AI時代に問い直す英語教育学|第1回:AI普及の嵐の中で船を修繕しながら航海を続ける英語教師――方法・目標・存在の問い直し|柳瀬陽介

いつまでこのスタイルの授業は続くのだろうか……

私がこれまでに直接・間接に聞いた、英語教師の声です。

「自分の英語力も英語指導力もとうていAIには敵わない」。「熱心な学習者への個別指導ならAIの方が適している」。「AIアプリの導入などで、自分の存在意義が疑わしくなっている」。「『AIがあるから英語なんか学ばなくてもいい』と言う学習者に、実は密かに共感している」。

一方で、学習者はこのように思っているのかもしれません。

「そもそも、どんなに努力しても、AIの自動翻訳にはかなわないのなら、私たちは一体何のために英語を勉強しているのだろう」。「入試や英語の資格試験が大事だと言われても、AIによって社会が大きく変わってしまうなら、試験対策なんて意味がなくなるのではないか」。

表面上は、今日も平穏に授業が成立しています。しかし、このような日々がこれからも続くのか――多くの教師や学習者が、上ほど明確にことばには出さないまでも、胸の奥底で不安を抱いていませんでしょうか。

AIの教育利用をめぐる世界の動きは、国や地域によって大きく異なっています。2026年9月、アメリカのニューヨーク市は公立の小中学校で、ロサンゼルス市は公立学校の全学年で、児童生徒による生成AIの利用を1年間停止する措置を取りました。他方、日本はむしろ国として活用を推進しようとしています。次期学習指導要領の改訂を審議する中央教育審議会の特別部会は、2026年9月、外国語科でのAI活用を初めて明記した審議まとめ案を了承しました。もっとも、日本も手放しのAI推進ではありません。次期学習指導要領を審議する外国語ワーキンググループの報告案を読めば、誰もが高精度の機械翻訳を手軽に扱える時代を迎えたからこそ、そもそも外国語を学ぶ意義そのものを根本から問い直さなければならない、と率直に記されています[1]。

我が身で感じるAIの驚異的な能力

私自身は、日々の研究や生活の中で AIを積極的に利用し、その恩恵を実感しています。AIとの英会話を日常化し、AIとのやりとりの言語を原則として英語にしてから、還暦を過ぎたこの2、3年で自分の英語力が確実に、しかも飛躍的に引き上げられました。こんなに英語力が上がったのは、18歳のときに大学ESSに入って、初めてスピーキングの練習をしたとき以来です。私の授業実践でも、ほとんどすべての学生がAIを使った活動に肯定的な評価を示しています[2]。

それでは私が徹底的なAI推進派かというと、そうでもありません。使えば使うほど、その底知れぬ力に圧倒され、怖くもなっています。この警戒感は、テクノロジーへの無理解や食わず嫌いから来る拒絶反応とは本質的に異なります。特に私が警戒しているのが、AIの文章量産能力の誘惑です。AIに適当な指示を入れると、AIは数分以内にそれなりの文書を生成します。人間ユーザー独自の構想も執筆も編集もほぼ皆無です。締切に追われた人間なら、それを自分の作品として提示したくなる誘惑を強く感じることでしょう。それほどの明らかな悪用でなくとも、自らの思考が定まっていない者なら、AIを利用するうちに、ほとんどAIに思考を乗っ取られてしまうかもしれません。その結果、中身を自分でもよく理解していない文書を「自分の作品」として作成してしまいます。現代の若者は準備も心構えも不十分なまま、実際にこれだけの高性能AIに接しているのです。教育者はAI利用についてどのような方針・倫理・具体策を定めればよいのでしょうか。

「そんなことならAI全面禁止をすればよいだけだ」は解決策になりません。多くの学習者はきっと不正利用をするでしょうし、AI利用についての見識も育てられないまま社会に出てゆきます。同様に、「学習者一人ひとりに考えさせればいいんです」も教育的ではありません。そもそも学習者は、成人・専門家のように自律的な判断ができないから学校に来ているわけですから、教師はその指導領域においてAI利用の具体的な是非を教えなければなりません。

「わかりました。でしたら、この激しい技術革新の波が少し落ち着き、教育現場でのAI利用基準が定まってから、腰を据えてじっくり考えたいと思います」とおっしゃる方もいるかもしれません。しかしそのように「変化が一段落し、落ち着いて考えられる日」は、おそらくやってきません。第1に、AIの進化の波は今後も減速することなく押し寄せ続けるでしょう。第2に、その影響は教育のみならず、仕事のあり方、文化活動、政治や経済の行く末といった社会のあらゆる領域に波及し、複雑に絡み合います――つまり、もはや誰にも全体の動向を見通すことができなくなります。よって第3に、従来の意味での確実な未来予測が原理的に不可能になります。そうなると「緻密な計画を立案し、それを厳密に実行する」という計画主義的なアプローチそのものが通用しなくなります。「事態が落ち着く日」は、もう二度と訪れないと考えるべきでしょう。

