これからの英語教育の話を続けよう|第5回 ICT技術の発達と英語教育|仲潔

 

ICT技術の発達から、これからの英語教育について考える

ここまで読み進めてきた方は、「結局、自動翻訳は使える?使えない?」と思っているかもしれません。実は、どちらにもとれるように書きました。「使えない」と判断する根拠と、「より使える」ようにするための根拠が共通していると考えるからです。それは、日英語の構造の異同と、その背景にある発想法・視点への理解・習熟です。

私も英語教育分野の専門家の端くれです。学生・院生時代には、嫌々ながらも「英語の勉強」に時間を費やしました。そのため、翻訳家・越前さんの批判も理解できます。しかしながら、コミュニケーションにおける発話の「意味」は、言語情報だけから形成されるわけではありません。『これからの英語教育の話をしよう』(ひつじ書房)でも述べましたが、たとえ「正しい発音」、「正しい文法」を身につけ、適切な場面・状況で、適切に発話をしても、コミュニケーションが成立するかどうかは誰にも保証できないのです(Gee, James Paul (1996, 5th edition) Social Linguistics and Literacies: Ideology in Discourses. London: Routledge.)。多くの人は、文意が伝わるのであれば、英語の「カタチ」にこだわらないと思います。こだわっているのは、英語の専門家だけなのかもしれません。

上記の「6つのコツ」や「中間日本語」を活用することで、Google翻訳が多少なりとも「改善」されるのであれば、「英語力」を鍛えるよりも効率よく「英語で」伝えたい内容を伝えられる、と考える方がいると思います。私たちは、「良いか悪いか」とか「正しいか正しくないか」ではなく、「楽かどうか」という原理で行動する衝動を抑えることは難しいでしょう。電卓が出来て以降、わざわざ紙と鉛筆で筆算をする人は、もはやほとんどいないのではないでしょうか?

だからといって、計算問題を算数や数学で扱わなくなったかと言えば、そうではありません。計算の「結果」のみを重視するのであれば、計算機に頼ればいいでしょうが、算数や数学では計算の「プロセス」、さらにはそこで培われる思考力を重視しているためでしょう。英語も同じ面があると考えてよいのではないでしょうか? 日本語と英語の構造をしっかりと理解できるようにすることは、英語を話せるようになるかどうかとは別に、しっかりと残っていくべき点ではないかと思います。

昨今の日本の英語教育では、「英語は英語で」という風潮が強いです。これに対しては、数多くの研究者が批判してきました。久保田竜子さんに言わせれば、「ガラパゴス的」な英語教育観です(「オリンピックと英語教育:反グローバル的改革」、『週刊 金曜日』975号、p.63)。ICT技術の発達により、このような「英語は英語で」という学習・授業のあり方は、ますます時代錯誤になってしまうのではないでしょうか。というのも、「英語を英語で」学んでいる限り、英語と日本語の異同に気づきにくいでしょうし、決まり文句や直訳的なものであれば自動翻訳で事足りてしまうことが多いからです。つまり、「英語を英語で」方式では、自動翻訳でカバーできる域をクリアできない可能性があるということです。

自動翻訳は、ある程度しか使えません。その判断は、日英語の構造上の異同の知識によります。他方で、「通じる」という点では、自動翻訳はそこそこ有用でしょう。それを「より使える」ようにするために必要なのもまた、日英語の構造上の異同とその背景にある発想法・視点の知識であると考えます。

これは、文法訳読式への回帰を示唆しているわけではありません。文法訳読式では、えてして文法事項の知識詰込み型教育に陥りがちです。そうではなく、日本語と英語との背景にある発想法の違いにも目を向ける必要があると考えています。先に「中間日本語」や「翻訳しやすい日本語」を取り上げましたが、これは日本語の「ネイティブ・スピーカー」だからといって容易にできるものではありません。三森さんによれば、欧米では「言語技術」の教育を通じて身につける能力です。つまり、中間日本語を生み出すには、母語と学習言語とを対照的に分析し理解できる力の育成が必要なのです。

