芥川賞作品を読む|第6回 又吉直樹『火花』(第百五十三回 2015年・上半期)|重里徹也・助川幸逸郎

柄のいい小説家

助川幸逸郎 今回は又吉の『火花』です。重里さんは、又吉を非常に買っておられますよね。

重里徹也 以前、助川さんが「又吉の小説は、何故か〈許せる〉という気持ちにさせられる」とおっしゃっていました。よくわかります。結構に多少の隙があったとしても、好感をもって読み通せてしまう不思議な魅力があります。柄がよい、というか、小説の格が高いというか。それは、今の時代に多くの人間が考えなければならない問題を真正面から、じっくりととらえているからではないかと思うのです。作品の完成度をいたずらに追うのではなく、自分のテーマにしっかりと取り組んでいるからだと思います。文学の初心があるように感じるわけです。

助川 この『火花』の場合もそうですけど、又吉が描く女性って、滅茶苦茶「都合のいい女」ですよね。

重里 確かに。そこを批判されることもありますね。

助川 こういう女性キャラを、「女はかくあるのが普通」とか「女はかくあらねばならぬ」みたいな感じで男性作家が語ったら、女性読者は怒ると思うんです。でも又吉はあくまで、「こういう女性がいて欲しいなあ」という「男の夢」としてそれを語る。だから、女性が読んでも「こんなに都合のいい女はいるはずないけど、こういう人がいて欲しいって男が憧れるのはわかる」みたいな気になり、それこそ許せてしまう(笑)。

重里 又吉は、自分の作品について書かれた批評をよく読んでいるのではないでしょうか。自分の描く女性像に対する批判も承知していると思います。それでも三作続けて、同じようなヒロインを出してくるわけですから、これは確信があってのことでしょう。フェミニズムを無視できなくなっている時代に、あえてこだわっているようにうかがえます。

助川 小説技術的にいうと、「常人からはうかがい知れないものを抱えたエキセントリックな先輩」の人間像を、「エキセントリックなものに憧れてはいるが、常識の枠を脱しきれない語り手」が語るという構造になっています。これは、割によくあるパターンだし、成功しやすい手ではあります。

 たとえば太宰の『人間失格』は、エキセントリックな人間の精神状態を、当人の視点を通して万人につたわるように書いています。こちらのほうが『火花』よりもちいられている手法は高度です。

 そういう意味では、あくまでプロの一流作家というレベルに照らしての話ですが、『火花』はそんなに上手い小説とは思えません。けれども私は、「上手い小説が読者をよろこばせたり、感動させたりするとはかぎらない」ということを、又吉の小説を読むと考えさせられるのです。

「神様」という言葉をめぐって

重里 でも又吉は、太宰の影響は間違いなく深く受けていますね。

 私が気になったのは、この作品では「神」という言葉がよく出てくることです。物語がかなり進んだところで、語り手と先輩である神谷が、笑いについて議論する場面があります。神谷は「神様という言葉を使うな」って言うのです。神様なんておまえ、信じていないのだから、そんな言葉は口にしてはいかんって語り手を叱っているように読める。この場面がとても鮮やかに印象に残りました。

 つまり、神谷は漫才を「ファンタジー」にしたくないと主張するのですね。おまえは何でも理屈っぽく考えて「ファンタジー」にしてしまう、出来事をありのままに受けとめて、「事件」として、あるいは「異物」としてお笑いを作れ。神谷はそう説いているように思います。

「神」という言葉に反応すれば、そこに太宰治の影響を感じます。それは太宰経由でドストエフスキーの影響を受けているのかもしれません。モノローグではなくダイアローグ的に小説が進むのも、ドストエフスキー的ですね。

「神」という言葉を途中で「ファンタジー」に言い換えて、現代の日本人にも咀嚼しやすくしています。ちょっとそこのところを読んでみますね。「徳永」とは主人公の語り手です。

「徳永、俺が言うたことが現実的じゃなかったら、いつも、お前は自分の想像力で補って成立させようとするやろ。それは、お前の才能でもあるんやけど、それやとファンタジーになってもうて、綺麗になり過ぎてまうねん。俺が変なこと言うても、お前は、それを変なことやと思うな。全て現実やねん。楓に色を塗るのは、片方の靴下に穴が開いたままの、前歯が 一本欠けたおっちゃんや。娘が吹奏楽の強い私立に行きたい言うから、汗水垂らして働いてるけど、娘からは臭いと毛嫌いされてるおっちゃんやねん」