では、私たちは一体何を行動原理にすればよいのでしょうか。この途方に暮れるような状況を打開する方針について考えてゆきましょう。

ノイラートの船で私たちは何を行わなければならないのか

ここで、20世紀前半のウィーンで活動した哲学者オットー・ノイラート (Otto Neurath) が用いたと言われる、よく知られた比喩をご紹介します――私たちは、大海原の上で自分の船を造り直さなければならない船乗りのようなものだ。船をいったんドックに入れて分解し、最良の部品で一から組み立て直すことは、決してできない――この比喩は、のちに「ノイラートの船」と呼ばれるようになりました。

たとえば、帆船で海を旅しているときに、船底に穴があいて水が入ってきたと想像してください。可能なら、安全な港まで戻って、船を修理する場所に上げて、落ち着いて直したいところです。でも、「ノイラートの船」では、そんな港は近くに見当たりません。船乗りは、大荒れの海の中、船に乗ったまま、沈まないように穴をふさぎながら進み続けなければならないのです。直しながら動かし続けないと生き延びられない――これがこの比喩が表現する状況です。

今日、教育の現場で奮闘している英語教師の境遇は、まさにこのノイラートの船乗りの姿と重なりませんでしょうか。今晩もAI技術の革新や未来への懸念が伝えられます。しかし、明朝には授業があります。教育活動をいったん完全に停止させ、安全な港に腰を落ち着けてカリキュラムや指導観を一から完璧に再設計するような猶予は、現場の教員の誰ももっていません。

覚悟を決めて航海を続けることにしましょう。ですが、このときに大切なのは、私たちが行うべきは浸水箇所の修繕だけでよいのかを考えることです。ここでノイラートの船の比喩を、さらに一歩押し広げて考える必要が生じます。AIがもたらす変化は広範囲かつ根底的だからです。航海を続けるために検討することは、3つのレベルに及びます。

第1のレベルは、もちろん応急処置です。浸水箇所に当て木をして浸水を食い止めます。航海を維持するための最低限の修繕です。英語教育の現場で言えば、宿題をAI出力の丸写しでは完成できないものに修正したり、AI英会話アプリ導入に伴い授業計画を変更したりすることです。言い換えるなら、第1のレベルは、英語教育の具体的な「方法」や「手段」の変更です。

第2のレベルは、手元の航路計画そのものを再検討することです。船底の浸水を何とか抑え込んだとき、「今この船が目指している目的地は、そもそも本当に私たちが目指すべき港なのだろうか」という疑念が胸をよぎるかもしれません。目の前の航路計画は古い想定にしばられていないか、あるいは目的地そのものがすでに状況の変化によって意味を失ってしまってはいないか――これは、航行の「目標」そのものの問い直しです。英語教育で言えば、これまで疑うことのなかった「大学入試突破」や「各種民間英語資格試験でのハイスコア獲得」という目的地が、これからますますAIが普及してゆく時代を生きる若者のための最重要目標なのだろうか、という根本的な問いです。

そして、さらにその深層に第3のレベルが存在します。航海そのものの問い直しです。航路の妥当性をめぐって考えているうちに、私たちはやがて、より根源的な自己理解を迫られます。そもそもこの船は、一体何のためにこの大海原へと船出したのか。この航海の営みそのものは、私たちにとって、あるいは私たちをこの航海に送り出した祖国にとって、一体いかなる意味をもっているのか――これは、航海の技術や目的地の設定を超えた、航海そのもの、すなわち「存在」の問い直しにほかなりません。英語教育に照らし合わせるならば、AIがほぼ完璧に同時通訳をこなし、人間以上の流暢さで論文や手紙を代筆してくれる時代において、生身の人間が他国の言語を学び、自らの声で語り合おうとすることには、そもそもいかなる意味があるのかといった問いです。この種の問いは、英語教育という制度の存在にかかわっています。また、私たちが人間としていかに生きるのかという、人間観そのものの問い直しとも分かちがたく結びついています。

これらの3つのレベル――ここでは「方法」「目標」「存在」と総括します――を問い直すことの重要性は、組織学習の理論でも論じられています。特に、クリス・アージリス (Chris Argyris) が提唱した「単一ループ学習 (single-loop learning)」と「二重ループ学習 (double-loop learning)」という概念[3]は、教育現場における改善や変化を考えるうえでも非常に重要です。

