:(先生は)救いようがないって言うんだ。もうだめだ。

先生はおそらく「出席は悪いし、提出物もほとんど出ていない。今度の試験で満点でも取らない限り単位は上げられない」といった主旨のことを言ったとします。それを友人Bに伝えたのですが、先生の過去の言を〈る〉形で提示することによって、「先生が言ったこと」をAの今(発話時)の気持の中に埋没させ、今の気持ち全体(「もうだめだ」という)を構成する一部としてとらえられ、悲観的なこころの状態という絵図を見せることになります。

過去の出来事の描写に、〈る〉形と〈た〉形が混在するのは、書き手が過去の出来事全体、意味世界に入り込んでいて、そこに起こる完了・未完了を示しているからです。

5-3 視点と〈ウチ〉〈ソト〉の移動

現在・過去・未来という「時間」は、前回示した〈ソト〉〈ウチ〉の関係で表されます。つまり、空間表現を比ゆ的に時間表現に転移することになります。自分が今いる時が「現在」ですから、〈ウチ〉といえますが、その幅はひとによって、状況によって違ってきます。そして「過去」という〈ソト〉へ出たり、「未来」という〈ソト〉へ出たりするのです。「現在」という中にいて、「過去」は記憶の中にある〈ソト〉で、「未来」は未体験の〈ソト〉ということです。

〈ウチ〉〈ソト〉の出入りと〈る〉形〈た〉形の相関を読み取ってください。

 ... 同じTBSの「赤い」シリーズ第2弾の「赤い疑惑」が始まったのは75年10月であった。 ... 「赤い疑惑」では山口百恵さん、三浦友和さんの初共演も話題だった。だけど、私は途中の15,16話を担当して降板した。  当時の百恵ちゃんは超売れっ子で多忙。すべてが百恵ちゃんのスケジュール優先になる。分刻みで仕事をしている百恵ちゃんが覚えられるように、セリフを少なくしなければならない。登場するシーンも制約を受けるから、当然脚本が制約をうける。私はそれが嫌だったから降りた

橋田寿賀子「私の履歴書」(『日本経済新聞』2019年5月19日)

二重下線の「降板した」と「降りた」は〈た〉形を使用していますが、その間下線部分が〈る〉形です。〈た〉形と〈る〉形が、いわばサンドイッチになっています。過去の事実を語る中、〈た〉形から〈る〉形へ、〈る〉形から〈た〉形へ切り替わっています。書き手がフィリングの部分で過去に視点を移したので、過去の出来事が〈ウチ〉に入ったことを示そうとして〈る〉形を使っています。読み手の方も共感的に視点を移動することになり、降板した理由と百恵ちゃんの忙しさに臨場感が出てきます。

一つの事象を認知する時、日本人は〈ウチ〉から〈ソト〉へ、〈ソト〉から〈ウチ〉への出入りを自在に行っているのですが、これを描写するとき〈る〉形と〈た〉形間で行き来させることになるのです。〈た〉形は一つの出来ごとを、発話時の「今」と切り離された、完了したこと/ものと認知していることになり、一方〈る〉形の使用は、一つのことがらと、その後に起こったことがら及びそれにまつわる心情とともに、状況全体を連続した流れの中で認知しているといいたいのです。

このことをもう少し見ていきます。連続テレビ『おしん』の撮影場面の描写です。

 1983(昭和58)年1月19日の最上川。雪こそ降っていなかったが、水は身を切るように冷たい。筏を操るのは地元の船頭さん。筏は見えないようにロープで岸につながれ、万一に備えて2隻のボートが待機する。雪が積もった岸辺に散るスタッフは、ロングの撮影で姿が映らないように、白いシーツをかぶってうずくまる。撮り直しはきかない
 その日風邪気味だった10歳の綾子ちゃんが、思い詰めたような目で筏の真ん中に座っている。筏がゆっくりと動き始めた。カメラマンが腰まで水に浸かって筏を追う

