平成文学総括対談|第4回 恋愛から同志愛へ|重里徹也・助川幸逸郎

性愛とは違う心の交流

 

助川幸逸郎 女性作家の作品を中心に、平成文学における「恋愛」と「共同体」の問題について今回はお話していこうと思います。

このテーマでお話するとなると、まずは小川洋子の作品からという感じになるでしょうか? 重里さんは、どうお考えですか?

重里徹也 昭和後期から、魅力的な女性作家がたくさん登場しました。たとえば、山田詠美と高樹のぶ子。どちらも恋愛小説の名手ですね。吉本隆明の用語でいえば「対幻想」にこだわっている。

「対幻想」の不思議さや奥深さ、あるいは「対幻想」がどのように社会とつながっているか、そういうテーマを山田と高樹は描いている。

小川洋子は、そういう「対幻想」の作家とは本質的に違います。

助川 なるほど。わかる気がします。『博士の愛した数式』なんて、「対幻想」の話といえないですよね。

重里 新潮社はあの小説を「ラブ・ストーリー」として売ろうとしたらしいですね。でも、主人公の「私」(家政婦)と「博士」のあいだには、「性愛」は存在しないのではないでしょうか。主人公と「博士」の関係は、恋愛というより、同志愛、同志的連帯みたいなものと見るべきではないでしょうか。

助川 小川洋子の作品には、初期からずっと「じぶんにとってすごく大切なものがうしなわれていく」・「うしなわれていくかもしれないからこそ、それがよけいに愛おしい」みたいな状況がくり返し出てきます。『完璧な病室』の死んでいく弟とか、『薬指の標本』に出てくる標本とか、そういう「小川作品におけるかけがいのないもの」は、「性愛」の対象とはあきらかに別モノです。

重里 そういう、ふつうの「性愛」とは違う関係を描いて、リアリティーと深い切なさを感じさせる。そこに小川洋子の魅力があると思います。『博士の愛した数式』でいえば、記憶がどんどんなくなる博士と、バツイチの家政婦の心と心の交流。恋愛とは次元のちがう関係性だけれども、そのありようは読者の心に深く刻まれます。

助川 「博士」と主人公がそうしたかかわりを持った日々が、「江夏のいたころの阪神タイガース」とかさねあわされていく。そこも猛烈に魅力的だと感じました。

私は一九六七年(昭和四十二年)の生まれなので、長嶋茂雄の現役時代は知らないのですが、王貞治のホームランは何度も球場で観ています。それで、王が引退したあと、何度も何度も、「王が現役に復帰してホームランを打つ夢」を見ました。この世に生まれるときに喪失した「前世の記憶」を思い出したような、そんな懐かしさを感じる夢でした。

私自身にとっては、江夏は「広島や日本ハムの守護神」で、阪神時代の江夏の記憶はありません。けれども、この小説のなかの「江夏がいた阪神」は、私の夢に出てくる「王のいる巨人」と似ていて、「うしなわれた輝かしさ」の象徴になっている。そのことは私にもありありと伝わってきて、じつに小川洋子らしいし、野球ファンにはたまらない設定だと思いました。

 

球団という神(のようなもの)

 

重里 一つはプロスポーツ球団というものを考えたいのです。野球だけじゃなくて、サッカーでも、バスケットボールでも構いません。その球団を応援するというのは、水で薄めた信仰のようなものではないでしょうか。この日々の日常とは違う世界で、その球団はペナントレースを戦っている。その球団を愛し、応援し、勝敗に一喜一憂することで、日常を超えた感情を味わい、励まされたり、地上の憂さを忘れたりできる。その球団が勝ったところで、金銭的な損得はない。ひたすら無償の愛を注ぐ。そして、同じ球団を愛する人たちを同志のように思う。これは、かなり宗教に近い感情だと思います。俗化され、薄められていますが。この長編小説はそこをついています。