単一ループ学習とは、すでに組織や個人の中で定められている目標や価値観をそのまま前提とし、その目標をいかに達成するかという「方法」や「手段」だけを見直しながら改善を積み重ねてゆく学び方です。ここでいう「ループ (loop)」とは、輪のように一周してもとに戻る流れのことです。まずやってみる、結果を確かめる、うまくいかなければやり方を直して、またやってみる――この「試す→確かめる→直す」の繰り返しが、1つの輪を描くように回り続けます。たとえば、「生徒の発話量を増やす」という目標が決まっているとします。教師は教材や活動の手順を工夫して授業を行い、生徒がどれだけ話したかを確かめ、足りなければまた別の工夫を試します。この輪を何周も回して、よりよいやり方を探し続けることが単一ループ学習にあたります。ただし、この輪の中で問われるのはいつも「どうすれば発話量が増えるか」です。「そもそも発話量を増やすことが目標でよいのか」という目標そのものが疑われることは一度もありません。

他方、二重ループ学習は、この「方法」のレベルでの改善に加え、「そもそも設定した目標や、その背景にある価値観自体は適切なのか」といった根本的な問いを立て直す姿勢をも含みます。すなわち、「生徒の発話量を増やすばかりが、本当に学習者が必要としていることか」や、「発話量増加競争で、何か大切なことが損なわれていないか」といった、従来当然視してきた前提自体を再評価するプロセスです。単一ループ学習が「やり方」の枠内での最適化に留まるのに対し、二重ループ学習はその「やり方」が前提とする「目標」そのものを外側から見直し、ときには枠組み自体を描き直すような根本的な再検討に踏み出します。

ここで重要なのは、二重ループ学習を実践する場合であっても、単に前提を問い直すだけで完結するわけではないということです。私たちは、問い直したあとの新しい目標や価値観のもとで、再び具体的な手段についての改善と試行錯誤(=単一ループ学習)を並行して行う必要があります。二重ループ学習は常に単一ループ学習と切り離せません。目標や価値観そのものを再検討しつつ、その都度あらためて具体的なやり方を練り直す――つまり、目標を問い直す外側の輪と、やり方を改善する内側の輪が、入れ子になって回り続けているのです。この重なりによって、より本質的で持続可能な学びや組織変革が可能になります。

さらに近年では、「自分たちが何者であるのか」「どのような役割で世界に関わるのか」といった自己の存在の根本まで掘り下げる学びのあり方が、「三重ループ学習 (triple-loop learning)」として論じられています[4]。この用語はアージリス自身が用いたものではなく、論者によって意味づけもさまざまですが、ここでは、「方法」と「目標」の前提となる「存在」に立ち返る営みとまとめておきます。先の2つの輪のさらに外側に、もう一回り大きな輪が加わり、3つの輪が入れ子になって回る姿を思い浮かべてください。

「先生、AIがあるのにどうして英語を学ぶ必要があるのですか」と問われた教師が、説得力あることばを返せないのは、教育方法や教育政策についての情報が不足しているからではありません。英語教育という営みが自分にとって何であるのかを、自らの血の通ったことばとしてもてていなかったからです。

AI時代が私たちに突きつけているのは、第3のレベル――自らの存在意義そのものの再定義――が、もはや現場の誰もが避けがたい課題となってしまったことです。英語教育の再定義と再生は、明日ではないにしても近未来にきっと必要になるでしょう。ただ私たちの困難は、方法・目標・存在の3つのレベルを、一度英語教育の営みを完全停止してから、段階を追って順番に処理してゆくことが許されないということでした。

たとえば、ある英語教師が来週から授業に AI英会話アプリを導入する場面を思い浮かべてみてください。操作手順を覚え、授業内の時間配分を設計し、生徒へのアナウンスを準備するのが第1のレベルの方法の応急処置です。

しかしその準備を進めながら、その先生の脳裏には別の考えが浮かびます――このアプリが弾き出す発音の点数や流暢性のグラフは、果たして生徒たちをどこへ導くのか。きっと学習者は、これまでのテクノロジー導入と同じように少なくとも最初の数か月は熱心にアプリを操作するだろう。一部の学習者はスコアグラフを励みにし、熱心にアプリのアルゴリズムにしたがって課題をこなし続けるだろう。しかし、その脇目も振らない従順な学習は、AIがますます高性能を発揮する近未来のために若い世代が必要とする学びのすべてなのだろうか――これが第2のレベルである目標を疑う問いの一例です。

