平成文学総括対談|第3回 多様に深化する「私小説」|重里徹也・助川幸逸郎

「内向の世代」の厚み

 

助川幸逸郎 平成時代は私小説についてもさまざまな試みがありました。

重里さんは黒井千次、小川国夫といったところを、ぜひ平成の私小説を論じるなかで取りあげたいとおっしゃっておられますが、この二人は昭和のころにすでに一家をなしたベテランでした。どうしてこの二人に着目なさるのでしょうか?

重里徹也 二人とも持続的に読みごたえのある作品を書き続けてきました。小川は二〇〇八年(平成二十年)に死去しましたが、黒井は二〇一八年にも『流砂』という新作を出して、これも興味深い作品でした。

二人とも、自己模倣を避けて、自身の作品世界を深めていった印象があります。誠実に創作に取り組んでいる作家といえばいいでしょうか。こういった作家たちが書き続けていることが、日本文学を底の方からしっかり支えている気がします。

助川 日本の私小説は日本近代文学の王道だと言われますが、高度経済成長期に入って表舞台に出てきた庄野潤三とか小島信夫とか島尾敏雄あたりから――「第三の新人以降」といえるのかもしれませんが――、私小説は私小説でも、それまでのものとは趣がちがってきた。単に作者の身辺の出来事が語られるのでなく、「日本とアメリカとの関係」みたいな大きな主題が、作者とおぼしき人物の日常を通して浮かびあがる。そういう私小説が書かれるようになりました。

『死の棘』でいうと「戦前と戦後」、あるいは「本土と奄美」とか。葛西善三とかの、身辺のチマチマしたことを個人的なこだわりで書いている私小説と、今あげたような私小説はまったく異質です。そして小川国夫や黒井千次は、第三の新人以降の「背後に大きな主題を隠した私小説」の発展型とはいえないですか?

重里 なるほど。小川国夫を「内向の世代」に入れてもいいかどうか、議論があるかもしれません。小川自身は「自分は内向の世代です」と話していました。それに従って、「内向の世代」に小川を入れると、古井由吉と黒井千次を筆頭に、随分と厚みが増すのを感じます。

助川 内向の世代の「内向」というのは、たんに自分の内面を描く、ということではなく、政治的・社会的にも大きな問題を、「等身大の自分」というフィルターを通して書く、という意味だったと思うんです。要するに、埴谷雄高みたいに、大問題を大上段に構えて語るというのはもはや時代的にできない。そうした状況に誠実に向きあって、大きな問題を自分の身の丈にあったサイズに切りとって作品にする。単純化すると、それが内向の世代のやり方だったといえる気がします。

重里 黒井でいえば、「社会のあり方を問う」とか「社会変革」でしょうか。小川国夫の場合だと「神の存在」「信仰のあり方」ですね。そういう問題に、大上段の言葉を使わないで迫っていく。にじり寄っていく。試行錯誤をくり返しながら、日常から少しずつ核心に向かっていく。

助川 たとえば最近の作家だと、西村賢太が、伝統的な私小説作家といわれていると思うんです。たしかにいっけんそう感じさせるところもあるのですが、「西村は、昔ながらの私小説作家じゃないな」というのが実感です。芥川賞受賞作『苦役列車』が映画化されたとき、西村は監督に無茶苦茶文句を言ったんです。「この主人公は、田舎から出てきた青年ではなく、ずっと東京近郊で育っているのに、その点をぜんぜんわかっていない」って。

先に触れた葛西善三にしても、西村が尊敬して研究している藤澤清造にしても、典型的な私小説作家って、「田舎から野心を抱いて上京して、何ものにもなれずに苦しんでいる人」なんです。

それで、文体なんかも古めかしいことばを使って、いかにも「古風な私小説のリバイバル」を思わせるところがあるけれども、たとえば女性に接近したときに「体臭が不潔だ」とか、やたらと匂いにこだわる。高度経済成長以降の都市部の、しかも比較的裕福な家に育った人だから、カモフラージュされていない「剥き出しの匂い」が苦手なのではないか、と私なんかは思ってしまいます。

葛西善三なんかの「野心を抱いて都会に出てきた地方出身の若者が、志を遂げられずにもがく」というのは、男女を問わず近代以降の日本でくり返されてきたドラマだと思うんです。大望を抱いて故郷を出てきたけれど、なかなか小説家として成功できない、あるいは女優になれない、実業家としてビッグになれない……、そういう悩みを抱えた層が近代日本には一定数いて、その人びとの共感に、日本の私小説は支えられていたのかなという気がするんです。その点を考えると、西村賢太は「王道私小説作家」とは言えない気がします。

重里 西村賢太の初期作品には、大きなブラックホールみたいなものがありますね。

助川 というのは?

