これからの英語教育の話を続けよう|第14回 言語観あるいは言語感について|仲潔

 

ボクは、勤務している大学で英語教員の養成に携わっています。また、在住する地域の外国人市民の言語問題についても、市と協力して取り組んでいます。その一環で、毎年90分2コマという限られた時間なんですけど、市民向け講座で「やさしい日本語」の講習を行っています(やさしい日本語ワークブック(岐阜市国際交流協会))。「やさしい日本語」とは、地震などの災害時に、日本語をじゅうぶんに理解できない外国人に対して情報をわかりやすく、伝わりやすくするための手段として考えられたものです。1995年1月に起きた阪神・淡路大震災を地元民として経験したボクは、情報の伝達手段としての「やさしい日本語」は、いろいろ問題はあるにせよ、大事やなぁと思っています。

ボクが住んでいる市には、およそ9,000人の外国人市民がいます。緊急事態はもちろん、日常の多くの場面で、外国人市民は「ことばの壁」に直面しながら生活を送ってはります。もちろん、行政が中心になって、それぞれの言語による情報が提供されたらええんですが、予算の都合もあって、なかなかそうもいかへんようです。行政サービス以外の場面でも、ちょっとでも情報がわかれば、安心感が増すもんです。「やさしい日本語」講座には、日本語を母語とする市民が、やさしい日本語を用いて共生している外国人市民を手助けしようとする善意から受講してくれてはります。

2回にわたる講習の最後に、ボクは次のような質問を受けました。それは、「日本語を簡易化することにより、日本人の心が伝わらないので、それを守るべきではないのか」という趣旨のものでした。具体的には、「お茶が入りました」とすべきところを「お茶をいれました」とか「お茶を用意しました」とすれば、「意味」は伝わるかもしれないけど、「日本人」であれば「恩着せがましく聞こえるので、やめたほうがいい」というものでした。

講習は90分を2コマだけなんで、やさしい日本語を体系的かつ網羅的に扱うことは現実的ではありません。せやから、主に外国人市民とのコミュニケーションにおける心構えを中心とした講義をした後に、やさしい日本語を実際に使ってもらう、っていう感じでやってます。想定してんのは、緊急事態や行政サービスの手続きなどで外国人市民が困っている場面です。相手にとって「わかりやすい」「伝わりやすい」言葉遣い(「易しい」+「優しい」日本語)を心がけましょう、と説いたつもりやったんですけど、うまく伝わらんかったようです。ボクの使う日本語は、伝わりにくかったんやなぁと反省するとともに、ことばの使用に関する深刻な思いを再認識しました。つまり、他者の言語使用に対する価値づけです。

別の日には、外国人市民の各コミュニティの代表者が集まる会議に出席しました。そこでは、彼らの日常生活での悩み事についてインタビューする機会を得ました。母国の文化や自身の宗教による価値観の違いなど、たくさんの悩みを聞くことができました。そのうちの1つを紹介しておきます。

ある外国人市民は、就学直前に日本に移住してきたとのことでした。小学校の入学式の前に「普通の服装で来てください」という連絡が学校側からあったそうです。おそらく、入学式の子どもの服装に、過度にお金をかけることを避けさせるためやったと思います。でも、この「普通の」という言葉が、その外国人市民にとっては厄介やったようです。その方は、普段着であるオーバーオールで登校したら、周囲から白い目で見られ深く傷ついたそうです。「普通の」という言葉の含意が、決定的に違っていたために起きた出来事でしょう。さっき述べた「やさしい日本語」の受講者の問題と同じく、ことばの使用において留意すべき問題の1つやと思います。

英語教育では、「グローバル化に対応して、英語をコミュニケーションの道具として捉えましょう」といった文言が、当たり前かのように語られることがあります。もちろん、ボクたち人間が、自分の思いを伝えたり、相手の意向を理解したりする上で、言語の働きは大きいと思います。その意味で、「言語はコミュニケーションの道具」とする見方(=言語観)は、言語の特徴の一面ではあります。せやけど、「コミュニケーション」を視野に入れた場合の教育場面において扱うべき「ことばの働き」はそれだけでええんやろか。上の2つの事例は、このことを考えるきっかけになると思います。