そしてさらに、タブレットの画面に向かって熱心に英語を吹き込んでいる生徒たちの横顔を見つめながら、その先生は考え始めるかもしれません――画面の向こうに人間が存在しない空間で交わされるこの発話訓練は、果たして本当に「ことばの学び」と呼べるものなのだろうか、AI相手のパフォーマンスをAIに点数化され、その点数を学びの価値とすることは人間にとっていかなる経験なのだろうか。このような学習を続ける若い世代は、将来、異言語・異文化を許容し、チャンスがあれば自ら母国語文化の外に飛び出すようになるだろうか。英語教師の個々人も英語教育制度も、なし崩し的にAIを導入しているだけではないのか――。これらこそが第3のレベルである存在を問う思考の例です。

「いえいえ、現場は忙しく、とりあえずAIアプリを導入するだけで精一杯です。そんな深い思考なんかする暇はありません」という反論が聞こえてきそうです。その通りです。だからこそ私はこの文章を書いています。教師は懸命に目の前のことをやり続けます。船はなんとか沈没を免れますが、着いた先は上陸しても意味のない場所だったらどうでしょう。そしてその上陸以前から教師も学習者も、自分たちが行っていることの意義を感じなくなっていたらどうでしょう。だからこそ、方法・目標・存在の3つのレベルで英語教育を問い直すことが必要だと私は主張しています。AIが進化するにつれ、それを使う人間の知性も高度化しなければなりません。

私たち大人が若い世代に対して負うべき責任のあり方も、根本的な見直しを迫られます。大人が未来の社会像を、確信をもって描き出せていないという事実を、児童・生徒・学生たちは大人が想像している以上に見透かしています。AIと生涯を共に生きてゆく若い世代にとって、AIを活用する際の批判的意識や、人間らしさ・自分らしさを保ち続けるための倫理は、私たちの世代よりもはるかに重大です。「先生、私たちはどう生きればよいのですか?」――学習者から教師に投げかけられる問いで、これ以上に重い問いはあまり考えられません。

AI利用の倫理を考える際に格別の責任をもつのは、AI以前の時代とAI以後の時代の両方を知る今の大人です。AIがなかった時代の知的経験を熟知し、同時にAIが可能にする新たな経験にも驚いている大人は、知的生活をAIと共に始めたAIネイティブ世代には得難い洞察をもちえます。無論、AIネイティブには、AIノン・ネイティブでは見えにくいものが見えているかもしれません。ですから、現在の大人だけが、若い世代のAI倫理を定めるべきでもないでしょう。しかし、いずれにせよ、私たちは、押し寄せる激動の波の中で応急処置を施しながらも、目的地の再検討を行い、航海に関わるすべての者が大切にするべきことを問い直さなければなりません。

そんな航海は、困難な挑戦の連続となるでしょう。大小さまざまな変化が求められます。そこでは、変化を糧として、かえって成長することが求められます。「逆境によって逆に大きく成長する」――このことばは耳あたりのよいスローガンのように聞こえるかもしれませんが、この特徴は、生物が本来身につけているものです。次の節で、このことについて説明します。

壊れる度に強靭になる――反脆弱性=新生力

困難な環境の変化や予期せぬ出来事にただ耐え凌ぐのではなく、むしろそれらを活用し、以前よりもしなやかで強靭な状態へと変化してゆく現象は、私たちの身の回りにも数多く見出すことができます。その代表例が、私たちの身体に備わる免疫機構です。身体に未知の病原体が侵入すると、一時的に体調を崩したり感染症を発症したりする場合がありますが、私たちの身体はそれに対抗しつつ、その特徴を記憶してゆきます。そして、次に同じ病原体が再び侵入した際には、これまで以上に迅速かつ適切に対応できる能力を獲得します。すなわち、外部からの衝撃が契機となり、自らを刷新しうるということです。あらゆる生物は、環境の変化から学び、それを自己の力へと転化し、成長を遂げてゆきます。

この生命現象が宿す特徴を、個人の生き方や組織のありよう、さらには社会制度の設計といった人間界の諸領域へと大胆に押し広げた思想家が、ナシーム・ニコラス・タレブ (Nassim Nicholas Taleb) です。ウォール街の金融市場で成功したのちに独自の思想を打ち立てた彼の出発点にあったのは、「人間の予測は決定的な破局の局面において決して当たらない」という骨身に染みる経験でした。複雑に絡み合う世界では、いかなる高度な統計モデルも予見し得ない破滅的な大異変が、人々の油断を見透かしたように突如として発生します。