助川 神谷の思想がよく出ている場面ですね。しかし、日本の近代小説に「神」が出てくるとドストエフスキーの影響を考えるのが「常識」みたいなところはありますが、又吉の場合、「太宰経由のドストエフスキー」というところがポイントなのですね。

重里 引用した部分のすこし前のところで、この楓の葉を一枚だけ紅葉させなかったのは、新米の神様が塗りのこしたものだ、といったようなことを語り手が言っています。神谷の、お前は何でもファンタジーにする、という言葉は、語り手の発言に対する神谷の痛烈な批判なのです。これは作家(又吉)が相当、「神」についてこだわっていないと出てこないセリフだろうと思います。太宰の直接の影響なのか、太宰経由でドストエフスキーを受容しているのか。どちらかなのでは(あるいは、どちらもでは)ないかと思います。

このおかしな先輩の名前が「神谷」というのも、どこかで「神」の問題を意識してのネーミングかもしれません。あんまり作中人物の名前を詮索するのは、私の趣味ではないのですが。

異様な個性より洗練の時代

助川 私の知り合いに、お笑いにくわしい青年がいます。彼に言わせると、『火花』に描かれたお笑いの状況は少し古いのだそうです。今のお笑いは、いろんな技術が高度に突きつめられていて、高い水準でそれぞれの芸人の実力が均衡している。それだけに、傑出したカリスマが現れにくい。神谷みたいなエキセントリックな人間には居場所がなくて、全方位的にさまざまな能力を身に着けないと生きのびられない。それだけに手づまりというか、どちらの方向を目ざせばいいか、芸人さんたちにとって見えにくくなっているようです。

重里 私なりによくわかります。昨年(二〇一九年)のM1の決勝に残った三組はみんな面白かったし、それなりに新しさを感じさせた。「異様な個性」というより、洗練されたものを感じました。横山やすしや坂田利夫が出にくい状況なのかもしれません。

 神谷は、「非日常」を志向するというか、観客を日常から逸脱させて笑いをとろうとする芸人です。日常の延長上に思い描かれる補助線のような「夢の世界」のことは、「ファンタジー」と呼んで否定する。彼は「不条理」を日常の中に投げこみ、日常を崩壊させる。そこに神谷の面白さと、なかなか大勢に受け入れられない理由があるように思います。

 そう思うと、この小説は現代の生きづらさを映し出しているともいえるのでしょう。人々はほんとうは不条理に直面しながら生きているのに、自己防衛のために、それをファンタジー(物語)にして耐えている。「神様」を持ちだすと、それが見えにくくなる。

助川 私はこの『火花』を、ものすごく正統的な芸術家小説だと思って読みました。

お笑いをやったり、芸術をやったりする人間は、みんな自分の中のエキセントリックな部分に突きうごかされていると思うんです。でも、そのエキセントリックなところをそのまま表現したのでは、誰にも理解されない。

 そもそも言葉が通じるのは、その言葉をみんなが知っているからです。音楽だって、音階は既存のものですし、聴き手に蓄積された過去の音楽体験に訴えるから、自分の曲に感動してもらえる。文学にしろ音楽にしろ、ある程度「手垢にまみれた部分」とつながらない限り、表現したものをわかってもらうことはできません。

重里 一方で、「手垢にまみれていない部分」だけでやっていきたいと、考えている芸人やクリエイターもいるのでしょう。

助川 売れている芸人やクリエイターは、「手垢にまみれた部分」につながる面と、そうでない部分を打ち出すことの折りあいが、何とかついているんだと思います。でも、そうやって売れた人たちでさえ、「自分が本当にやりたかったのはこれだったのか?」という疑いを捨てきれないのではないでしょうか?

重里 この小説の神谷は、その両面の折り合いがまったくついていませんね。ひたすらエキセントリックな方向だけに突出していく。

助川 又吉自身は、芸人としても作家としても評価されているわけですから、両面をしっかり視野に入れているんだと思います。そのうえで、神谷みたいにエキセントリックに徹する人間へのあこがれを捨てきれない。

重里 又吉は、おそらく語り手と神谷の両側に引き裂かれているのでしょうね。だからこの小説を書いた。

助川 ちょっとでもクリエイティヴなことにたずさわっている人間なら、又吉の「股裂き状態」は他人事ではないでしょう。この小説が多くの読者に好感をもって迎えられた理由は、そんなあたりにあると私は考えます。