「阪神」というのは何の略かご存じですか。「大阪の神」です(笑)。

もう一つ。江夏豊です。傑出した左腕投手です。相手は無敵のジャイアンツ打線でした。V9時代、その打線は組織的に充実していて、完成度が高かった。それに仁王立ちしたのが、フォークの村山実であり、剛速球の江夏豊でした。孤立無援の中、腕一本で立ち向かった。負けることも少なくなかったですが、私が目をつぶれば見えるのは、王や長嶋のバットがクルクル回る光景です。

それほどの大投手だった江夏が、トレードに出されてしまう。宮仕えしている人間なら誰でも、人事のおかしさに泣くことがあるでしょう。経営者の理不尽な判断で阪神を追い出された江夏は、その経緯から、切なさとともに神話性のようなものを帯びたのだと思います。

そうした懐かしい「江夏のいた阪神」が、その背番号である28という数字とともに思い出されていく。これもまた興味深い趣向です。数字に対する小川洋子のこだわりというのを、助川さんはどんな風に感じておられますか?

助川 『博士の愛した数式』には、完全数というのが出てきますよね。

重里 完全数というのは、それ自身を除く約数の和に等しくなる自然数のことですね。28の場合、28をのぞいた約数が1、2、4、7、14。これをぜんぶたすと28になるので、28は完全数です。

助川 完全数は、「江夏のいた阪神」みたいな「今では失われてしまった完璧な秩序」の象徴になっている気がします。完全数はだから、「完璧な病室」なんかと小川さんの中ではたぶん等価なんです。

重里 小川洋子の特徴を乱暴に要約すると、「世界の片隅の物語を聴きとって語る作家」といえるでしょう。では、どこから物語を聴きとるのか。微細なもの、黙っている者、虐げられたもの、死者、小さな存在、そういう「言葉を発しないもの」が語りかけてくるものに耳を傾けて物語を紡ぐ。小川洋子の本領はそこにあると思います。

助川 その通りです。

重里 『博士の愛した数式』では、数字が語る物語を書いているといえます。

助川 『薬指の標本』は、じぶんのいちばん大事な思い出を標本にする話です。『博士の愛した数式』の家政婦さんが『薬指の標本』の世界に現れたら、「28」という江夏の背番号を標本にするよう依頼する気がします。

重里 一つ一つの数字が、大きな意味を持つというか、尊いものの欠片なのだ、という考え方が、『博士の愛した数式』では提示されています。しばしば「小川洋子の宗教性」みたいなことがいわれますが、あの作品における数字の扱いは、たしかにそういうものを感じさせますね。「神の手帳」という表現も出てきます。

大きな物語を直接は書かないのだけれど、微細なものを描くことを通して大きいものや深いものの存在を暗示する。でも、大きく深いものをダイレクトには示さないので、読者は十分そこで語られていることに本当らしさを感じられる。それが小川洋子の世界なのだと思います。

助川 冒頭に出た「対幻想」の話にかかわるのですが、前回、『君の名は。』が主人公ふたりの「運命の恋」になっているように見えて、じつは奥寺先輩もふくめた三角関係になっているという重里さんのご発言がありました。あれはものすごく興味ぶかいご指摘で、つまり『君の名は。』は「対幻想」が中心テーマになる枠組みをもっているのに、奥寺先輩をはじめ、主役ふたりの仲間がどんどんストーリーに巻きこまれていって、「瀧と東京の仲間たち」が「三葉と糸守の関係者」をたすける話になっていく。「対幻想」の物語のようでありながら、じつは「共同幻想」にかかわる部分も相当大きい作品なのです。

それで、これも前回お話したことのつづきになりますが、バブル時代から平成前期にかけて、多くの日本人が「自分が他人にとってどれだけ重要か」というのを非常に大きくみつもっていた。そういう時期には、「共同幻想」よりも「対幻想」を前面に押し出した作品が支持されます。「私の地元の運命より、私の恋愛を大事にするのが正義!」という感覚を、多くのひとが共有したからです。