そのタレブの主著の1つが、『反脆弱性』(Antifragile, 2012) です[5]。彼の問いはとてもシンプルですが、深いものです。ガラスのコップは「脆く壊れやすい」 (fragile) ものですが、そのまったく反対の性質は何か。普通であれば、「壊れにくさ」つまり「頑強性」 (robust) と答えたくなるかもしれません。しかしタレブは、それだけでは十分ではないと考えます。分厚いプラスチックでできた頑丈なコップは、たとえ床に落ちても「元のまま」で変化しませんが、その衝撃で強くなるわけではありません。タレブが考える「脆さ・壊れやすさ」の反対とは、衝撃やストレスを受けることで、かえって前よりも強くなったり成長したりする性質のことです。こうした性質にぴったり当てはまる用語が今までどの言語にもなかったとして、タレブは新しく「反脆弱性 (antifragility)」という用語を作りました。筋肉が運動でダメージを受け、それを回復する過程で前より太く強くなる現象も、その代表例の1つです。

このタレブの概念を、私はかつて「新生力」と呼び直して教育について論じました[6]。本稿においても、この「新生力」という表現を用いたいと思います。なぜならこの用語は、「回復力」との違いを際立たせてくれるからです。回復力とは、文字通り傷つく前の元の定常状態へと時計の針を巻き戻す力を意味します。これに対して新生力とは、予期せぬ打撃や環境の急変を自らの内側へと消化・吸収し、より高次の対応力を備えた新しい自分へと変容してゆく力を指しています。昨今、教育界で多用される「レジリエンス (resilience)」ということばのなかには、しばしばこの両者が混在してしまっていますが、英語の原義に照らせば、レジリエンスとは元に戻る弾性(回復)を本義としており、自らを質的に更新する新生の契機を含んでいません。AIの進化と普及に伴う、驚くような変化に絶えず身を晒している私たちに必要なのは単なる回復力でなく、新生力なのです。

新生力は何によって育つのか

「新生力が大切なことはわかりました。でも結局は、打たれ強い教師になれという精神論ではないのですか」とお考えの読者もいらっしゃるかもしれません。しかし私は精神論をもちだすことはできるだけ控えます。新生力は、気のもちようからというよりも、身体のもつ潜在的な力から生まれるものだからです。先に挙げた免疫や筋肉の例を思い出してください。身体が新生力を発揮するには、条件があります。衝撃に身を晒すことと、その衝撃を受容することです。

第1の条件は、衝撃に身を晒すことです。生物は衝撃やストレスを奪われると、かえって弱ってしまいます。何週間も寝たきりでいれば、筋肉は衰えます。病原体にまったく出会わない身体は、免疫の記憶を育てられません。衝撃をまったく避けることは、守られることではありません。新生の機会を失うことです。

英語教師にとって、いま身を晒すべき衝撃とは、AI技術の進化の最前線です。いまAIの開発と利用の最先端で何が起き、ことばと知性のありようがいかに書き換えられつつあるのか――この生々しいAIの実態を知ることなしに、AI時代の新しい英語教育の姿を構想することなどできるはずがありません。そのためにも、自分でまずAIを使ってみる。XなどのSNSで情報を集める――AIから距離を置いている教師は、短期的にはAIの衝撃から守られているようでいて、中・長期的にはその衝撃を自分の力に変える機会を、自ら手放しているのです。

しかし、身を晒すだけでは十分ではありません。衝撃を受けるだけなら、身体は傷つくか、よくても元に戻るだけです。免疫が新生力の代表例であるのは、身体が病原体に耐えるだけでなく、その特徴を記憶し、次の侵入に備える新しい自分をつくるからでした。第2の条件は、この受容です。受けた衝撃を自らの内側で咀嚼し、自分を質的に更新する材料に変えることです。

英語教師にとって、衝撃を受容するとは、AIがもたらした変化の意味を、方法のレベルだけでなく、目標と存在のレベルでも考え抜くことです。教師が授業の宿題の出し方を変えるだけなら、衝撃は方法のレベルで処理されて終わります。それは元に戻る回復であって、新生ではありません。とはいえ、衝撃を目標と存在のレベルで受け止めるには、それらを問うための概念が必要です。その概念を与えてくれるものとして私が選ぶのが、「近代哲学の古典」を読み直すことです。一見、「哲学がどうして英語教育に役立つの?」と思われるかもしれませんが、哲学という営みは、人間とは何か、社会とは何かといった根本的な土台を、もっとも根底から問い続けている知の営みです。人間の文化のもつ潜在的な力の1つです。哲学の効用は工学の効用ほど顕在的・直接的・短期的に現れません。しかし哲学は、人間と社会のあり方を変えうる潜在的・間接的・中長期的な力をもっています。

