目からウロコの百人一首|第7回 11 わたの原八十島かけてこぎ出でぬと人には告げよあまの釣り舟|はんざわかんいち

わたの原八十島かけてこぎ出でぬと人には告げよあまの釣り舟

 この歌も、前回取り上げた10番歌と同様、古今集(巻9・覉旅歌・407番)に、「おきのくににながされける時に舟にのりていでたつとて、京なる人のもとにつかはしける」という詞書とともに載っています。つまり、隠岐に島流しにされる時の歌ということです。

 定家時代の教養人にとっては、周知の歌であり、事件だったと思われます。しかし、それはそれとして、歌の表現そのもののありようからは、どのように捉えられるか、見てみましょう。

 

〔ウロコ1〕「八十島(やそしま)かけて」

 「八十島」という名の島があるわけではなく、「八十」は沢山の、という意味です。「かけて」は目指してという意味ですから、沢山の島をめざして、ということになりそうです。

 しかし、何かおかしくありませんか。観光か釣りが目的ならば、あちこちの島をめざすのも分からなくはありませんが、そんなのんきな歌ではないはずです。事実関係としては、目的地は1つ、島流し先の隠岐なのですから。まして、詠み手は行く先を自分では決められない、護送される立場です。

 事実関係を抜きに考えれば、目指す所に辿り着くまでの経過です。どういう航路かはともかく、途中に数多くの島があることが想定されます。その1つ1つに思いをかけて、ということではないでしょうか。

 

〔ウロコ2〕「人には告げよ」

 和歌で「人」という言葉が用いられるのは、2つの場合があります。1つは、世間一般の人を表わす場合、もう1つは、特定の相手を表わす場合です。この歌ではわざわざ「人には」と「は」で取り立てていますから、特定の相手ということでしょう。

 その相手に何を告げるかと言えば、第二・三句の「八十島かけてこぎ出でぬ」です。相手にもっとも告げたいのは、出発したということではなく、「八十島かけて」というところです。

 なぜか。それがまさに特定の相手たるゆえんです。詠み手の身を案じているであろう相手に対して、自分もまた、船旅の間じゅう、「八十島かけて」つまり目にする沢山の島1つごとに、何度もその相手への思いをかけるということです。

 

〔ウロコ3〕「あま(海人)の釣り舟」

 この「あま」は海人つまり漁師です。詠み手が船出するあたりの海で仕事をする人々でしょう。

 この句でひっかかるのは、「告げよ」と頼む相手が、「あま」という人ではなく「釣り舟」という物になっていることです。「釣り舟のあま」ならば、伝えてもらうこともありえなくはないはずなのに、なぜわざわざ「釣り舟」にしたのでしょうか。

 古典和歌では、万葉集以来、このような命令表現がよく用いられています。特徴的なのは、その相手が人ではなく、自然物や動植物あるいは道具などの人工物であるという点です。それらは、そもそも言葉の通じない相手なのですから、現実的なコミュニケーションを求めてではありません。

 古代人はそれができると信じていたという見方もありますが、現代でも「忌詞(いみことば)」が生きていることを考えれば、時代による差があるとは考えられません。

 この歌における、「釣り舟」を相手にする「告げよ」という依頼・命令は、それができないと分かっていながらも、なおそうせざるをえないくらいの、詠み手の切なる思いを表現していることになります。

 

 定家は、そのへんの機微を察したのではないでしょうか。その時の思いはついに相手には伝えられなかったとしても、結果的に、この歌こそがそれを広く伝えることになったわけです。

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