1996年12月1日 原稿の草稿

出版ニュースの清田さんから依頼をいただいた原稿の草稿が、一応できた。まだ直すべきところがあるが、とりあえずということで、書いてみた。あくまで草稿であり、たぶん、まだまだ直すことになろう。締め切りは明後日なので、ご意見をいただければ幸いである。


1996年12月2日 文部省の出版助成金申請書類提出


本日、文部省に出版助成金申請書類提出した。今回は1つだけであった。昨年は3つ提出し、言語学関係でない書籍の助成をうけることになった。それも2冊である。ありがたいことである。『王の舞の民俗学的研究』(橋本裕之)と『江戸和学考』(鈴木淳)の2冊である。『江戸』の方は300円以上の助成をうけることになっている。この金額は、私が前の会社にいた時も含めて私が担当したものの中では一番大きい額である。金額がどのようにして決まるのかは定かではない。もっとコストがかかるはずの英文だけの書籍の時も160万円(これは少ない)であったのだから、不思議な気がする。今回の『江戸』は申請したときよりもページ数が大幅に増えているのであるが、助成金で何とかなるだろうと見ている。
内容はいわゆる国学者の様々なやりとりから国学自体の枠組みを探るといった内容になっている。鈴木先生は、旧来の国学研究とは違った視点を提出しようとしており、それが「和学」という呼び方に出てきている。また、「国学」は、国語学・国文学の研究の母胎であり、近代から近代以降についても反省すべき重要な対象であることは間違いがない。また、民俗学とも関わりもある。「国学」に出版社として関心を持つゆえんである。

このあとシーボルトセミナーに出席した。はじめてゆりかもめに乗った。インターネット出版のこととPDFつまりアクロバットの紹介であった。私には前者はそれほど面白くはなく、インターネットマガジンが日本放送と実験をしているということの紹介の中で実際に行っているラジオの放送が流れたが、思ったのはAMラジオであるということだ。今、インターネットを経験している人はたぶんAM放送は聞かないであろう。話し方、流し方、おしゃべりの仕方が古いのである。しかも、現在は同時アクセスできる人数が限られており、次の実験でやっと3000人が同時に聞けるようになるそうである。これなら、やめた方がましではないだろうか。インターネットがどうして旧来のメディアにすり寄り、なおかつ旧来のメディアを越えられないことをするのであろうか?ブロードキャスティングにすり寄らないでほしい。エキサイティングではないな、それでは。また、ブロードキャストにすり寄ることはかえって、可能性をせばめることになるのではないか。最近、大活躍の社会学者吉見俊哉氏などが書いた電話の本があるが、それによると電話自体今のように一対一のコミュニケーションだけでなく、当初は様々な可能性があったということだ。それがいつの間にか現在のような使い方に収れんしてきたということだ。この危険性はやはりあるのではないか。

PDFのセミナーは、満員大盛況で、期待が非常に高まっているのが感じられた。内容は主に読売新聞のアトランタオリンピック速報についてのものだった。充実しており、私も、質問の時に手を挙げた。実際の発売時期と外字・作字の問題についてだった。アクロバットの製品版は春過ぎだということであった。今度はマックとWINDOWS版は同時に出すということだ。しかし、春過ぎでは今やっている紀要に間に合わない。困ったものだ。
作字については、回答からははっきりとは分からなかった。組み込む文字にライセンスが発生しうるものは組み込めないと言うことだった。確かにモリサワの細明を組み込むのは問題が出るだろう。しかし、自前で作った文字に関してはどうなのだろう。細かい点に付いてはいずれにしても実験は欠かせないだろう。


1996年12月3日 インターネットによる教育革命シンポジウム


博多で開かれている上記のシンポに参加している。私はただ、話を聞いているだけなのだが、なかなか面白い。会場で紹介されたURLは、近くリンクを拡大して紹介する予定である。ただ、どう変えるのか、変わるのかといったことについては、まだまだイメージが貧弱であるという印象はどうしてもぬぐい去れない。将来の世界のイメージを少しでも掴みたいというのが来た理由の一つであったが、やはり、自分の実践の中から考えるしかないのであろう。インターネットコンパニヨンの著者が若くて美人なのには驚いた。彼女の英語は非常にわかりやすかった。

1996年12月5日 九州大学生協文系店とリブロ天神


九州大学生協書籍部からの注文は旧帝大系の中では、一番少ない。東大、東北大学、北海道大学、名古屋大学の生協書籍部からは、結構注文が定期的に来るのだが、ほとんど来ないのである。ある先生の話では、教科書でも何でも、学生がきちんとかわないのだそうだ。そんなことでは困るぞ、旧帝大! くろしおさんと東京大学生協の駒場店で、言語ブックフェアを行った。その流れでくろしおの岡野さんは、東京外国語大学の生協でもフェアの話を決めて来られた。それでは私もと訪問したのだが、うまく行かなかった。 学生が買わないのと面積がそれほど広くないことから、だめだったのであろうか?もちろん、あきらめたわけではない。

シンポジウムの帰りにリブロ天神にもお邪魔した。リブロらしい、きれいないい感じの本屋さんであった。店の女性に人文書の担当の方を教えてもらい、泉さんに会った。注文書を送らせていただくことに、なった。うまくいくといいのだが。リブロは地方小が、直接入れているところなので、融通も利くであろう。せめての砦としてきちんと営業したい。

今回は、博多ビューホテルというパソコン通信のできるホテルを選んだので、宿泊代が割高だった。おかげで、食事の方を犠牲にせざるを得なかった。

1996年12月7日 五島福江にて


福岡に寄ったついでに、五島列島の福江に寄った。専務である私の妻の姉が、おり、現在DTPを手伝ってもらっている。もともとは、『ことばは世界とどうかかわるか』の再校の赤字がひどかったので、どうしようもなくなって手伝ってもらうことにし、マックとディスプレイを送ってやってもらっているのである。