AIの登場によって私たちに突きつけられているのは、単なる指導方法の微調整ではなく、教育の目標と存在そのものの再定義でした。しかし私が見るところ、私たち英語教育の専門領域の内部には、自らの存在意義そのものを解体し再構築するための十分な語彙が備わっていません。そのような語彙を豊かに備えている領域は哲学だと私は考えています。とりわけ、私たちが生きる「近代」という時代の骨格を思想的に立ち上げ再構築してきた哲学者たちは、人間とは何か、自由とは何か、学ぶとはいかなる営みか、人間が人としてことばを交わすとはどういうことなのかといった根本的な問いに、生涯をかけて答え続けた人たちでした。

なぜ「近代」の哲学なのでしょうか。AIがいま揺さぶっているのが、まさに近代がつくりあげてきた概念だからです――自分の頭で考え、自分で判断する自律的な個人。自分の名で文章を書き、その内容に責任を負う著者。働くことを通じて自分と社会をかたちづくる人間。公の場でことばを交わし、共に世界を担う市民。そして、経験を通じて成長してゆく子どもと、その成長を支える学校――AIが人間の代わりに考え、書き、働き始めるとき、これらの概念はどれも自明のものではなくなります。そうであるなら、AIの衝撃を新生力に転ずるには、これらの概念をつくった人たちが何と格闘していたのかに立ち返るのが筋です。この連載で読み直すデューイ、カント、アレント、マルクスは、それぞれ近代を考える概念を、生涯をかけて鍛え上げた人たちでした。

そういった哲学者の思索の原点へと立ち返ることは、一見遠回りに見えるかもしれません。しかし哲学は、他の知的営みよりも長く広い射程をもちます。この連載でも取り上げる予定のカントの作品でしたら、発表から約250年間にわたって読み継がれ、それだけの長い期間のさまざまな時代変化に重要な洞察を与え続けてきました。カントの同時代にもまたそれ以降にもたくさんの哲学者はいましたが、今なお読み継がれているのはカントなどの古典的な作品だけです。長きにわたって人々を魅了し続ける古典はすごいと思えませんか?

また哲学は、物理的に厳密な定義と測定を必要とする自然科学と異なり、日常の自然言語を基盤にしながら概念を整備してゆきます。それゆえ自然科学よりもはるかに広い範囲を、その広さに適切な厳密性でもって語ることができます。この射程の長さと広さこそが、AIがもたらしかねない巨大な変化に対応するために人間の文明が備えているもっとも有効な知の分野の1つだと私は考えています――もう1つの分野は文学だと考えていますが、それについてはこの連載では扱いません。

教員研修などでは、「明日から役立つ英語指導のノウハウ」が重宝されています。最近の AI活用セミナーで配られる「コピペだけですぐに使えるプロンプト集」や、特定の英会話アプリの操作手順マニュアルといった類のものです。これらは現場の負担を和らげる有益な指導技術であり、忙しい教師にとって欠かせないものです。ただ、ノウハウには固有の守備範囲があります。先に述べた単一ループ学習の内側で、目標や存在は問わずに、やり方を改善するということです。ですから、衝撃に身を晒すことも、衝撃を受容することも避けたまま、ノウハウだけに頼って授業を回し続けるなら、それは回復ではあっても、新生にはなりません。そして、即効性のあるノウハウだけを求め続けていると、英語教育の目標や存在について考える機会が、いつの間にか遠ざかってしまいかねません。

私は、具体的な授業の手法を軽んじているわけではありません。私自身も大学の教養課程で英語を教える一人であり、毎日の地道な営みこそが教育を支えていると信じて疑いません。私が言いたいのは、具体的な改善には抽象的な思考が必要だということです。ですから、この連載が想定している読者は、日々の授業を少しでもよいものにしようと技法を探し求め続けている熱心な先生方、そしてそのような先生を支援するためにこそ研究をしたいと思っていらっしゃる研究者の方々です。

いま私たちが目の当たりにしているように、AIテクノロジーに関連する実践的ノウハウの寿命は、もはや「年」の単位ではなく、わずか数か月という「月」の単位で儚く失われてゆきます。ある特定の AIアプリの操作手順を学習者に配布した数か月後には、アプリの仕様変更によってその手順自体が使えなくなってしまうということは、私も何度も経験していることです――だからこそ私は「AIのことはAIに聞け」という原則を学習者に伝えています[7]が、その話はここではこれ以上述べません。