 

ことばは変化が当たり前、ことばの価値づけも変化が当たり前

先の「やさしい日本語」講座でボクが受けた質問(意見?)は次のようなものでした。つまり、「お茶を入れました」という発話は、恩着せがましく失礼な響きがするからやめといた方がええ、というものです。

言語学の授業で受ける質問やったら、とりあえず、一般的な言語学的な説明に触れるとは思います(例えば、Yahoo知恵袋に同じ質問とその回答が掲載されています)。でもボクやったら、それでは終わらんと思います。「日本人の心って?」とか「ここでいう日本人って?」、「なんでそんなふうに感じるん?」などなど。言語が形成される社会文化的背景について考えさせる契機にするやろなぁと思います。でも、今回は、言語による情報に困っている人を救うための「やさしい日本語」という文脈です。ワケが違います。その質問された方と外国人市民、あるいはボクとの対話において、言葉遣いに対する感覚、感じ方に大きな差があることを、ここでは問題視したいと思います(以下、相手の言葉遣いに対する感覚や感じ方については、「言語感」と表記します)。

質問された方としばらくお話をしていますと、どうも「正しい日本語」があって、それに忠実であることが、よりよいコミュニケーションにつながると信じて疑ってへんようでした。次の2つの引用とそのアイデアは、鈴木義里さんの『つくられた日本語、言語という虚構: 「国語」教育のしてきたこと』(2003年、右文書院)からのものです。少し長いですが、お読みください。

 

  1. 現代の私たちが、毎日の社会生活の上で、言葉をどういうふうに話し、どういうふうに書いて生活しているのか、その事実を観察してみると、そこには、かなりひどい混乱がある。現代の日本人の言語生活は、ひどく混乱している。こういう声がしばしば聞かれる。そして、その観察が必ずしも誤りでないことは、だれしも認めないわけにはいかない。
  2. 何事も、古き世のみぞ慕はしき、今様はむげに卑しくこそ、なりゆくめれ、(中略) 文のことばなどぞ、昔の反古どもはいみじき、ただ言うことばも、くちをしうこそなりもてゆくなれ、いにしへは、車もたげよ、火かかげよ、とこそ言ひしを、今様の人は、もてあげよ、かきあげよ、と言ふ…(中略) くちをしとぞ、古き人はおほせられし

それぞれの出典は、次の通りです。

  1.  1951年刊行の、鈴木久晴(「現代の言語生活: その混乱と問題」『国語教育講座』第1巻. 「言語生活」下. 刀江書院)
  2.  吉田兼好による『徒然草』(第二十二段)

 

いずれも、「ことばの乱れ」を嘆く内容です。2. はともかく、1. は「1951年」ではなく「2001年」とか「2011年」と言っても、あんまり疑わへん読者がいるかもしれません。ボクたちの多くは、歳をとって若い世代の言葉遣いが分からんようになったら、自分のことは棚に上げて、若い世代の言葉遣いを「間違っている・乱れている」、と判断する傾向があるようです。でも、1. と2. の時代での言葉遣いも大きく変化しています。言葉の正しさは、常に変化しているのが、つまり「乱れている」っていうのが、むしろ普通の状態というわけです(以上、鈴木義里さんをもとに)。

ボクのゼミ生が以前、アメリカに留学しとった時の話です。ライティングの授業で、“differ / different”につづく語として“from”を入れたところ、どの授業の先生にも“than”に修正されたそうです。2つ以上のモノを比べたからこそ「違っている」とは言える訳ですから、「何かと何かの比較のときによく使う“than”」がことばの「正しさ」の変化をもたらしたんでしょう。他にも、仮定法過去の用法だって、“If I were”に代わって“If I was”が出てきても不思議じゃないと思います。どんな表現を「正しい」と判断するのかは、変わっていくもんなんです。