ところが平成後期になると、「対幻想」だけでなく、「共同幻想」にも目がむけられるようになった。

重里 「対幻想」だけでは生きられないと、本音の部分で思う人が増えたのではないでしょうか。

助川 バブルのころは、恋愛して核家族をつくれば、すくなくとも私生活はまわっていったんです。ところが今の若者は、核家族をつくるのも容易ではない。友だちとか地元の仲間とか、そういうものにたすけられないと私生活も維持できない。こうなると、「対幻想」のなかだけにはまっているわけにはいかないのでしょう。子どもをつくるにしても、おばあちゃん、おじいちゃんが、経済支援をしたり、子どもを預かったりしてたすけてくれないと、むずかしいのが現況です。

重里 「男女が向き合う恋愛」をメインテーマにしないところが、平成後期の読者が小川洋子にひかれる一因になったかもしれません。

 

金原の性愛、綿矢の身体性

 

助川 現在、「対幻想」だけに立脚した作品をつくると、「核家族をつくることができる恵まれたひとたちの話」という感じになって、大衆からそっぽを向かれる危険があります。

にもかかわらず、今のような状況にあって、ひるまず「対幻想」の問題を追及しているのが金原ひとみです。

重里 綿矢りさと同時に芥川賞を最年少受賞して大きな話題になったのも、平成文学の忘れられないシーンですね。

助川 金原は、トレンドなんかにかまうことなく、「性愛」の問題にこだわっていく。そのこだわりに嘘がないから、「時代からずれた作家」という感じにはぜんぜんならず、むしろ近年いっそう輝きを増しています。

先に出た山田詠美とか高樹のぶ子の場合、ヘテロの女性のノーマルな「対幻想」をテーマにすることが多いですよね。

重里 基本的にはそうでしょう。

助川 ところが金原の場合、芥川賞受賞作が『蛇にピアス』、かなり暴力的な「性愛」をあつかった小説です。それにつづく作品でも、一般的な恋愛に帰結しえないタイプのエロスに焦点をあてています。その結果、かえって「対幻想」がもつ普遍的な問題を描くことができたのではないか。金原が描く「性愛」は、ノーマルでないぶん、時代の流行とか風俗に左右される部分が小さい気がするんです。

ちなみに綿矢りさのことを、重里さんは以前、「吉本新喜劇」といっておられましたね。

重里 そういったのは、私ではなく、あるベテラン作家です。その方が「『蹴りたい背中』って、どこか関西的ですね。吉本新喜劇のタイトルみたいじゃないですか」とおっしゃったのです。

背中を蹴りたいなんて、ストレートに身体的ですね。女の子が男子の背中を蹴りたい。濃密に身体的なのだけれど、恋愛ではない。

助川 性に目ざめる前の子どもの「小児性欲」みたいなものかもしれません。

重里 その「性愛とはちがう身体性」が、吉本っぽいといえるでしょう。そういう身体性をざっくり言語化しているところなんかに、綿矢はつくづく関西人だなあ、という感覚をおぼえます。彼女は生まれが京都で、現在も関西に住んでいるはずです。

助川 主人公の女子高校生が「背中を蹴りたい」と思う相手のにな川は、主人公と同様、クラスで浮いていて仲間がいない。主人公とにな川の関係には、はぐれもの同士の共感みたいなものがあります。そして、小児性欲のような「背中を蹴りたい」衝動が主人公にはある。けれども、普通の意味での「性愛」はそこにほとんどないんです。

重里 それにしても、女の子が男性の背中を蹴りたい、という着想はおもしろいです。

助川 精神分析や神話学でいうと、「足」というアイテムは、男性の性器や性的パワーの象徴です。それなのに、あの主人公は、速く走りたいとか、にな川の背中を蹴ることだけでなく、「足」のパワーを発揮することにやたらこだわってます。

