村上春樹の長編小説では、よく二つの物語が並行して進む。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『海辺のカフカ』『1Q84』などが代表的な例だろう。同時に動いていく二つの物語はどこかで合流したり、有機的につながっていたりする。これは一体、何なのだろう。村上はなぜ、この方法を多用するのだろう。
小説全体が、一つの中心しか持たない円と言うよりは、二つの中心を持つ楕円形のような構造になるといえるだろうか。異なる主人公が存在するので、物語が直線的でなく広がりを持つ。また、二つの異なる世界が重なるので、思わぬ深みを持つともいえる。一つの物語だと闇として残るものが、光で照らされるということもある。
おそらく、これは村上文学の核心をつく特徴の一つだろう。読んでいて戸惑うこともあるのだが、その戸惑いこそ、村上作品を読む楽しみと考えるべきだ。
新作小説『夏帆とモーターサイクルの男、そしてスカーレット・ヨハンソン』が「新潮」三月号に掲載された。連作〈夏帆〉の四作目。これで完結することが明示されている。二百五十枚。短編ではなく、中編と呼びたい分量だ。ここでも二つの物語が並行して進み、今回は互いに刺激し、加速し合うように動くのが興味深い。
連作はいずれも、「新潮」に掲載されてきた。『夏帆』(二〇二四年六月号)、『武蔵境のありくい』(二五年五月号)、『夏帆とシロアリの女王』(二五年十一月号)と続いてきた。
連作の主人公は夏帆という女性だ。第一作の時は二十六歳。埼玉県の出身。父親は開業医だ。本人は都内の美術大学を卒業して、絵本作家、イラストレーターとして暮らしている。今は東京都の武蔵境に住んでいる。二年余り交際していた恋人と別れて間もなく、その生活は孤独をにじませる。
夏帆は自分が属していた世界からはみ出してしまったのではないか、いつのまにか、自分の世界の境界を踏み越えてしまったのではないかと考えている。それはそうだろう。モーターサイクルの男にひどいことを言われたり、アリクイの夫婦にアドバイスされたり、シロアリの女王に母親の魂を乗っ取られたり。随分と平穏な日常をはずれて、特異な世界をさまよっているのは確かだ。
そこで、夏帆は母親の人生を振り返り、自分と母親との関係を自問することになる。母と娘の愛憎。そして、女性である自分のあるべき生き方。村上春樹にとってはあまり扱われてこなかったテーマだ。
そんな現実とともに、やはりこの作品でも、もう一つの物語が同時並行で進む。その物語とは、夏帆が書いている絵本だ。夏帆は自身の無意識から絞り出すように物語を創出する。
夏帆が執筆している物語はこういうものだ。主人公は十歳の女の子。家族と一緒にハイキングで森の奥に来ていた。昼食の後、横になって昼寝をしている間に一人ぼっちになってしまった。家族全員、見当たらない。大声で家族を呼んでも返事がない。
夏帆が生きている現実と、彼女が書いている物語。二つが歩を合わせるように動いていく。そのうちに、夏帆は自ら能動的に思い切った行動を実行し、それは泥沼のような危機に陥っていた母親を救済することにつながる。
絵本の十歳の女の子もなんとか危険をくぐり抜けて、現実世界に戻ることになる。ただ、そのためには一度、ゾウに踏み潰されてぺしゃんこになり、そこから再生することが必要だった。この女の子の主人公が現実に戻ってくるためには、「守護天使」だという雌猫が大きな役割を果たす。このネコの名前はスカーレット・ヨハンソンという。
ヨハンソンはアメリカの映画女優。「ロスト・イン・トランスレーション」を見たが、長身ではないが存在感があり、演技派で理知的な感じのする人だった。村上は、読者からのメールでの質問に答えた『村上さんのところ』(二〇一五年、新潮社)でこの女優に言及している。ちょっと引用しておこう。「好きな女の子のタイプを女優で言うと……」という百八十番目の質問に答えて。(単行本は八十九頁、文庫本は二百十一頁)
女優でいうと、僕が好きなタイプは、シシー・スペイセクとロザンナ・アークエットです。変かな? 鼻に特徴があるかも。
最近ではスカーレット・ヨハンソンさんが気に入ってます。
実はこのハリウッド女優の名前を持つ雌猫は、絵本のヒロインだけでなく、現実の夏帆も導く。母親をシロアリの女王から解放するための行動をしようとする時、夏帆は躊躇する。しかし、この雌猫が夏帆を大胆な行動へと促すのだ。
猫を通して、二つの物語がつながる。雌猫は絵本のヒロインが現実へ戻ることに手助けしたように、夏帆に母親を救済する行動をするように背中を押す。猫は「守護天使」と呼ばれる。
この小説にはもう一人、守護天使を自称する者が登場する。それはなんと、モーターサイクルに乗った男なのだ。てっきり、悪役(夏帆を不幸へと落とす存在)に見えたモーターサイクルの男だが、連作の四作目にして、立場は百八十度変わり、夏帆を見守る守護天使だと自分で語るのだ。
男は言う。自分は「守護天使界のジャック・ケルアックのような存在なんだ」と。ジャック・ケルアック(一九二二~一九六九)はアメリカの小説家。代表作の長編『路上』はビート世代(戦後のアメリカで既成の価値観を否定して自由を主張した一連の文学者たち)の代表作の一つと目されている。
男は、境界線を越えてしまった夏帆を助けるために、さまざまな行動をしてきたという。侮辱的な行為も、警告するためだったと説明する。
猫とケルアック。面白い組み合わせだ。詳述は避けるが、これまでに村上作品(たとえば、『ねじまき鳥クロニクル』)でしばしば、象徴的な役割を担ってきた動物と、カウンター・カルチャーを代表する名前。この二つが守護天使となって、夏帆を導く。猫とケルアックに肯定的なイメージを重ねるのが、現在の村上の境地なのだろうか。
最初の話に戻ろう。現実の物語と、夏帆が絵本の中で展開する物語。両者はからみ合うように動いていく。互いに相手に拍車をかける。
特に絵本の物語が現実の夏帆を導き、促すような働きをする。実は夏帆の守護天使とは、夏帆自身の無意識だったのではないか。彼女が自身の声に耳を傾けることで、彼女は自分を救済し、母親を救済したのではないか。そこにこの作品の思想があるのではないか。絵本作家という無意識を表現することを生業にしている主人公は、この小説にいかにもふさわしい。
筆が伸びやかに進んでいる印象を受けた。村上自身が結論を急がず、物語をあるいは楽しんでいるような感じがしたのだ。物語の進行を味わっているような気配があったのだ。
村上は昨年、大病をわずらい、一カ月入院し、体重が四十ポンド(約十八キロ)も減ったという米紙の報道に接した。心配していたが、その影響は新作小説からは直接には感じられなかった。村上の健康を祈って、今回の文章を閉じよう。