これに対して、AIの最前線に目を向け、その衝撃を哲学で咀嚼しようとするなら、外部から与えられるノウハウを追いかけ続ける必要がありません。教室に必要な技法を、自らの手でその場において生み出すことができるからです。テクノロジーの最前線で何が起きているかを皮膚感覚として捉え、同時に「そもそも英語教育とは人間にとっていかなる営みであるべきか」という哲学的な問いを自ら納得できることばにする努力を重ねているからです。だから、目の前にある新しい道具を教室においていかに位置づけるべきかは、自ずから定めることができます。しかも、そのようにして自らの深い思索から紡ぎ出された実践の知恵は、たとえ翌月に使っていたアプリの画面構成が変わろうとも、その価値を失いません。技法を生み出すための思考の骨格そのものが残っているからです。本連載が変革を促そうとしているのは、先生方が授業を見つめ、構想する、先生方自身の思考の深さそのものなのです。そうやって先生方一人ひとりが考える実践者となり、実践を重ねその結果を共有する――こういう協働体制こそがAI時代を生き延びる鍵だと私は思っています。

この連載では、AI最前線と近代哲学の古典の両方をしっかりと読み解き、そこからの洞察を得て、英語教育のあり方の再定義を試みます。ただ方法を改善するだけでなく、目標を問い直し、英語学習者や英語教師ひいては学校英語教育のあり方(存在)を再検討し、二重・三重に考えて英語教育の形を構想しそれを少しでも実現することを試み続けます。再定義も再検討も一度では終わらないでしょう。AIが人間と社会のあり方を変え続けるからです――この重層的で、完成することのない試みを、私はあえて「AI時代の英語教育学」と呼びたいと考えています。

なぜ、いま「英語教育学」を名乗るのか

「英語教育学」ということばを自らの研究に用いることには、私は長く戸惑いを抱いてきました。教育学の名を冠するには、自分の研究の射程があまりに狭く、何より教室の現実を捉えきれていないと感じ続けていたからです。加えて、1980年代以降の日本において「英語教育学」の主流派と目されていた研究の潮流は、自然科学の客観的な実験手法を模範とし、測定可能なデータばかりを重視していました。どのような人間を育てるべきかという根源的な価値判断の問いは、「非科学的な主観」として研究の場から締め出されるほどでした。しかし、教育とは社会が合意している価値の方向へと若い人々を導く営みです。それなのに、価値そのものを問うことを誇らしげに禁ずることは学問として不合理です。もちろん、ある種の研究データを数量化することに何の問題もありません。しかし適切に数量化できない領域の事象をあたかも存在しないように振る舞うことは、人間とは何か、教育とはいかなる価値を実現する営みなのかを問い続ける、本来の教育学の精神からは、むしろ遠く引き離れてゆく道筋に私には思えました。

私自身は実は、客観主義的な実証主義(心理言語学的アプローチ)から研究生活を始めました。しかし、やがてそのアプローチから降り、熟練教師の授業観察と哲学の読解という両極を自らの研究としました。いま振り返れば、授業観察は教室の現実に身を晒す営みであり、哲学読解はその現実を受容する営みでした。この2つの組み合わせが、例えば小学校への英語教育導入、大規模標準民間試験の導入検討、そして現在のAI普及といった変革期において、各種のシンポジウム登壇依頼をいただけるような英語教育観を提示できる背景になったと私は信じています。ただし以前の私は授業の観察者にすぎず、自ら授業を担って失敗のリスクを負ってはいませんでしたから、「英語教育学」の看板を掲げることは避け続けました。2019年度に現在の職場へ移り、教養課程での英語授業が主な仕事になり、評論家ではなく実践者になってからも、その躊躇は続きました。

しかしこの原稿を執筆している2026年のAIの進歩は、英語教育の営みには「教育学」が必要だと私に覚悟を迫りました。AIの影響力があまりにも強大だからです。AI登場以前に基本的な読み書き能力を獲得し、自分の名前を出す文章には責任が伴うことを自覚している古い世代は、まだよいでしょう。しかし、単位取得に追われる大学生はどうでしょう。個性も責任もさほど求められない授業レポートで、多くの学生がAIの不正利用の誘惑に屈してしまうのではないでしょうか。中高生についても同様で、自分を高めるAI利用法と堕落させる利用法の違いは紙一重です。さらには判断力が十分でない小学生に、ただAIに「慣れ親しむ」ことばかりを促したら、その帰結はどうなるでしょう。大人のAI利用倫理以上に学習者のAI利用倫理は重要です。その倫理は明確な教育方針に翻訳されなければなりません。今こそ教育学が必要なのです。私もやはり「英語教育学」の旗を立てて、自らを律しながら研究を進めなければならないと覚悟しました。

この覚悟を力強く後押ししてくれたのが、2026年8月にマサチューセッツ工科大学 (MIT) が公表した新たな AI利用方針の文書です。それは、どのソフトウェアをいかなる条件で使ってよいかという技術的なものではなく、学ぶとは人間にとっていかなる行為であるのか、そして大学という場は何のために社会に存在するのかという、教育の根本的な理念を真正面から高らかに謳い上げた宣言書でした[8]。AIの能力を熟知している組織だからこそ教育学的考察を行っている――これは、AIの時代の特徴を示していると私には思われます。

