芥川賞作品を読む|第20回 宮本輝『螢川』(第七十八回 1977年・下半期)|重里徹也・助川幸逸郎

『流転の海』の作家

助川幸逸郎 宮本輝というと、どうしても『流転の海』シリーズ(全九部)のイメージがあります。『螢川』で描かれているエピソードも、『流転の海』の中でもう一回出てくるものがほとんどなわけです。ただ、作品としては大長編と短編というだけではなくて、随分違いがあります。

具体的に言うと、文章です。宮本輝は『流転の海』を書いている段階では、例えば女の子が出てきたらどういう顔をした女の子かって書かないで、最終的な印象だけ書かないと駄目なんだ、要するに目が大きいとか、小さいとか、書いては駄目なんだと言っています。ところが、この『螢川』ではかなり人物のルックスなんかも具体的に書いています。そして、文章も後年の宮本輝が長編を書く時というのは、物語の乗り物として最適化された文章っていう感じがするわけですけれども、『螢川』ではやっぱり文章そのものがものすごく凝っている。文章の絶妙の表現から立ち上るポエジーみたいなものをかなり重視しているところがあると思います。その辺のところで同じ宮本輝の作品といっても、若い時から段々その時その時で書いているものとか、あるいは創作に対する姿勢みたいなものが違ってきたんだなっていうのを同じ題材を書いているだけにすごく感じるところがありました。

重里徹也 『螢川』において、言葉そのもの、文体そのもの、文章そのものから詩情が発散されているのは私も感じます。物語性だけではなく、文章力も非常に優れた作家なのだと考えます。自分の文体を持っている作家ともいえる。それは、デビュー作の『泥の河』でも、この『螢川』でも感じました。そして、その詩魂とも呼ぶべき文体の核にあるものは、やはり、九冊に及ぶ『流転の海』シリーズでも、そうなのではないかと思います。「物語の乗り物としての文章」という表現には違和感があります。不適切な感じがします。そうではなくて、『流転の海』においては、詩魂がうまくコーティングされているのではないかと感じます。

助川 「物語の乗り物としての文章」という言いまわしで、文章そのものには魅力がない、ということを言いたいわけではないのです。『螢川』の文章は、読む方のペース配分をあまり考えず、全力投球している文章です。一方、『流転の海』は、読者が長い作品を一定のペースで読めるように配慮されています。『螢川』が一イニングだけ投げればいいクローザーの投球のような文章で書かれているとすれば、『流転の海』の文章は先発完投型投手の投球のような文章ではないでしょうか。

先発完投型の投手だって、いざとなればクローザーに負けない速球を投げます。ただし、全部のボールをクローザー並みに全力投球していたら、勝ち投手の権利が生じる五回までだって持ちません。それから、先発完投型投手は、一試合の中でおなじ打者と三回、四回と対戦しますから、配球パターンも試合の途中で変えなければならない。『螢川』が、後先考えずとにかくベストの表現を探る筆致で書かれているのに対し、流転の海は緩急自在でメリハリをつけた文体が採用されている印象を受けます。

重里 『泥の河』や『螢川』の文章が非常に優れたものだと私も思います。そして『流転の海』シリーズの文章にも、やはりそれに連なるものがある、同じ血が流れていると私は考えています。一見、非常に読みやすいのだけれど、言葉の一つ一つは詩情を漂わせている。それがキャラクターを描くときに強い力を発揮する。輪郭を濃く彩る。そんな風に私は思っています。

あまりにも生々しい螢

助川 宮本輝はイメージがすごくきれいですよね。螢のイメージも見事です。有名なシーンですが。空間で何かを起こす時にイメージを作ることに秀でた作家です。最後の一行なんかすごいじゃないですか。

重里 この螢が乱舞し、螢の光が散乱するシーンは見事ですね。何が見事かというと、きわめて生々しいわけです。むせかえるようなニオイがするほど、生々しい光なわけですね。そこのところは圧巻でした。選考委員が称賛していますけれど、なるほどと納得しますね。

助川 螢のイメージが想像していたものと全然違っていたんだというところが出てきますけれども、その生々しさがすごいですよね。

重里 螢といってイメージするものと、現実の螢は違っていたというのは抜群に面白いところですね。それは、何を意味しているのか。ここは、宮本輝の急所ですよね。ここです。宮本作品の神髄です。

