芥川賞作品を読む|第8回 小川洋子『妊娠カレンダー』(第百四回 1990年・下半期)|重里徹也・助川幸逸郎

芥川賞は世俗や悪意が好き

助川幸逸郎 私たちといっしょに読書会をやっている若い女性が、この小説について名言を口にしています。「芥川賞って汚い小説だと獲れるんですね」って。『妊娠カレンダー』について、これ以上に的確な評価はないのではないでしょうか。

重里徹也 小川洋子というのは大雑把にいえば、純粋で美しい世界を描く作家ですよね。死と近接した透明感のあるピュアな作品が多い。そこでは人間の善意や美点が切なく描かれる。けれども、浮世のしがらみや世俗のあつれき、人間の悪意や心の闇を描いた方が芥川賞に近づくという意味ですね。

この半期前の小川の候補作は『冷めない紅茶』ですね。これは小川らしい清澄で切ない世界を描いている。でも、これでは芥川賞は受賞できなかった。「汚い小説を書いた方が芥川賞をもらえやすい」傾向があるのは確かなようです。

助川 芥川賞というのは、どこか自然主義リアリズム的な意味でのリアリティーを、作品に要求するところがあるのではないでしょうか。

小川洋子には小川洋子なりのリアリティーというのがあるのだけれども、それだけでは芥川賞は認めてくれない。どこか「生きていることに伴う汚れ」というか、「体臭」がダイレクトに漂ってくるような部分がないと芥川賞はもらえにくいのではないでしょうか。

重里 ある種の世俗的なもの、浮世の義理や人間の体臭とかかわらないと芥川賞は獲りにくいということは分かります。かといって世俗だけでも芥川賞には手がとどかない。世俗だけでも、世俗から離れすぎても受賞できないのが芥川賞という気がします。

助川 中村光夫の『風俗小説論』とか、一連の自然主義批判の文書が指摘するとおり、自然主義作家というのは風俗作家でもあるわけです。やっぱり日本文学の伝統にオブセッションのように憑依しているこの自然主義的なもの、「体臭のような汚れ」と「風俗」が結びついたところにリアリティーを感じるありようというのを、芥川賞の選ばれ方から私は感じます。

だから小川洋子は、全然自然主義的な作家じゃないから本来の作風では獲れなかった。村上龍はもらえたけど村上春樹がもらえずじまいになったのも、自然主義的なものとの懸隔の度合いから説明がつく気がします。

重里 これは推測ですが、初期の村上春樹はあまり編集者(特に文藝春秋の編集者)と密接なつながりを持たなかったから、『妊娠カレンダー』のような作品を書かなかったのではないかと推論します。小川洋子は、編集者のアドバイスをきちんと消化して、芥川賞を受賞したのかな、という気がします。

芥川賞作家になれば、次の作品を書く場を与えられます。どんどん自分の世界を掘っていけるわけです。ただ、小川洋子には、ある模索の時期があるように思います。芥川賞を受賞後、『博士の愛した数式』を出すまでの十数年間ですね。小川本来の作品世界をより広い読者に共有してもらうためにはどうすればいいか。力をためていた時期があると思うのです。この間に『密やかな結晶』のような魅力的な作品も書かれました。そして、『博士の愛した数式』で一挙にブレイクしたのを鮮やかに覚えています。

この時期の模索を表現すれば、「物語を開きたい」、しかし、「自分の世界をしっかりと作りたい」という、二つのことをどのように融合すればいいか、ということになるのではないでしょうか。

助川 いわゆる「女性作家」って呼ばれる人たちがいます。女性特有のものの感じ方というか、女性の本音だとみなされているものをもっぱら書いて、その中に必ずしも美しいとは言えないような感情や生理を交えていく。そういう作家って一九九〇年代後半にはそれなりにたくさんいました。

小川洋子は、必ずしもそちらの路線で個性が生きる作家ではなかった。それなのに『妊娠カレンダー』で芥川賞を獲ったせいで、そういった「女性作家」が書くような作品を期待されてしまった。重里さんが指摘される「小川洋子の模索時期」は、そこに起因していると私は感じます。

重里 母性批判とか、現代の女の生き方小説とか、そういうものを書いてほしいという期待が、『妊娠カレンダー』後の小川洋子には寄せられたかもしれません。

助川 『妊娠カレンダー』の主人公って、よくよく考えると、ぜんぜん悪い人じゃないんですよ。むしろ善人なのにすごく無理して、自分の悪意をほじくり返しているようなところがあって……。腹黒い人の悪意って傍から見ていておもしろいんですけど、善人の悪意って小市民的で、読まされてもあんまり興奮しないんですよ(笑)。

重里 芥川賞の選評でも指摘されていましたが、そもそもアメリカで認可されている農薬のせいで、障害児がどれぐらいの確率で生まれるのだろうかという疑問はありますね。

助川 この主人公の「悪意」というのは、OLが気に食わない上司にお茶を入れるときに、わざと洗っていない茶碗をつかった、というのよりもっと罪のない「悪意」だと思います。

