芥川賞作品を読む|第2回 石原慎太郎『太陽の季節』(第三十四回 1955年・下半期)|重里徹也・助川幸逸郎

動物の生態を描いた小説

助川幸逸郎 石原慎太郎の『太陽の季節』は、芥川賞をメジャーにするのに貢献したとさえいえる作品です。それぐらい、当時、話題になりました。

 しかし、今回読みなおして感じたのですが、この作品、いまなら倫理的に問題あり、ということで、雑誌に掲載してもらえないかもしれません。

重里徹也 そんなに問題の多い小説でしょうか。許容範囲ではないでしょうか。

助川 いや、女性に対する暴力、蔑視がひどいので、かなり危ういでしょう。すくなくとも、ネットなどで炎上するのは避けられません……ただ、おもしろいのは、井上靖が積極的にこの作品を推しているのですね。

重里 井上の作風やその後の歩みを考えると、少し意外な印象もありますか。

助川 井上は誤解して、『太陽の季節』をほめたのだと私は思うんです。

 井上の根底には、国土の自然の他はすべて戦争で滅びたというニヒリズムがあります。

重里 井上の芥川賞受賞作『闘牛』は、敗戦後のニヒリズムが濃くうかがわれる作品ですね。そこでは自然と歴史だけが肯定的に描かれています。

助川 それで、井上はなぜそのあとで『蒼き狼』とか、『天平の甍』とか、過去の中国大陸を舞台にした小説を書いたのか。戦後の日本の風景に、彼のニヒリズムを受けとめきれる対象を見つけられなかったのだと思います。

重里 それはどうかなあ。井上は、『闘牛』の後、数多くの現代小説を書き、さまざまな試みをしています。単にニヒリズムに留まっていては、ステップアップした作品は生み出せない。井上はそのことに気づいていたと思います。そこで、戦後の日本にはなかなか見いだすことのできない「意味」や「価値」を、「ここではないどこか」の物語に求めた。それが、古代の中国だったり、遣唐使たちの苦闘だったり、千利休の世界だったりしたのではないでしょうか。

助川 井上が見ていたのは、ニヒリズムと「意味」の対比というより、ポジティヴなニヒリズムとネガティヴなニヒリズムの違いなのではないでしょうか。『闘牛』の世界は、「価値観がすべて崩壊してしまったから、本当の意味でやるべきことは何もない」というニヒリズム。これに対してチンギス・ハーンは、価値も倫理も取りはらわれた、むき出しの生を燃焼させている感じです。

重里 井上の小説群を見渡すと、やはり価値を追い求めたのではないかと思います。それが留学僧たちの姿になったり、孔子や利休の生き方になったりしてのではないでしょうか。そこにあるのは、美や倫理を物語の中で問い詰める姿勢です。まあ、井上の話は、『闘牛』を語る章でじっくりやりましょう。

助川 井上と比べるまでもなく、石原にはニヒリズムはありません。現実世界で、自分が絶対的な体験をすることだけに価値があると考えています。

重里 非常に動物的なのですね。主人公は、恋愛も友情も否定しています。女性を組みしいて快楽に到達するとか、ボクシングで相手を打ちのめした瞬間とか、主人公はそういうものばかりを求めている。

 でも、高度経済成長期の日本人って、精神的価値をカッコに入れて、物質的・感覚的な快楽ばかりを追っていた面があると思うのです。高度経済成長が始まるのは一九五四(昭和二十九)年ごろからと考えられるでしょうか。この作品は一九五五年に発表されています。時代の動向をいち早くつかみ取った小説、といえるのではないでしょうか?

助川 東浩紀に『動物化するポストモダン』という有名な著作がありますが。

重里 『太陽の季節』は、まさに「動物化する高度経済成長」の始まりを描いています。

求めるのは「許容する母性」

助川 この主人公には、倫理も思想もありません。ひたすら感覚的充足だけに突進していく。その「倫理も思想もない」というところを、井上靖は、自分と同質のニヒリズムを抱えているからだと誤解したのではないでしょうか。

重里 『太陽の季節』の主人公たちは、したいことをしているだけなのです。この小説の世界に「なぜ」はありません。そんな群像に時代の風俗を読み、そこに体現されている無意味に井上が反応したのでしょう。

助川 ところで主人公は、その「したいことをしている」状態をどこまでも包んで許容してくれる母性だけは求めるんです。自分の刹那的充足以外で必要としているのはそれだけです。

重里 母親だけが大切で、親父はいらない。腹を殴っておしまいです。

助川 父性というのは、意味だとか倫理だとか歴史とつながっています。そういう「自分の身体性を超えたもの」は、主人公にとって全部邪魔なんですね。

重里 なるほど。主人公は、自分の母親だけでなく、母性全般に甘えているように感じます。英子にも、結局、母性を求めて甘えているのではないでしょうか。彼女が最後に妊娠して死んでしまうのは皮肉ですね。ひどい言い方をすれば、息子(主人公)が自分の弟(生まれてくる子供)を使って母親(英子)を殺してしまったとも読める。