助川 たぶん、宮本は言葉というもの、イメージというものをこれだけ上手に使いこなしていながら、根本で言葉のイメージを疑っているんだと思いますね。

重里 あるいは言葉のイメージを裏切りたいという欲望を強く持っているのだと思うのですよ、宮本輝は。それがときどき突き破るように物語に露出するのだと思います。そこが宮本輝の真骨頂なのじゃないのかなと思うのですよね。宮本輝って、きれいな景色を整った文章で書く作家みたいなイメージがあるかもしれないですけども、全然そうじゃない。そんな先入観は間違っている。むしろ逆で、きれいなイメージや美しい情景を食い破るような描写に、宮本文学の芯があるのだと思います。

助川 だから井上靖を宮本輝が好きだったってすごくよくわかる。井上靖も新聞記事っぽい文章を書く作家だって一部で言われています。分かりやすいけれど俗っぽいって。でも、井上靖自身がそういうわかりやすいものの限界みたいなものを見ちゃって、わかりやすいものを突き抜けるものみたいなものをすごくよく知っていると思うのです。だからある意味ではもうわかりやすくできるところはわかりやすくしちゃえって、すごく割り切ってしまうところもある。

全部言葉できっちり説明できないと思う人間ほど、言葉できちんと説明しようとします。説明できないことがわかっているからこそ、説明できるものはわかりやすく説明してしまおうと。言葉が通じない世界があるんだ、ということを肌で知っていて、だから言葉を信じていないというのは、これは同じカードの裏表だと思うんです。井上靖はそういう作家だし、宮本輝もちょっと形は違うかもしれないけれども、言葉で説明できないことを知っている、あるいは一般的にイメージされるものを信じていない作家です。だからこそ美しい物語だとか、きれいなイメージとかも、わかりやすく作ろうと思えば作れてしまう。でも、それを一番宮本輝が信じていない、みたいな、そういうところがあるんじゃないか。

重里 井上靖の文章を俗っぽいとは私は全然思わないですけれどね。「俗っぽい」という言葉から定義しないといけませんね。あるものをさして、「俗っぽい」というほど、俗っぽいことはないですね。井上靖の文章はきわめて詩的なものだと思います。

助川 でも、井上靖の文章はクリシェ(常套句的)だという批判はありますね。それが本当に俗っぽいかどうかっていうのは別として、あれだけ平明だと、そういうことを口にする人たちが出てくるのはある意味、わかるわけです。私も個人的には、井上靖の文章が俗っぽいとは思いません。けれど、俗っぽいって評する人が、一定の比率でいることは事実です。そこまで平明に書けてしまう井上靖っていうのが、それは単に平明に書ける能力があったというだけではない、ということを問題にしたいわけです。

重里 平明に書かないことが嫌だったのでしょう、それは。性に合わなかったのでしょう。平明に書かないことが空しかったのだと思います。「美しい」文章を書くことが、井上靖の美意識に合わなかったのでしょう。「美しい文章を書くこと」は恥ずかしいことだと思ったのでしょう。

助川 その井上靖の美意識ってなんだったのか、ということを私は考えたいんですね。かっこつきの「美しい」文章を書く人っていうのは、何かを信じているからそう書くわけですよね。言葉を信じ、イメージを信じているから、美しいイメージを言葉で語ろうとするわけです。難解で、高尚そうなイメージを作るっていうことは、その高尚そうなものに対する信仰があるわけですよ。伝わらなくったって、誰も分かんなくたって、これは素晴らしいんだって。そう思ってるところがあるから、高尚そうな分かるやつだけが分かる「美しい」イメージって作れるんですよ。でもそういうものを信じられない人間は、高級そうなものをボンと提示して、誰にもつたわらなくても恥じないっていうことに、耐えられないんですよ。

重里 それはよくわかります。そういうことです。

井上靖、叙情を食い破るリアル

助川 この作品の最後の螢の描写は美しいものと言われているけれども、本当は不気味なものです。

重里 リアルで生々しくて、エネルギーに満ちていて、むせかえるようなものです。おそらく若い時の宮本輝は、井上靖のそういうところ、美しいものは実は不気味なものなのだ、というところに反応したのだと思います。ただ、私が『流転の海』を読んでいて驚いたのは、題材が井上靖に寄っていくわけですね。最初の四国の闘牛もそうだし、それから猟銃というものがとても重要な意味を持ってくるのもそうだし。主人公が金沢に行くと、金沢大学の柔道部員が出てくるし。琵琶湖が出てくる場面があって、ひょっとしたら、主人公たちは仏像めぐりでもするのか、とドキドキしました。井上靖に『星と祭』という長編小説があるのですね。『流転の海』を読んでいて、井上の小説を追体験しているような感じさえしました。重なるところが多いのが面白くて印象的だったのです。これは何なのだろうとも思いました。