重里 客観的にはそうですね。無理矢理に妄想で悪意をかきたてている。小川洋子というのは善意の、自分が美しいと思うものの小さな声に耳をすませる作家なのだから、自分の資質と少し違うことをしたのかもしれません。

助川 だから『博士の愛した数式』で、あの博士への愛と阪神タイガース愛が爆発して、「ああ、小川洋子は、美しいものを美しいという作家なんだ」って本当によくわかりましたね。

「阿美寮」で暮らす小川的世界

重里 『妊娠カレンダー』に戻っていえば、子供のころから主人公たちがなじんでいたあの病院の世界、試験管があったりビーカーがあったりする、ちょっと詩的な調子で描かれている無彩色の世界。記憶の中にあって時間が止まっているように見える世界。あれが小川洋子の世界ですよね。作家本来の世界です。

助川 失われてしまった美しいものの記念碑を立てていく。小川洋子のやっていることって基本的にそれのくり返しですよね。

重里 小川がくり返し描く世界は、村上春樹が『ノルウェイの森』で描いた「阿美寮」の世界に通じるものがあります。死と隣接したある種の純粋な理想社会のようなもので、決してこの世では長続きしない。そういう世界です。

助川 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終り」とか、村上は阿美寮的な世界をくり返し描いていると、重里さんはつねづねいっておられます。小川洋子が描く『妊娠カレンダー』の病院みたいな世界も、確かに村上春樹の阿美寮的なものに通じる面を感じさせますね。

重里 ただ、村上春樹と小川洋子では、阿美寮的なものに対する態度が違っています。村上春樹は、阿美寮の世界を捨てざるをえない人間が、「終わってしまった感覚」とともに、その後をどうやって生きていくかを描いている。小川洋子は、阿美寮を捨てきれない人間に焦点を当てているのではないでしょうか。

助川 小川洋子が『ノルウェイの森』を書いたとしたら、直子が死んでしまったからこそ、レイコさんは一生、阿美寮で暮らすことになるじゃないかという気がします。実際にはレイコさんは、直子の死をきっかけに長年の阿美寮での生活に終止符を打つわけですけれども。

重里 あるいは、直子が死ぬ前に、主人公が阿美寮で直子と一緒に暮らすかもしれません、小川洋子が書いたとしたら。そして、二人でレイコの演奏するビートルズを聴きに行くかもしれません。「毎週水曜日の夜はレイコさんの歌を聴きに行く」という感じ(笑)。

助川 もう、小川洋子版『ノルウェイの森』が脳内で暴走して止まらないですけど(笑)、おばあさんになったレイコさんが、「なんであなたはこんなに長くここで暮らしているんですか?」って阿美寮を訪れた若者に訊かれる話とか書きそうですよね、小川洋子って。

重里 それで、「昔、こんな女の子がいたのよ」と、直子の思い出話を語る。失われてしまったものの記憶とともに。小川洋子なら、緑のことはもっと悪意をもって描きそうですよね。

助川 たぶん、そうだろうと思います。

重里 緑ってなかなか魅力的ですよね。だけど、小川洋子が書いたら、緑っていうのは悪役になるしかないだろう、という気がします。

助川 村上春樹の作品では、緑の世界と直子の世界で綱引きをして、主人公は結局、直子の世界から緑に引っ張られて出てくというのが基本パターンなんですね。『海辺のカフカ』のカフカ少年だって、最後には中野区野方に帰還します。小川洋子の小説だったら、カフカ少年は香川県から戻ってこれないはずです。

重里 小川洋子版のカフカ少年は、四国の図書館で、お母さんかもしれない女の人の若いころの姿をした幽霊と、ずっと一緒に暮らすのではないでしょうか。毎日、筋力トレーニングをして身体を鍛えながら、訪れた人を笑顔で迎える。静かで深みのある生活です。

助川 そうですね。あの甲村図書館の世界はまさに、『妊娠カレンダー』の病院や、『博士の愛した数式』の「江夏が投げていた甲子園球場」なんだと思います。

重里 つまり、小川洋子の登場人物は、「世界の終り」から出て行かないということですよね。「なんてここは良い世界なのだろう。みんな自我を失って、優しく静かに暮らしている。居心地のいい世界だ」と考える。それが小川洋子の世界ですね。それだけでは芥川賞を得にくいと考えた編集者が、『妊娠カレンダー』を書く方向へアドバイスしたのではないかというのが、私の推論です。

小川洋子も、物語世界をこじ開けたいと思ったからこそ、『妊娠カレンダー』を書いたのでしょう。一方で、自分が親和感を抱く世界をもっと深く現出させたいという思いもあった。それで、芥川賞の受賞後、模索の時期が続いたのでしょう。しかし結局、「世界の終り」から出ていくことを保留して、開きなおって『博士の愛した数式』を書いた。その世界は時間が限定されている(博士の記憶は八十分しかもたない)という制約をつけることで現実ともわたりをつけているわけです。つまり、現実との通気口を作った。この選択はうまくいきました。