私はじつは、ちょっと手相を観ることができて、ときどき学生さんの恋愛運なんかを占ってあげることがあります。そうすると、「三十年前なら女の子しかなかったタイプの手をした男の子」とか、その逆とかがワンサカいるんです。学生さんの骨格を見ても、身体レベルで男と女のちがいが変わってきているのを感じます。綿矢さんはじつは、この変化をつかまえているのではないか。女子高校生の主人公が「足」の力をさまざなかたちでリリースしたいと望むのは、そのあらわれだと思うんです。

重里 『君の名は。』で男の子と女の子が入れかわるのも、そういう問題と関連しているのかもしれませんね。

助川 あの作品の主役ふたりに関しては、スタッフや声優さんの証言なんかを見ても、「瀧と三葉はもともと似た者同士」みたいなのが多いです。

重里 瀧も三葉も、入れかわってる状態のときのほうがモテるんですよね(笑)

助川 『君の名は。』の新海監督は、村上春樹の影響をうけているとよくいわれますが、こうしてみると、綿矢りさと共通する感性もあるのかもしれません。

金原ひとみは、じぶんこだわりに徹し、古くから問題にされてきた「性愛」というテーマを突きつめて、昔ながらの文学好きに信頼される作家になっていく。綿矢りさは、これまでの日本人になかったあたらしい身体感覚にことばをあたえ、未踏のフロンティアを拓く。どちらも、さらに魅力的な作家になっていくと感じます

そういう意味でいうと、さいきん『献灯使』がアメリカで賞をとって話題になった多和田葉子は……。非常に筆力はありますし、もともとは綿矢りさに似て、奇妙であたらしい感覚をもっていると思います。

けれども『献灯使』は、なんだかコンピューターに「震災後に日本語で書く作家が語るべき要因」をインプットしてつくった模範解答のような印象です。そこが「じぶんがほんとうに気になること」を書く、金原や綿矢とはちがう気がして……比喩とか描写もすぐれているし、作中人物のネーミングなんかも非凡なセンスを感じさせるのですが。

重里 多和田の作品では、『容疑者の夜行列車』なんかおもしろくないですか。あの、どんどん国境を越えていくところとか。

 

『OUT』と『コンビニ人間』

 

重里 アメリカの文学賞つながりでいうと、桐野夏生の『OUT』が、エドガー賞の候補になったことがありました。残念ながら受賞はしなかったのですが、そのときの選評で、この作品を評価する理由としてあがったのが「女たちの共同性」が描かれていることでした。ご存知のとおり『OUT』は、ひとりの主婦が、パート仲間である他の主婦たちと協力して夫を殺す話です。確かにある種の「女性の共同性」が描かれている。

さっき「共同幻想」と「対幻想」の話が出たときに、私はこの『OUT』のことを考えていました。夫との関係よりも女性同士の共同性を重んじるというところから、あの作品は走り出します。それでいて、あとになってまた新たな恋愛が描かれる。実にダイナミックというか、「共同幻想」と「対幻想」の片側を優位に置くだけには終わらない、複雑な力学がはたらく作品です。

助川 『OUT』では、「核家族における夫の関係」みたいな、月並みな「対幻想」がくずれて、女同士の「共同幻想」に身を投じた結果、新しい「対幻想」のかたちが見えてくる。弁証法的というか、問題がループしながら掘りさげられていくのを感じます。

重里 この「女性の共同性」はエドガー賞の選考では「アジア的」と映ったようでしたが、外国での評価はまた違った形で作品の真価を照らしてくれることがあるのかと、新鮮な印象をうけました。

助川 村田沙耶香の『コンビニ人間』の英訳も最近、出たそうです。ところが、ネットの記事で読んだのですが、アメリカではあまり売れていないようなんです。

主人公を取りまく人間たちの「コンビニやめろ!」という過干渉が、主人公にとって何を意味していて、どうしてそれを主人公が嫌がるのか、外国人には伝わりにくいとその記事には書かれていました。

重里 私は『コンビニ人間』を痛ましい小説だという思いで読みました。非正規で大資本にいいように使われている人物を描いているわけですね。この構造をどこかで自覚するような仕掛けを小説は持つべきではなかったのか。