また、英語の構造を理解する中で、日本語との対照を通じた「理解のプロセス」のようなものを通ります。その過程で、思考力や論理力といった、直接的な「英語力」を超えた力の育成が期待できるのではないでしょうか。実はこのことは、私の独りよがりではなく、『学習指導要領』にも「外国語によるコミュニケーションにおける見方・考え方を働かせ」とか「外国語の背景にある文化に対する理解を深め」とあります。どうも目先の「コミュニケーション能力」というもっともらしい言葉で、このような部分が見えにくくなってしまっているのではないでしょうか。平成20年度版の学習指導要領においては、よりはっきりと「外国語を通じて、言語や文化に対する理解を深め」と明記されています。日英語の発想法を授業に取り入れることは、何も突拍子のないことではないのです。「古さ」を感じる人もいるかもしれませんが、ICT技術の発展は英語教育の原点回帰を促すことになるかもしれません。

今回は、「自動翻訳ありき」についても、少しですが考えました。教室は、価値観や考え方の異なる学習者たちが一堂に会して授業を受ける場です。学習者たちは、対話を通じて他者の価値観や考え方を知る契機を得ることができます。それにより、自らの価値観・考え方を広げたり深めたり、新たな気づきを得ることが期待できます。私はこれまで、学習者が型にはまった表現を用いて見かけ上の「自己表現」をしたり、空気を読んで英語教員の求める発話を学習者が発話したりする授業を幾度となく見てきました。学習者が何かを身につけることよりも「授業の成立」そのものが目的化されているかのような…(拙稿「授業を演劇化する『教える技術』」、佐藤慎司・佐伯胖 編著『かかわることば: 参加し対話する教育・研究へのいざない』所蔵)。「自動翻訳ありき」で、学習者たちが本当に自分の言いたいことを英語にして、他者と交流をすることで多様なものの見方を知る。そこで生成された自動翻訳の英文は、上述の日英語の発想法・視点の異同という観点からは、格好の生きた題材となるはずです。そういう授業のあり方も、これからはあり得るかもしれません。「ことばを使う」行為の本来的な目的は、他者との対話のはずです。

英語を身につけられるかどうかは、各個人の努力の結果に負うところが多いでしょう。しかしながら、英語の授業で得た「ものの見方」や「考える力」などは、仮に将来的に英語を用いない人生を歩んでも、一生涯にわたって影響を与える可能性があります。上述した算数の計算問題と同じようなものです。

ゲーテの言葉に「外国語を知らない者は、言葉のすばらしさを知らない」という有名なものがあります。これには「なぜなら言葉とは、ただ使うだけでなく学んでこそ、奥深さが解るからだ」という続きがあります。「とりあえず通じる英語」とは、とりあえず「使える」英語なわけですが、それだけでとどまっては、外国語学習から得られる「すばらしさ」を享受できないというわけです。なんてことはない、日英語の構造上の異同やその背景にある発想法・視点に気づくこと。これに加え、ことばを使うことを通じて他者の考え方から学び、自らの視野を広げること。昔から、英語教育で求められてきたことです。「表面的な」コミュニケーションが重視される英語教育にあって「忘れ物」みたいなものかもしれません。先の翻訳家・越前さんは「より高い次元の英語」を身につけるためには、「単なる会話主体の英語学習から卒業し」、「構文解析のような地道で地味な勉強を、ある期間徹底してやる必要がある」(同書、p.218)と述べています。少なくとも最終的には、日英語の発想法の異同への理解は「使える英語」にまで影響を与えるのです。

かつて物理学者・アインシュタインは「学校で学んだことをすべて忘れてしまっても残っているもの、それが教育である」と述べました。目先の「とりあえず通じる英語力」は、英語を将来的に使わない人にとっては、もはや「教育」ではないことになってしまいかねません。日英語の構造の異同やその背景にある発想法を知ること、さらには対話を通じて視野を広げること。これらはともに学習者の「多様なものの見方」に繋がります。ICT技術の革新が「言葉の壁」を解決してくれそうな今日この頃、今一度、外国語学習の基本に戻ることが大切なのではないかと思います。

 

 

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