助川 逆に宮本輝にしてみると、井上靖の小説が自分の体験を意味づけてくれるような気分で読んでいたかもしれないですよね。

重里 そういうことですね。『流転の海』は小説ですから、どこまで事実に即していて、どこからが虚構なのか、わからないですけれども、かなりの部分に共通した題材があるとしたら、面白い偶然ですね。

助川 作家と作家が出会う時ってそういうところがありますよね。批評家や作家にとって、生涯で一番大事な作家というのは、自分の人生の予告編が全部書かれていたとか、あるいは自分の人生の過去が全部この人は見通しているとか、みたいなことってありうると思うんです。それぐらいのレベルで精神の構造だとか価値観だとかがシンクロするとそういう風に思えるような瞬間っていうのがあるんじゃないかなって気がしますね。

重里 宮本の方から井上に近づいていったということもあるでしょうね。例えば、『流転の海』で息子(伸仁)が大学に入ってから旅行しますね。非常にハードな旅行をする。どこへ行くのかなと思ったら、伊豆へ行くわけですよ。これは、明らかに井上靖の小説に惹かれて伊豆を選んだように思える。そんなこと書いていないですよ。ただ『流転の海』に井上靖の『しろばんば』という作品名は出てきますね。井上の自伝的な長編小説ですね。宮本が井上に近づいていったという面もあれば、元々宿命のように重なる部分もあったのでしょう。私はそう思いますね。

助川 『螢川』のラストは、井上でも書いていないほどのすごい場面だと思います。人間にとって見てはいけない禁断の何かに触れた瞬間なのだと思うんですね。

重里 いたち川という名前がとても印象的ですね。富山の街から北アルプスが見えるのですよね。北アルプスと一緒に暮らす街なわけです。その北アルプスから流れてくる川の一番果てに、ああいう小さな川があるわけですよね。そこが面白いところだなと思いました。ただ、『螢川』で気になるのは、主人公を地元の少年にしたことですね。現実には大阪から転校していった子ですよね、宮本自身は。ところが地元の人間にしている。母親も地の人間にしている。これはどうしてでしょうか。

助川 主題を集約させたかったんでしょう。富山に生まれ育った人間が富山から引きはがされる瞬間に、一生に一度しか見られない、禁断の美しいものを見たという話にしたかったんじゃないですか。

重里 ストーリーをシンプルにして、テーマを絞りたかった。

助川 まさに故郷から根こぎにされて、故郷を失ってしまう人間にだけ、あの螢が見えるんです。女の子に螢がよりついて、中で光り輝く。あれは源氏物語の玉鬘の巻ですよね。根こぎにされる瞬間に、その根っこの部分から螢がわいてきたというイメージですね。

重里 日本文学における螢というと、和泉式部の歌がありますね。

助川 もの思へば沢の螢もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る。人間の魂ですよね、和泉式部の螢は。

螢を描いた二人の作家

重里 宮本輝と同世代の村上春樹も螢を書いています。『ノルウェイの森』で重要な場面ですね。最初に『螢』という短編で書いて、その後、この長編にも使っている。村上春樹はとても叙情的に螢を描いています。宮本輝は叙情性を装って、それを突き破っている。面白い対照ですね。

助川 宮本輝的な螢にこそ、文学の真実がある。それを叙情にしてしまっている春樹は、ちょっと踏み込み甘いんじゃないかって、かつては思っていました。

重里 いい意味でも甘いんです。東京の都心で、近くのホテルから流れてくる一匹だけの螢を屋上で見て、叙情的に描き出している。

助川 宮本輝も村上春樹も同じ螢を見ているはずです。両方の主人公とも、自分が一番大事なものから切り離されている消失と引き換えに、自分の根っこに眠っていたものを見ているんです。でもそのおぞましさと、おぞましさと裏表の魅力みたいなものに呆然とする宮本輝と、それをエモーショナルに書いてしまう村上春樹という対照ですね。同じ螢を見ても、宮本輝の方が真実を見ているような気がします。

