書評 出原健一 著『マンガ学からの言語研究 「視点」をめぐって』ひつじ書房 2021年、249pp.

阿部宏(Hiroshi Abe)

東北大学大学院文学研究科・文学部 / 教授

 出原氏著の本書は、マンガを言語学、心理学等の研究の補助手段としてではなく、言語と対等な研究対象として扱い、さらにはマンガ学から言語研究のヒントをも汲み取ろうとする画期的な著作である。その中でも特筆すべき成果は、マンガ学でいわれる身体離脱ショットと欧米語の自由間接話法との共通性を指摘したことであろう。本書評では、この点を中心に考察を展開してみたい。

 英語等の欧米語には、直接話法とも間接話法とも異なる自由間接話法という以下のような奇妙な話法がある。

Presently he told her the motion of the boat upon the stream was lulling him to rest. How green the banks were now, how bright the flowers growing on them, and how tall the rushes ! Now the boat was out at sea, but gliding smoothly on. And now there was a shore before him. Who stood on the bank !

(Charles Dickens : Dombey and Son, Harmondsworth: Penguin. [1848]1985, p.297)

 感嘆文やnowの頻出からもわかるように、下線部はあきらかに作中人物のセリフだが時制は過去形に置かれている。セリフや心理が地の文中に埋め込まれることは日本の小説でも普通にあるが、nowで表された発話者にとっての現在が動詞としては過去形になるなど、日本語話者には全くピンとこない。欧米語の教員にとっては、学生にいくら丁寧に説明を試みてもなかなかわかってもらえない文法学習の大きな難所の1つである。

 この自由間接話法は、「2つの声」仮説によって伝統的に説明されることが多い。つまり、内容面は特定の作中人物のものだが、その時制や人称などは作中世界外の語り手の立場からのものである。物語世界全体が過去である以上、時制も過去形になり、発話者を示すIがあった場合は、heやsheに変換されてしまうのである。

 このような作中人物と語り手との関係は、マンガにおいてはどう扱われるのだろうか?星野之宣の作品中から評者が発見した図1を見られたい。

 コンピュータを通じて未来の自分から数分前の自分に向けて警告が送られるが、中段右側で作中人物の顔がコマ一杯に描かれ、それ以降のネコの動きを描いた各コマは彼の視覚像そのものになってしまう。つまり描き手の客観性から作中人物の主観性へと、スタンスが転換されるわけだが、この種のターニング・ポイントには、顔や眼を大きく描いたコマが配置されることがマンガ学で指摘されている。

 ところで、出原氏のいう身体離脱ショットとはどのようなものなのだろうか?図2を見られたい。

 上の大きく描かれた2つの顔は客観性から主観性へとスタンスの転換を示すおきまりのコマだが、その下では、気球の観測者たる女の子と巨大にデフォルメされた気球が同じコマの枠の中に収められている。描き手の立場から女の子の視覚像へ、つまり客観性から主観性に単に転換するのではなく、両者が共存しているのである。これは自由間接話法の「2つの声」のマンガ版である、というのが出原氏の主張である。

 本書では、マンガと言語現象のこの種の意外な平行性が多々指摘されており、評者にとって読書中は新鮮な驚きの連続であった。認知言語学、また自由間接話法の研究書であるとともに、マンガ学や言語研究の最新の方法論の一般読者向け解説書的な性格も兼ね備えている。

 評者は刊行直後に授業等で興奮気味に学生に紹介した次第であるが、アフリカ圏フランス語を研究している武田秀祐君(ソルボンヌ大学修士課程留学中)がさっそく反応してくれた。彼のコートジボワールのマンガ家マルグリット・アブエの『恋するヨプゴン・ガール』を分析した興味深いレポート(東北大学文学研究科「広域文化学総合科目」)の中から、当人の許可を得て、3例を紹介したい。

 図3は客観性から客観・主観同居の身体離脱ショットへの移行であろう。

 しかし図4と図5はどうであろうか?図4は、痴漢の目撃場面である。やはり客観性と主観性が混在した身体離脱ショットのようでもあるが、その主観性は左端の女の子のものとは必ずしもいえないのではないか?しかしそうだとすると、その印象はどこからくるのだろう。痴漢場面にあまりデフォルメ感が感じられないからだろうか?作中世界外の描き手とはまた別に、出来事のまさに現場に匿名的な観察主体がいるのかもしれない。

 また図5の左の猫背の男は中央に大きく描かれた女の子の視覚像のようでもあるが、瞳こそ男の方に寄っているとはいえ、顔はむしろ男を避けているかのようである。武田説では、ここでもやはり「登場人物の見えではないのに主観性を感じられる」ということであるが、出原理論ではどのような分析になるであろうか?

 本書は、マンガが近年の言語学の中心的研究テーマである視点、主観性関連の現象がより鮮明に露呈する場であることを教えてくれた。評者にとって、忘れられない一書となりそうである。


 本記事は、『彦根論叢』第430号(滋賀大学経済学会、2022年1月・冬号)より、許可を得て転載したものです。元の記事は、滋賀大学経済経営研究所HP内、『彦根論叢』オンラインジャーナル(https://www.econ.shiga-u.ac.jp/ebrisk/2020/kenkyuseika/Ronso/index.html)で読むことができます。転載にあたり、以下の点を修正しました。

図3の前
「東北大学文化学研究科」→「東北大学文学研究科」


マンガ学からの言語研究 「視点」をめぐって

出原健一著

2021年刊行

ISBN 978-4-8234-1048-2 定価3500円+税

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