本連載では、この回を含めて全8回にわたる航路を考えています。4回をかけてジョン・デューイ、イマヌエル・カント、ハンナ・アレント、カール・マルクスを、AI時代という観点から読み直し、今後の英語教育のあり方を検討します。決して哲学者の退屈な解説だけに終わらせません。その後の第6回では日本の近代化と英語教育の歴史的葛藤を掘り起こし、第7回では英語教育の土台である日本語そのものの変容を再検討して、21世紀の日本における英語教育の方向性を探ります。最終第8回ではルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの哲学とともに、この連載を通じて私たちが紡ぎ出してきたことばそのものが、激変する教育の現実を真に語り得ていたのかを自己批判的に検証する予定です。

まとめます。AIの時代において真に問われているのは、単なる英語の教え方の技術にとどまりません。英語教育という営みの目標も、その存在理由も問われているのです。そしてこれら3つのレベルを、日々の授業の歩みを止めることなく同時に問い直し、授業を新生させることこそが、私たちが引き受けるべき創造的な課題です。私はその果てしない探究を「AI時代の英語教育学」と名づけます。人間とは何か、ことばを学ぶとは、そして教えるとは何かを問い続けながら自分の生き方を改めてゆくことは、知性のありようが根底から揺らぐこのAI時代にこそ、私たちが誇りをもって引き受けるべき、最も人間的な責務なのです。


追記:この連載への感想やご意見は、末尾に掲載するURLからお気軽にお寄せください[9]。すべての意見は拝読し、できるだけ多くの意見を次の連載に反映できるよう努力します。


[1] K-12 Dive “New York City pauses AI use for elementary, middle school students”、同 “LAUSD restricts all students from using AI tools”(いずれも2026年9月)。https://www.k12dive.com/news/new-york-city-pauses-ai-use-for-elementary-middle-school-students/829496/、https://www.k12dive.com/news/lausd-restricts-all-students-from-using-ai-tools/829612/。中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会外国語ワーキンググループ「取りまとめ(案)」(2026年8月3日)。https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/108/mext_02389.html。中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会教育課程企画特別部会「次期学習指導要領等に向けた審議まとめ」(2026年10月5日公表)。https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/004/gaiyou/mext_00022.html。

[2] 柳瀬陽介 (2025)「AI活用により英語学習者を自律的ユーザーに育てる――京都大学の学術英語ライティング授業についての省察的報告」『京都大学国際高等教育院紀要』8, 1–57。https://doi.org/10.14989/ILAS_8_1。柳瀬陽介 (2026)「AIプロンプトを用いた大学生の英語スピーキング能力開発――AIと教師による学習者の自律学習支援」『京都大学国際高等教育院紀要』9, 49–100。https://doi.org/10.17983/ILAS_9_49。

[3] Argyris, C. (1991). Teaching smart people how to learn. Harvard Business Review, 69(3), 99–109. Argyris, C. (2002). Double-loop learning, teaching, and research. Academy of Management Learning & Education, 1(2), 206–218. https://doi.org/10.5465/amle.2002.8509400

[4] Tosey, P., Visser, M., & Saunders, M. N. K. (2012). The origins and conceptualisations of ‘triple-loop’ learning: A critical review. Management Learning, 43(3), 289–305. https://doi.org/10.1177/1350507611426239(オープンアクセス版:https://openresearch.surrey.ac.uk/esploro/outputs/journalArticle/The-origins-and-conceptualisations-of-triple-loop/99515599302346)

[5] Taleb, N. N. (2012). Antifragile: Things that gain from disorder. Random House. 邦訳:ナシーム・ニコラス・タレブ『反脆弱性――不確実な世界を生き延びる唯一の考え方』上・下(望月衛 監訳、千葉敏生 訳)、ダイヤモンド社、2017年。

[6] 柳瀬陽介 (2022)「逆境を活かす新生力(創造的レジリエンス)は授業で培える――身体表現からの偶発的コミュニケーション」村田和代 編『レジリエンスから考えるこれからのコミュニケーション教育』ひつじ書房。

[7] 柳瀬陽介 (2026)『AI英語学習法』岩波書店(岩波ジュニア新書)。

[8] MIT Ad Hoc Committee on AI Use in Teaching, Learning, and Research Training (2026, August 13). Report – AI and Education. Massachusetts Institute of Technology. https://aiandeducation.mit.edu/report/

[9] Google Form: https://forms.gle/d2P5RwqWoBo5yoQbA

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