生きながら死んでいる

助川 ある意味で小川洋子って、生きながら死んでいるんですよね。でも、あるタイミングで本気で生きようと思ったんでしょう。生きている世界を書けないと、芥川賞を獲りにくいよ、みたいなことをまわりにいわれたのかもしれない。それで『妊娠カレンダー』を書いたりした。にもかかわらず、やっぱり生きながら死んでいる世界が彼女の居場所だったんですね。

重里 作家の資質とは何なのかというのを考えさせられます。

助川 ただ、小川洋子がこういう、生きながら死んでいるみたいな世界を描く、というのは、個人的な資質の問題だけではないと思うんです。どういう時代の必然が小川洋子を生んだのか。そこのところに私は興味があります。村上春樹との対比も含めて。

重里 小川洋子はとても人気がありますよね。たくさんの愛読者がいます。学生に作品を紹介すると、必ず、ファンになる人が出てくる。それは何かを示しているのでしょう。それは一九九五年の大震災後の日本というか、平成期の我々の時代の意識とも関係があるのだろうと思います。『博士の愛した数式』は困難に満ちた平成期を象徴する作品です。

助川 同感です。日本って、ガラパゴス化しているっていうか、世界の趨勢から、ものすごくずれている部分があるわけですよ。

たとえば今、コロナウイルスが流行して、リモートワークするように求められているわけですが、そういう状況を押して出勤してきたサラリーマンをつかまえてインタビューしたら、「今日はどうしてもハンコを押さなくてはいけない用件があって出社しました」って言っていて。そういう光景をアメリカのマスコミなんかは評して、「日本はファックスとハンコがまだ生き残っている国である!」と書き立てたりしています。

そういう閉ざされた特殊な空間に生きていて、日本の庶民の大多数は、自由意志でそこから抜け出せないわけです。だとしたら、この空間の中にあるかけがえのないものを大切にして生きていくしかない。そういう現代日本人のメンタリティーに、小川洋子はフィットするのではないでしょうか。

村上と小川が示す平成という時代

重里 なるほど。道端の小石や部屋の隅っこに置き忘れられていた小箱にかけがえのない意味を見いだすのが小川洋子ですからね。一方で、村上春樹も阪神大震災と地下鉄サリン事件の後、世界中で読まれるようになっていきます。

助川 村上は、中国大陸での戦争に従軍した父親がいて、八〇年代後半から九〇年代にかけて、ずっとアメリカやヨーロッパに拠点を置いていた。日本と世界のズレに敏感な立場にいたから、阿美寮みたいな特殊空間に留まれない話を書き続けるしかなかったのでしょう。

重里 村上春樹も小川洋子も、西日本に生まれて、大学は早稲田です。ところが村上は、大学卒業後も東京に居つづけて、さらにヨーロッパやアメリカに移動する。これに対して小川は、大学を卒業してすぐに故郷の岡山に帰って、今は兵庫県に住んでいる。このあたりにも、両者の資質の違いが表れているのかもしれません。

助川 村上の場合、欧米文化からの影響もはっきり作品に出ていて、SFとかミステリーの枠組みでシリアスなテーマを語る作家として、欧米の小説家と並べて海外では語られています。その意味で、ほんとうにインターナショナルな作家です。

 小川洋子も、海外でよく読まれているのですが、とくにフランスで人気があるようです。フランスは、アニメとかビジュアル系バンドとか、日本の固有の文化が受ける傾向にあるので、小川のフランスでの人気もそこのあたりとも関係があるのかなと思ったりもします。現代日本というちょっと孤立した空間のなかで、特殊に発達し、研ぎ澄まされたものを、フランス人は愛でる傾向があるのかなと。明治維新で日本が開国した直後、ジャポニズムがいちばん強烈に台頭したのもフランスでした。

重里 平成の日本とはどんな時代だったのか、どんな空気だったのかを後世の人間が考える時に、村上春樹と小川洋子を並行して読むといいのかもしれません。『海辺のカフカ』と『博士の愛した数式』。

助川 小川と村上は、平成の日本が抱える同じ問題に向き合って、対照的な答えを提示したということでしょうか。

重里 歴史的事実は記録にのこりますが、「時代の空気」というのは、過ぎてしまうとなかなか再現できません。ましてや、人々が心の底にどんな願望や欲望を持っていたのかは、わかりにくいところがあります。平成の日本で生活していた実感を、百年後の人間に伝えるのは容易ではないでしょう。平成を生きたひとりの小説好きの人間としては、村上と小川をセットにして読めば、あの時代の日本がわかるという証言を残したいですね。

助川 村上はもちろん、小川もそれぐらいの重みのある作家だと思います。

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