助川 だから英子が亡くなったとき、「死ぬことで英子は俺にいちばん残酷な復讐をした。気に入っていた玩具を取りあげられてしまったからだ」とか思うわけです。自分が中絶の時期をさんざん遅らせたせいで英子は死んだのに、こういう言い方をする。これは完全に、ママに我がままをいう駄々っ子の論理です。

もって回った疑問文

重里 文章はどうですか? ところどころで、もってまわった言いまわしをしますよね。「彼に何が咎めだて出来たろう」とか、「彼女を非難出来ただろうか」とか、疑問形の文が目立ちます。石原って他の作品でもこういう書き方をしますよね。これはどういう精神の表れなのでしょうか? なぜ断定しないのでしょう?

助川 それは、ものすごく興味深いご指摘です。結局、断定というのは父性なんです。自分でリスクを背負って決断しなければ、断定はできない。やりたい放題やりたいのだけれど、責任を負いたくない場合は、もってまわったり、疑問形になったりします。

重里 なるほど。「やりたい放題を許してもらいたい」という願望の表れですか。

助川 文句をつけられる覚悟をしたうえで、絶対、休んでやるぞと思ったら、「今日は私、休講にします」って言いますよね。でも、休みたいけど非難されたくないときは、「休講にしようかなあ……」といって、「どうぞ休講にしてください」と、周りが言ってくれるのを待ちます(笑)

重里 石原だったら「誰が休講にした私を責めることができようか」とか、「休講にしたからといって、非難する者がいるだろうか」とか、言いそうです(笑)。この特徴は、昨年(二〇一九年)に刊行された小説『湘南夫人』でも変わっていません。

助川 二十代の頃から八十を越えた現在まで、ずっと「誰が休講にした私を責めることができようか」の人なんですね。

重里 「そんなことはありはしない」みたいな言い方が、石原は現代に至るまで、本当に好きですね。

それから、主人公の欲望の赴くままの世界から少し逸脱すると思えるのが、自然と対峙しているシーンです。スキューバ・ダイビングをする場面が、石原の小説にはしばしば登場します。『太陽の季節』だと、海で泳ぐところがありますね。主人公が大自然と向きあう姿が印象的に描かれるのは、これもデビュー当時から現在まで一貫しています。

助川 自分を超えた大きな力につながると、もっと大きな快楽が発生する。そのことを石原の主人公たちはわかっているのではないでしょうか。

重里 ただ、自分を超えた巨大なものと徹底して向き合うこともしていない気がします。自分を超えた力を描くとなると、神とか絶対者とか、そういう問題にも触れざるを得なくなってくる。しかし、神も政治も、石原はあまり語りません。

排除される崇高なもの

助川 石原にとって窮極的に大切なのは「快感」なんだと思うんです。だから、母性に包まれてやりたい放題をやることが理想になる。自分を超えた力と本気で向きあったら、快だけでなく不快も引き受けなければなりません。

 美と崇高を対比させて定義づけをしたのが、カントです。カントによれば、美は人間に快感をもたらす。いっぽう崇高は、快感と恐怖の入りまじった感情です。

 石原は、カントの言い方を借りると、崇高を避けて、常に美を書こうとする作家です。だから、天皇にも国家にも、ずっと触れないままでいる。でも、崇高をこれだけ徹底して避けているところを見ると、崇高の意味はきちんとわかっているのではと逆に思えてきます。

重里 石原はなぜ政治を書かないか、見えてきました。おそらく日本の小説家の中で、政治権力の中枢を最も知っている一人が石原です。絶対、おもしろいものができるはずなのに、それは題材にしない。ヨットで嵐に遭ったとか、レーサーが極限のスピードを体験したとか、書くのはいつもそういう話ばっかりでしょう?

助川 崇高を書かないというのは、フィクションを作りあげる上で大きな足かせになります。たとえば、崇高を禁じ手にすると、「自分より凄いかもしれないヤツ」を出して来れないんですよ。そうすると、バトル漫画とか、剣豪小説とかで成功するのは難しくなるわけです。

重里 政治というのは権力闘争の場ですから、「自分より凄いかもしれないヤツ」も書けないと、迫力のある描き方はできません。そう考えると石原という人は、つくづく司馬遼太郎の対極にいる作家だと思えてきます。

助川 少し説明してください。

司馬遼太郎という対極

重里 司馬遼太郎は徹底して権力闘争を描き、生涯をかけて権力の正体とは何かを追い求めた作家です。石原は、そこを敢えて避け続ける書き手です。二人は日本の戦後社会で、背中合わせになっている小説家だという気がします。

助川 司馬遼太郎はたぶん、自分より他人に関心がある。ところが石原は、最終的には自分を肯定することにしか興味がない。
「あいつ、嫌いだけどおもしろいヤツだ」みたいな感覚って、石原にはないように思います。でも司馬なら、「こいつ、すごく気に食わないけど興味がある」みたいな人間を、舌なめずりをして観察して小説に書くのではないでしょうか。