重里 私も、螢に関しては宮本の視線の方が遠くまで届いているように思います。文学的に深い感じがしますね。『流転の海』全九部を読んで、つくづく思ったのは、中上健次ともある共通性があるのかなと思ったのです。つまり思いっきりざっくばらんに言うと、背景に物語を持っている作家なのだということなんです、宮本輝は。それを強く感じましたね。つまりその物語は何かって言うと、父親の物語ですけれどね。

助川 村上春樹は父親の物語をきちんと『ねじまき鳥クロニクル』で抱えたわけですよ。それまではお父さんを嫌っていて、父親とは違うところに物語を作ろうとしていた。『ねじまき鳥』で日本の近代史の暗部とまともに向き合って、お父さんの抱えている物語ににじり寄っていったんです。それで私は作家としての格が上がったと思っています。

重里 初期の村上春樹は一つの物語を書いているわけです。それは何かというと、「直子」の自殺です。「直子」の自殺を延々と繰り返し書いているわけです。

助川 村上春樹って、お父さんの過去の中国大陸での体験を書かなかったら、いわゆるいい家庭のお坊ちゃま君なわけですよ。社会でサラリーマンとして働いた経験があるわけでもない。個人史としては、自分の恋愛話以上に大事なことってない人なんです。そこだけを「書くフィールド」にしてしまうと、螢も詩人的な感性で叙情的に書くしかない。中上健次や宮本輝みたいに広がりのある世界は書けないんです。

お父さんの中国大陸での体験みたいなものを背負い込むことによって、春樹は恵まれた家の息子として生きて自分の恋愛話が一番大事な側面と、でもその自分の生活を作ってくれた、あるいはそういう生活を自分に強いた父親が抱えているダークサイドみたいなものの両面を書けるようになったのでしょう。

重里 ただね、村上春樹もね、初期から自分は中国を書かなきゃいけないという気持ちはあったのですよね。

助川 『中国行きのスロウ・ボート』。

重里 意識的か無意識的かわからないですが、初めての短編で『中国行きのスロウ・ボート』を書いた。中国人が三人出てきます。日本人と中国人の関係がひっかかっていたのだと思う。けれども、どう書いたらいいかわからない。だけど、短編で書いてみた。それからもう一人の中国人は、ジェイです。初期の作品のいくつかに出てくる中国人です。こういうところに、無意識のレベルかもしれないのだけれど、村上春樹は中国との接点を求めていたのだと思います。

物語の鉱脈に到達する速度

助川 村上春樹は自分で言っている通りです。村上龍のような天才はあっという間に物語を奥深くめぐって、すぐに物語の鉱脈に出会える。自分みたいな人間はしこしこ努力して掘っていってやっと物語の鉱脈にとどく。そんなことを言っています。村上春樹というのは時間をかけて問題を自覚して、大きな花をやっと咲かせた作家ですね。大器晩成型のタイプだったのではないでしょうか。

宮本輝や村上龍は、若い時から自分の大事な問題と出会っている。中上健次もそうです。でも春樹は表面的にはすごく安穏とした芦屋のお坊ちゃま君ですから。自分の中に父親の問題を抱え込むことによって、やっと一人前になった。それで、優れた作家になったというタイプだと思います。

重里 宮本輝は『流転の海』を三十七年がかりで完成させたのだけれど、全巻読了すると、宮本がいかに自身の背景に大きな深い物語を持っていたのかをまざまざと実感しました。これは形容するのが難しいぐらい偉大な作品です。比肩するものとして挙げられるのは、北杜夫の『楡家の人びと』、もう一つは井上靖の自伝三部作ですね。戦後の日本でこの三つは突出しているように思います。なかでも、『流転の海』の達成はすごく大きい感じがしますね。

助川 私は文学史の中で、島崎藤村の『夜明け前』と比較されるぐらいの作品として、残すべきだと思っています。『夜明け前』は明治維新に乗れなかったお父さんの話を書いているわけです。『流転の海』も結局、能力もあり理想もありながら、戦後の日本に乗れなかったお父さんの話です。

重里 明治維新と敗戦。この数百年を振り返って、日本人にとっての二つの大きな体験ですね。

助川 藤村は明治維新のダークサイドを書いた。明治維新を否定するだけではなくて、肯定否定の両面からダークサイドを書いた。『流転の海』も敗戦の明暗を戦後に乗れなかった人間の視点で書いている。その意味ではこの二つの作品は並べて論じていいのかなって感じがします。

重里 ここまで論じて、村上春樹と対を成す作家は、村上龍ではなくて、宮本輝なのじゃないかと思えてきます。

助川 本当にそうだと思います。

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