重里 お父さんの性犯罪です。その問題と正面から向きあうことを通して、西村さんは作品世界を深めていくのかな、と考えていました。

助川 西村さんの学歴は「中卒」なのですが、彼の世代に東京近郊に生まれた人としては相当異例です。実は私は、西村さんと同じ年に生まれ、中学時代は西村さんと同じ市内に住んでいました。だからわかるのですが、西村さんが高校へ行かなかったのは特殊なケースです。どんなに勉強が出来なくても、どんなに親が貧乏でも、いろいろなアシストや抜け道があって、私が住んでいた市にいた私と同期の中学三年生は、ほとんど高校に入学していたと思います。
西村さんが、「高校を卒業して、そのあと専門学校か大学に行く」というもっとも一般的なルートを歩めなくなった成り行きには、間違いなくお父さんが犯罪者になった影響があります。でも西村さんは、自分がアウトローになった原因がお父さんだということを、あまりちゃんと書かないですよね。現状の自分を書くだけで。

ところで、西村賢太も典型的な私小説作家とは言えないですが、それとは全然違った意味で、佐伯一麦なんかも古いタイプの私小説作家と異なる部分があります。そもそも佐伯さんは、田舎暮らしをして、都会に出てこないんですよね。

重里 仙台にいますよね。仙台は「田舎」というわけではないかもしれませんが。

助川 『渡良瀬』なんかでは、北関東が舞台になっています。

重里 ノルウェーに行く話もありますね。

助川 とにかく「地方に生まれた青年が、上京して何者かになろうとしてもがく」という構図から佐伯さんは外れている。私はこのごろつくづく思うのですが、東京ではなく地方を舞台にしたほうが、今の平成日本が抱えている問題を書きやすいように思うんです。

 

地方で暮らすということ

 

重里 今日問題にしている「自分の身体感覚に刻まれたものを、等身大の人物に託して描く」タイプの作家は、地方のほうが書くべきものをとらえやすいのかもしれません。

それから、現代の日本が抱えているいろいろな問題が、地方のほうが都会より見えやすいということもあるでしょうね。もちろん沖縄に行けば、よりいっそうはっきり見えてくるでしょう。

助川 私はいま、岐阜女子大学というところで教員をやっているので、毎週、横浜の自宅と岐阜を往復しています。

岐阜には柳ケ瀬という、演歌なんかにも歌われた有名な盛り場があるのですが、ここは岐阜駅からすこし離れたところにあって、けっこうさびれている。

岐阜の高島屋も、柳ケ瀬の近くにありますから、岐阜の中心街は、もともとは駅周辺ではなかったわけです。ところが今は、岐阜駅の駅ビルに入ってる飲食店なんかが市内でいちばんにぎわっている。で、駅ビルのそういうお店というのは、牛丼の吉野家とか長崎ちゃんぽんのリンガーハットとか、全国チェーンのお店が多いんです。

重里 スタバはありますか?

助川 スタバも入ってます。あとミスタードーナツとか。サイゼリアもあって、いつも高校生で溢れかえっています。

ですから岐阜に行くと、今の状況というのがありありとわかる。地元で長年やってるお店が衰退していって、全国チェーンばっかりが繁盛している、みたいな。

重里 東京で暮らしていても、私たちは同じ事情に直面しているはずなのだけれど、見えにくくなっている部分がある。地方だと、そこがはっきりしてくるのですね。

助川 そうなんです。岐阜の風景を描くと、産業構造の変化だとか人口構成のゆがみだとか、現代日本の問題が、東京を例にとったときよりしっかり語れる感じがします。

重里 地方にいたほうが実感できるということなら、原発がはらむ問題はまさしくそうだし、安全保障や日米関係についても、沖縄とか、本土でも米軍基地のある街に住んでいれば、まざまざと直面することになるでしょう。東京の人間も同じ問題を共有しているはずなのですが、見えていないか、見ないふりをしているか。地方に身を置くと切実に感じる問題が、身にしみてこないのですね。

助川 この対談の一回目にもお話しましたが、平成後期になって、良きにつけ悪しきにつけ、多くの人が「自分ひとりの力でやれること」の限界をつよく意識し始めています。そうした状況では、「代官山のイタリアンレストランにポルシェで乗りつける」みたいなシーンより、じぶんの身のまわりの風景を通して見えてくるものを描くほうが、共感をあつめやすいのではないでしょうか。

バブルのころに、平均的な日本人が「自分ひとりの力でやれる」と感じる範囲が、飛躍的に増大しました。

私が子どもだった一九七〇年代には、今は「シャンメリー」という名前で売っているノンアルコール炭酸飲料が「シャンパン」という触れこみで売られていて、みんなそれをほんとの「シャンパン」だと信じていたわけです。それが八〇年代後半には、ヴーヴクリコなんかを庶民が呑むようになったのですから、日本人の自己イメージが劇的に変わったのも当然です。

バブルのころには、井上ひさしの『吉里吉里人』とか小林恭二の『ゼウスガーデン衰亡史』とか、地方が分離独立したり、個人がつくった小世界を席巻したり、「小さな点がふくらんでいって日本を揺るがす話」が書かれ、多くの読者を得ました。「自分ひとりの力でやれる範囲」を、読者が相当ひろく見つもっていたからこそ、そういう話にもリアリティーを感じたんだと思うんです。

でも、現在の状況では、小さな点を小さな点のまま描くほうが支持されやすいのでしょう。

重里 小川国夫の最後の小説は『弱い神』という長編でした。とても厚い本で、枕にできそうなぐらいの重みがあります。

この作品では、歴史に対するまなざしがはっきり打ち出されています。自分の世代、父の世代、祖父の世代、この三代にわたる大井川流域の歴史を描くのだという意識が伝わってくる。ただ、その歴史を書こうとするときに、しっかり手ごたえのあるものを通して書いていこうとするのですね、上から眺めるのではなく。

助川 なるほど。

重里 黒井千次の場合だと、戦後の政治運動を何度も反芻して描いていく。けれども、それを大げさな身振りで扱うのではなく、手さぐりで、自分の感覚を大事にしながら追いもとめていく。先に触れた最新作の『流砂』は、思想検事としての父親のありかたを通して、日本の近代史と現代の日本を問いかけるような作品になっています。

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