橋田寿賀子「私の履歴書」(『日本経済新聞』2019年5月22日)

「雪こそ降っていなかった」と過去時制〈た〉形で始まり、話の全体の枠組みを作ります。続いて「水は身を切るように冷たい」「待機する」「うずくまる」「撮り直しはきかない」「降っている」と、〈る〉形を使用することによって、発話時の時点でなく、過去の時点に視点をおいて過去を語るのです。その場に居合わせている気持ちは、連続した出来事はすでに終わったこと、完了したことではないということです。一つ一つの出来事を見つめた描写ではなく、出来事そのままをひとつのまとまりとして、いわば一片の絵図を描写しているといえます。一転我に返って、「筏がゆっくり動き始めた」と、〈た〉形によって現在(発話時)に戻り起こったことを客観的に描写することになります。

〈ソト〉から〈ウチ〉への入り、〈ウチ〉から〈ソト〉への出は発話者(書き手)の視点の動きです。受信者(読み手)は、〈る〉形と〈た〉形の行き来によって、発話者・書き手とともに感情移入します。出来事一つ一つではなく、個々の出来事が融解した連続体的イメージを受信者は受容するのです。

〈る〉形がいかに感情移入表現と関わるかをもう一つみてみます。

その時、自分の中で声がした
「このままで、いいじゃないか」 
「いつやめても、かまわない。ただ、おいしいお茶を飲みにここに来る。これまでだって、ずっとそうだった。そのままで、いいじゃないか。」
自分の中から聞こえるのに、空から降ってきたみたいだった「やめる」「やめない」なんて、どうでもいいのだ。それは、「イエス」か「ノー」かとはちがう。ただ、「やめるまで、やめないでいる」それでいいのだ
...
 背負っていた荷物を、私は放りだした。ふっと、肩の力が 抜けて身軽になった。私は、体一つで、そこに座っていた

(『日日是好日』185)**

   Just then, I heard a voice inside my head say, “Things are fine as they are, right?”
    “You can quit whenever you like. In the meantime, just come and enjoy the tea. That’s what you’ve been doing until now, after all. Things are fine as they are.”
    Although the words came from somewhere within me, they seemed to float down from the sky. 
It was not a question of deciding whether to quit or not. It didn’t have to be yes or no. Until I actually quit, I was still in a state of not-having quit, and that was fine.
...
    I unburdened myself of the load I had been carrying. The tension left my shoulders and I felt suddenly lighter. I was completely present.

  (Every Day a Good Day. 130-31)***

お茶の稽古をやめようと考え始めて、きっぱりやめようと決心していた矢先、やめるのを止めようと考えたという場面です。はじめの部分は、もう一人の自分が私に向かって話しかけていることが引用符によって示され、〈る〉形で納得します。英訳も同様です。しかし、「空から降ってきた声」が私に話しかけるところも原文は〈る〉形ですが、英訳では過去形になっています。日英とも引用符がありません。原文の引用符のないところを〈る〉形が補っていると考えればいいかもしれません。天の声が作者の内で話しかけ、本人のきわめて〈ウチ〉的な意識の描写となり、全体を今の心情の吐露として理解します。一方英訳の方は過去形の使用によって、もはやこころの状態の吐露ではなく、行為者の行為一つ一つについて記述するものとなっています。そして「私は放りだした」以下の発話は、内なる意識の流れから目覚め、過去に起こった出来事として再び〈た〉形に戻って表現されています。

日本語のもつごく普通の「二層の談話形式」現象は英訳されると消えてしまうことがわかります。過去のことを今の自分の上に持ち込むという内的意識の流れは英文に取り込むことが出来ないことを示しています。原文で、「空から降ってきた」という過去の枠組みを作り、天からの言が一つの段落に収められていること、個々の出来事を一つの束として表現しているところを、英訳では、パラグラフを独立させ、個々の出来事を説明していることに気づいてください。