重里 石原は、さっきも触れたとおり、高度経済成長に向かう日本人のメンタリティーを見事に表現した作家です。司馬遼太郎もまた、高度成長期を代表する小説家の一人であることを誰しも疑わないでしょう。司馬が歴史上の人物から学んで描き出した精神性や現実感覚が、高度経済成長の一方のメンタリティーでしょう。同じ時代を象徴する二人が、これほど対極的で、しかも両方が当時の日本人の精神を体現しているということが、私にはたいへん興味深いです。

助川 冒頭でも触れましたが、井上靖は、敗戦によってそれまで抱いていた価値観が崩壊してニヒリズムに陥りました。いっぽう石原は、井上のような喪失体験なしに、最初から倫理も思想もない世界にいた。目に見えない価値を信じず、自分の感覚と自然だけを信じる石原を、井上は自分と同じニヒリストだと誤解して共鳴してしまった。でも、石原と同じ昭和ひとケタ生まれにも、開高健みたいにニヒリズムも抱えた作家もいました。

重里 大江健三郎も、井上靖や開高健と通じるでしょう。第三の新人たちでも、背景に深いニヒリズムがあるのを感じます。石原だけが、無意味や無価値を生き生きと生きているのですね。ある意味では素朴で無邪気な虚無の塊です。

助川 ですから、井上の誤解も当然という気もするんです。それだけ石原は新しい存在だったのでしょう。

重里 でも、石原のような日本人は、高度経済成長期にはたくさん出て来たと思います。思想や価値は脇に置いて、欲望の充足を求める人間。この小説はその先駆けのような役割を果たしたのでしょう。

一方で、司馬遼太郎が表現したのは、欲望を充足させよう、生き延びようとする者たちが、どのようにうごめき、どのように争い、どのように組織をつくったのか、どのような精神性がそこにあったのか、その歴史を斜め上から俯瞰して眺めた風景だったのでしょう。高度経済成長期の人々は、石原の小説を読んで自分よりも欲望に徹底できる先駆的なリーダーを知り、司馬の小説を読んで自分たちの姿を少し高い場所から、客観的に眺めようとしたのだと思います。

ここで、前章で取り上げた『蒼氓』に引っかけると、『太陽の季節』はけっこう似ているところがあるのではないでしょうか。価値観を掲げたりせず、人間の生態を生々しく書くようなところとか。

助川 結局、どちらも自然主義的だということでしょうか。

重里 続けて読んだせいでよけいにそう思うのかもしれませんが、芥川賞の第一回受賞作と芥川賞中興の祖が、こういう風に共通点があるというのは新たな発見でした。どちらも大変わかりやすい作品。そのうえ、それぞれが書かれた時代の風俗が鮮明に描かれています。『蒼氓』では、戦前の貧しい移民。『太陽の季節』は、戦後十年を経た時期の金持ちの不良。

助川 中村光夫が、「風俗小説と私小説は裏表である」という理論を掲げて、『風俗小説論』を書きました。中村のいっていることはおそらく正鵠を射ています。村上龍の『限りなく透明に近いブルー』も、自然主義的な私小説であると同時に、風俗小説です。

重里 やはり芥川賞隆盛のきっかけになった作品ですね。あの小説も、時代の風俗を群像で描いているうえ、そこに価値や倫理は見えにくい。フルートとか、高価な絵の具とか、青いガラス片とか、チラチラと見えはするのですが、あくまで破片か残滓で、世界を覆う全面的な価値とはならない。それで若者たちは無意味の中でうごめいている。ある意味、三つの作品は似ているといえるかもしれません。芥川賞が好むタイプの小説といえるでしょうか。

それにしても『太陽の季節』が書かれた時代、「湘南で遊んでいる金持ちの不良」はそれなりの数いたはずなのに、石原だけが『太陽の季節』を書けた理由は何なのでしょう?

助川 それは裕次郎がいたからかもしれません。私の知人に、石原慎太郎の湘南高校時代のクラスメイトだった人がいます。その人によれば、高校時代の石原は「青白きインテリ」というタイプで、『太陽の季節』の主人公とはまったく違っていたそうです。
 これに対し裕次郎は本物の不良だったみたいです。『太陽の季節』をはじめ、「湘南で遊んでいる金持ちの不良」の話を、慎太郎は裕次郎の体験を元に書いたらしいです。

重里 三島由紀夫流にいえば、慎太郎が「認識者」で、裕次郎が「行動者」だったということでしょうか。

助川 『豊饒の海』の主人公二人組がリアルに生まれてしまったんですね。

重里 石原慎太郎の魅力の秘密がよくわかりました。慎太郎の文章力と裕次郎の行動力。この両方がペアにならなければ、『太陽の季節』みたいな作品は生まれません。

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