重里 そして、職業的にクリエイティヴなことをやっているというわけではない人にも、又吉の「股裂き」は共感できるのではないでしょうか。

たとえば、人間関係の中でどこまで自分を押し通すか、本音を正直に口にすることは許されるのか。そういう悩みは、だれもが抱えているはずです。神谷のように何もかも自分をさらけ出す人間に、「自分はあんな風にできない」という反発とともに、「あんなふうに生きたら、どんな具合だろう」と羨望を抱く。これは、決して特定のタイプにだけ起こる感情の動きではない気がします。

仕事の現場でも、しばしば直面しますね。ちゃぶ台ひっくり返したろか、と内心は思いながらも、笑顔で上司や取引相手の言うことにうなずく。もちろん、その後で友人と居酒屋に行ったら、こんな仕事辞めたるわ、とクダを巻くのですが(笑)。

吉祥寺という街

 重里 それから、話は変わりますが、助川さんは吉祥寺という街についてどのように感じていらっしゃいますか。吉祥寺って、アンケートなどで「住みたい街・ナンバーワン」に選ばれたりしますけど、それはどうしてなのでしょうか。

 こんなことをいうのも、この『火花』という小説は、実に生き生きと吉祥寺を描いていると感じたからです。

助川 すごく図式化していうと、まず中央線文化というのがあります。関東大震災後の新興住宅地で、昭和の新興作家が何人もこの沿線に住んでいました。

重里 荻窪にいた井伏鱒二、三鷹に住んでいた太宰治。

助川 あと、地下鉄の東西線ができて中央線と相互乗り入れするようになると、早稲田とか明治とか共立女子とかに、中央線の沿線の駅から直通で行けるようになります。このせいで中央線沿線の文化に、「昭和レトロな住宅街」というレイヤーに加え、「学生文化の街」という層が上書きされます。

重里 東京女子大も西荻窪と吉祥寺の間ですね。

助川 さらに、吉祥寺は井の頭線の沿線でもあるので、下北沢の小劇場文化や、渋谷のストリートファッションやサブカルの影響も流れこんできます。

昭和レトロな住宅街、学生文化の街、下北沢につながる街、渋谷に影響される街――吉祥寺という街は、ざっくりいえばこの四層構造でできています。

重里 なるほど。又吉は、二作目では下北沢を舞台にし、三作目に出てくるのは上野です。上手く場所を選んでいる感じです(笑)。でも、この『火花』の吉祥寺が、又吉にとっていちばん相性がいい場所なのではないかという印象を受けました。

助川 吉祥寺というのは、先ほど申しあげたとおり、戦前から現代にかけての文化が多層的に折り重なっているところです。おしゃれで意識高そうなカフェや趣味のいい骨董品屋があったりするいっぽうで、戦後の闇市そのままという感じのアーケード街が駅前に残っていたりする。大島弓子をはじめ、多くの漫画家が居をかまえていて、そのせいで吉祥寺のパルコは、漫画製作用具の品ぞろえが異常に充実しているという噂を聞いたこともあります……『火花』の二人組の「エキセントリックさへのあこがれ」と、「それに徹して突きぬけきれない小市民性」。この両面を包みこめる街といったら、東京では吉祥寺がいちばんなのかもしれません。

重里 吉祥寺を歩いていると、すごくファッショナブルなカップルも見かけますが、ジャージに下駄履きみたいな男性に出くわしたりもしますからね。それから、吉祥寺という街にとっては、井の頭公園の存在も大きいと思います。この小説でも、あのちょっと雑然とした、でも木々と池が楽しめる公園の雰囲気をうまく使っていますね。

 この二人組は、夢はあるものの金はない。しかも地方出身者です。住民のキャラクターが均一化された懐の狭い街に暮らしたら、居心地が悪くて仕方ないでしょう。

助川 私は学生時代、演技の指導をする塾に通っていました。そこの先生が「俺の若いころは食べるものにも事欠くほど金がなかった。でもなぜか飲む金だけはあって、毎晩、仲間といっしょに酒場にくり出してた。あの金はどうやって捻出してたんだろう?」と言っていました。『火花』の二人組も、本当に金がないくせによく飲みに行っていますよね。この感じは、吉祥寺が舞台でないとリアリティーが出ないと思います。信じられないような値段で飲める店が吉祥寺にはありますから(笑)。

重里 深夜、あるいは夜明け間近に街をうろつくのにも似合う街ですね。眠くなれば、公園で休めばいいわけだし。

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