 過去の事態を物語るとき、〈る〉形と〈た〉形の振る舞いをまとめてみます。

 〈る〉〈た〉
1.視点は発話時、〈ウチ〉にいる。
1.視点は事態の起こっている過去、〈ソト〉に出ている
2.行為者の意識の描写(=つぶやき)
周りの風景・出来事の環境
心的状況の吐露・感情移入
2.行為者の行為そのものの描写
3.起こったことがら全体を一つのことがらとして提示
=連続した一続き・融解したひとつのこととして 
したがって完了していないもの/こととして描写
3.個々のことがらを独立して提示         

個体の事態の描写
       
したがって完了したこと/ものとして描写

                               

5-4 一片の絵図

本来は非過去形というべき〈る〉形が過去のことがらの描写に使われる現象を見てきました。日本語の動詞(形容詞、形容動詞)に現在時制と過去時制の対立はないという事実を見てきました。視点の動きによってことがらの推移を表示することは、外界の存在を、現実の過去‐現在‐未来という時間軸においてとらえるのではなく、書き手の認知の様式に則ってとらえることです。〈る〉形と〈た〉形の間を行き来する日本語の文章術の特徴は、日本語の本質的特徴として広がりと深さをもっていることに触れたいと思います。私は「絵図」ということばを何回か使いました。この意味を話すことになります。

過去時制の中の現在時制の混在現象についての議論は、行為、出来事をことばによって表示するとき、その表示方法に2タイプを区別することになると考えます。

タイプA:
① 出来事を一つ一つ取り出し、動作主を前面に出し、連続しない個体として記述する。
② 行為、動きの変化として見るので、位置、場所の変化として記述され、変化の結果を含む。
③ 行為の独立性と完了の概念がある。
タイプB:
① 一つ一つの出来事を、動作主の概念が表に出ないで、全体の中に融け合わせた連続的なイメージとして記述する。
② 状態の変化として見るので、時間的変化として記述され、結果は必ずしも含まない。
③ 行為の継続としてとらえられるので完了の概念はない。

日本語はタイプBであり、英語はタイプAに属するといえます。

たとえば、枯枝にとまっていた鳥が飛び立ったという風景をことばにしてみてください。「鳥が飛び立った」と言うより「鳥が飛び立っていった」の方が自然な日本語と感じます。鳥が飛び立ったばかりの枝の揺れ、鳥が小さくなって見えなくなるさま、秋の暮どきの空の色までイメージに入ってきませんか。これが「個体の姿の没した連続体的イメージ」で〈いった〉という補助動詞のおかげで生まれます。こういった「状態の継続」としてとらえる行為・動きの表示がまさに一枚の絵であるというのが私の言いたいことなのです。

英語では’A bird /The birds flew away.’となるでしょうか。まず一羽なのか何羽もいるのかを決め、鳥の動きを「場所の変化」としてとらえています。場所の変化はことがらの本質は変えませんが、「状態の変化」は、前と後では本質的に変わります。一枚の絵はそのすべてを見せてくれるということです*****。

二つのタイプの違いは、単数と複数の対立の有無、日本語独特の関係詞節、ぼかし的な物言いや受け身表現における差異など多くの言語現象と結びついています。これから触れることになります。

*黒柳徹子. 1981.『窓際のトットちゃん』講談社. 

**森下典子. 2009.『日日是好日 お茶が教えてくれた15のしあわせ』新潮文庫。

***Goldsmith, E. 2019. Every Day a Good Day: Fifteen lessons I learned about happiness from Japanese tea culture. 出版文化産業振興財団.

****寺村秀夫.  1984.『日本語のシンタクスと意味 II』くろしお出版.

*****池上は「場所の変化」対「状況の変化」、「非連続的」対「連続的」の概念を、日英二言語の構造において対比分析しています。
池上嘉彦. 1981.『「する」と「なる」の言語学―言語と文化のタイポロジーへの試論』大修館書店.

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