「正しさ」以外の「言語に対する感じ方」も変化し得ます。時代はもちろん、誰が、どこで、誰に対して発せられたのかによっても異なってきます。例えば、アメリカの前大統領・オバマ氏の英語が、「黒人であっても、白人であるかのように明瞭に話す」と評されたとしましょう。その場合、多くのアフリカン・アメリカンには、白人からの上から目線の褒め言葉として差別的に受け止められるのに対し、アジアをはじめとしたアメリカ合衆国への移民にとってはそうでもない、という指摘があります。H. Samy Alim, Geneva SmithermanによるArticulate While Black: Barack Obama, Language, and Race in the U.S.,(Oxford University Press, 2012)です。同書では、オバマ大統領の言語使用を分析し、「白人的な」文法と「黒人的な」文体を用いることにより、双方の支持を得たと指摘されています。執筆者へのインタビュー記事では、著者たちが黒人英語のスタイルで書いてることの意味について語ってはります。同書を執筆した研究者たちは、その後、私たちの人種に対するイメージ形成と言語使用についての研究を進めているようですんで、興味のある方はぜひ(H. Samy Alim, John R. Rickford & Arnetha F. Ball(eds.)Racio Linguistics. Oxford University Press, 2016)。

このように、言葉遣いが日本語であれ英語であれ変化するんが「普通」なんですから、その用法に対する人々の感じ方(言語感)が変化しない理由はどこにもありません。実際、ボク自身は「お茶を入れました」と言われても、「ありがとう」とは思っても、「失礼だ」とか「恩着せがましい」とは思いません。先日、ゼミ生が研究室でコーヒーを淹れてくれたのですが、「コーヒー作りましたよ」と言われても、やっぱり「ありがとう」でした。「コーヒーって「作る」時代かぁ」とは思いましたけど。それも含め、変化し続けるんでしょう。1月に広島大学でシンポジウムに登壇したんですが、その時の聴衆に同じ質問をしても、ほとんどの方が「失礼であるとは感じない」と答えていました。「日本人の心」っていうても、いったい誰を指して「日本人」なのか、なかなかあやしいもんです。

言葉遣いも、その受け取り方も変化するんやったら、コミュニケーションにおいて問題になるんは、その変化を受け入れへんこと、およびその変化を認めんと、自分が信じる「正しさ」を相手に押し付けてまうこと、自分の尺度で相手の発話を判断してまうこと、などがあげられます。

言葉が変化しない、または現時点での言葉遣いに対する感じ方・受け止め方、という点からも考えときましょか。「お茶を入れました」を「恩着せがましく感じる」んは、まずはボクにその質問をした方自身です。その方の対話の相手が同じように感じる保証はどこにもありません。もちろん、そのように感じる日本語使用者が多いかもしれませんが(例えば、金田一春彦『日本語新版(下)』齋藤孝『日本語の技法』など)。でも、だからといって、日常生活で日本語に困っている人にまで、そのことを求めるんは、少し酷なんやないかなぁと思ってまいます。たとえ、ある表現が、その言語の母語話者にとって違和感を覚えるものやったとしても、異言語使用者どうしの共通語として使うんやったら、細かい部分に目を向けるんやなくて、コミュニケーションのプロセスで、お互いに意味を作り上げていくという姿勢が求められるでしょう。もちろん、コミュニケーション能力の全般を英語教育だけでまかなえるとは思えませんが、コミュニケーションの弊害になりそうなことは避けた方がええんちゃうの、とも思います。「正しさ」も「感じ方」も固定的・静的に捉えられるもんと違うんやったら、1つの論理的帰結やと思います。

日本の英語教育にも、こんな感じで、細かいところにこだわることによるコミュニケーションの壁というものが形成されてきた部分があるやないでしょうか。昨今話題の外部テストにおいては、文法や語法の「正しさ」が求められることになっちゃいそうです。もちろん、その言語の達人を目指したり、「母語話者並み」の言語力を獲得したいんやったら、その尺度にのっかるのもひとつの手段でしょう。でも、多くの日本人はそんな英語力を求めているんでしょうか。あるいは、そもそも必要なんでしょうか。

次に、外国人市民が中心の会議に出席した話をしますが、「日本人の心」とかいう類の言語感・観を持ったまんまやと、そういう場においても外国人市民の用いる日本語に抑圧的に接しかねません。コミュニケーションの手段として日本語を選んだ時点で、すでに言語については抑圧者。せめて、他者の用いる日本語に対する寛容性は持ち合わせたいところです。

 

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