助川 あの作品が評価される背景はわかるのですが、現実ではもっと事態がすすんでいるといいたい気持ちもあるんです。

じつは私の元教え子に、「コンビニ人間」が複数います。彼らは、商品をあるべき位置に整然とならべていくのが大好きで、学生時代からずっとコンビニではたらいています。ところが村田沙耶香の小説とちがって、そこまでコンビニ好きな人材をコンビニ経営者は見のがさない(笑)。彼らはバイトで採用されても、すぐ正社員になるように声をかけられます。

ところが正社員になると、そのうち店長をやらされる。店長になると、そこの店舗を近隣の店舗とどう差別化するかを決めなくてはならなかったり、「整然と、あるべき位置に物事をおさめる」だけでは済みません。それで、天来のコンビニ人間は、店長になるとコンビニをやめてつぎのコンビニに移り、そこで店長になるとまた辞職する。ずっとバイトのままの村田沙耶香の主人公より、現実のコンビニ人間のほうが凄絶です(笑)。

重里 凄絶な人間模様というと、川上未映子の『ヘヴン』はいじめを描いて、リアリティーがありました。ただ、その後の川上の展開はどうか。彼女はどこへ行こうとしているのだろう。

助川 ひところの平野啓一郎と似ている印象があります。

重里 『ある男』がすばらしいという話は、以前、この対談でもしました。平野にしてみれば、さまざまな試みの時期を経て、自分の方法を見つけたという感じかもしれません。

助川 さっきから「共同幻想」と「対幻想」の話をしているわけですが、『ある男』というのは、幸せな家庭を築くために、共同体における自分のポジションを、戸籍をいつわるというかたちでごまかす男の物語です。「対幻想」が「共同幻想」をしのいでふくらんでいた平成前期の状況に対する平成後期の状況、「共同幻想」と接続しなくては「対幻想」が維持できないという問題が、『ある男』ではつかまえられています。

その点から村田沙耶香の『コンビニ人間』を見ると、「対幻想」も「共同幻想」も拒否して放っておいてもらいたい、という話になっている。こういうタイプの物語は、昔からときどき書かれていて、たとえば私が若かったころは増田みず子という人が、そういう問題をあつかっていました。

重里 『シングル・セル』。

助川 増田みず子が正統派純文学っぽく書いたテーマを、パロディーの要素をまじえて今風につづると、『コンビニ人間』になるといったところでしょうか。いずれにせよ、「対幻想」と「共同幻想」に対し、「両方いらない」というのは、一種のちゃぶ台返しです。そういうワザは、一生に一度しか決まらない(笑)。

村田沙耶香にも、「対幻想」と「共同幻想」に対するじぶんなりのスタンスを、これから表明していってもらいたいと思います。地力のある書き手なのはまちがいなく、私のゼミの学生たちも、「『コンビニ人間』は書きかたがすごくて、比喩もハンパない」と口をそろえていっているほどです。

それから川上未映子は、私には「性愛」の作家という風に映ります。そちらの方面で頂きをめざしてくれると、個人的にはうれしい。『ヘヴン』にも、特殊な恋愛小説としての魅力を感じました。

重里 それにしても、「対幻想」や「共同幻想」という言葉が、こんなに便利につかえるというのはおもしろいですね。

助川 吉本隆明は、六〇年代に時代に同伴しすぎていたせいで、いまちょっと評価がひくいですが、思想家として普遍性のある問題をあつかっていたことを改めて実感しました。

重里 私、あるいは私たちの世代にとっては、吉本隆明は抜群に魅力的な文芸評論家なのですね。あらゆるイデオロギーや党派主義から、文学の自立を守った。アカデミズムに属さず、権威に対抗し、内実を見ない倫理の強制を激しく批判した。

よく吉本隆明を「ヤクザ映画の高倉健」にたとえる人がいますが、江夏豊にも、どこか重なるような気がします。

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