今までは直しをやってもらうだけであったが、本づくりの最初からもできるようになってもらうため、DTPの出張講習のために、寄ったのだ。博多からエアニッポンで30分、空に上がったと思ったら、もう下降を始めた。一日いろいろと教えて、どうにか割り付けの基礎は教えたので、今後は実践で覚えてもらうことになるだろう。

この時期はどうしても寒いようだ。今度は暖かくなってから、来たい。

ちなみに同業者の方で、DTPの直しを委託したい人がいるなら、房主まで連絡をいただければ、ひつじがあいている時は手配できることもあるので、よろしく。


1996年12月10日 マックルーラー先生来社


昨年の冬にひつじ書房で刊行した本の著者であるマックルーラーさんが、小社を訪問してくれた。コーネル大学で、数学を学んだ後、日本に英語を教えに滞在した後、コーネルの言語学の大学院に入り、ホイットマン先生の元で、学位を取得したそうである。その学位論文をひつじで刊行したのである。現在つとめているイギリスのダーラム大学の交換留学生の面倒を見るため、東京、名古屋、大阪を訪問するということであった。来年の夏にはコーネルでLSAサマーインスティチュートの開催と日本語。韓国語学会もあるらしい。

英語による学位論文シリーズHOLDSは、残念ながら本年は刊行することができなかったが、来年は何冊か刊行したいものだ。


1996年12月11日 よければちょっと読んでくれませんか


津野さんが、『ちくま』12月号で、ひつじ書房のホームページを取り上げてくれた。好意的に取り上げてくれている。ありがたいことだ。他のもろもろの電子雑誌の紹介の中でだ。自己主張がありながら、おしつけがましくない。「よければちょっと読んでくれませんか」といった感じであるという。このことば気に入りました。

1996年12月12日 日本語の文字と組版を考える会


上記の集まりがあり。主催は、印刷関係および組版デザイナー関係の団体のようであった。鈴木一誌(すずき・ひとし)さんの講演があった。講演の内容自体は非常に興味深いもので、データの受け渡しから組み方までの基礎となるマニュアルを作ろうという内容だった。組版のルール作りを鈴木さんはページネーションと呼び、具体的な指摘は非常にためになった。

しかしとあえて言おう。団体がそもそも印刷関係・写植関係が多いという雰囲気だったからかもしれない。それが私になじめない気持ちを起こさせているのかもしれない。私がページ組エクステンション(クオークやページメーカーなどのDTPソフトの文字詰めなどの設定をよりきめ細かくできるようにしたもの)を使っていないせいでもあるのだが、詰め打ちが基底の共通認識になっているといった会自体のニュアンスにはついていくことが出来なかった。これはデザイナーと編集者の越えられない溝といってしまえばそれまでだが、本を読みやすくするという視点よりも、見栄えを良くするということをより重視するという方向への意識が基底にあると見受けた。

私はかねてからの疑問、なぜ活版の時代には許容されていた文字の間隔の調整(欧文などが入って、全角では、行末に足りなくなってしまった場合に、文字の間をあけること)が、あまり印象に残らないのに、電算・DTP以降は、文字の間隔に意識が集中するようになったのか、ということについて考えがあったら教えてほしいと申し上げたのだが、はかばかしい応答がなかった。これは非常に重要な問題であるはず。このことを考えていないで組版原論などということがいえるのだろうか?

電算・DTPの組版の場合、特に横組みの場合だが、読点のあとのあきが書籍編集者からみて、おかしいと感じることが多い。約物(「」()など)のあきも気になる時もある。私は基本的に気にしないことにしているのだが、やはりバランスがおかしいところがある。私は文字のつまり具合よりも、そういったところの方が気になるのだが。活版の場合、活字が全角であるので、行末の字送りの精度は犠牲にしていたということになろう。

飛躍した結論になるが、書籍編集者による組版の研究とその立場からの提言がやはり必要だろう。文字の組み方を専業とする人というとどうしてもデザイナー・レイアウターということになってしまい、その方面の声が大きくなりがちである。実際にエクステンションにしても、デザイナー志向のものしかでていないことをみても分かる。

これは必要不可欠なことかもしれない。(書籍編集者による)日本語DTP組版研究会を作るべきかと思っている。


1996年12月17日 悲しき出版経営


昨日はジャストシステムの「講演会」および「忘年会」に出席した。津野さんも来られていて、先日の『ちくま』のお礼を申し上げた。講演をもなさった紀田順一郎さんには初めてであったが、ご挨拶申し上げた。紀田さんも助けているマツノ書店の『6時閉店』がバイブルだと申し上げた。学術専門書を出すものにとっての必読書というべきものであるし、この房主の日誌がそもそもマツノ書店の宣伝雑誌『火車通信』をまねたものである。ぜひマツノ書店の社長に会ったらいいと言われた。本当に会ってみたいものだ。

私は、その席で劇作家の方に(本人の了解を取っていないのでここでは名前を伏す)聞いた話にショックを受けた。その劇団は、国から助成金を数千万円もらっているそうなのである。これは別に悪いことではない。ただ、ちょっと悔しい。我々出版社は、文部省の刊行助成金の恩恵を受けているのではあるが、1冊150万くらいが普通である。年に2冊で、300万程度のものだ。それもこれは印刷の経費の一部を助成してくれるに過ぎない。つまり、出しても、そのリスクの一部分を肩代わりしてくれるにすぎず、助かることは助かるにしろ、その本が売れなければ、結局救いにならない。また、極端な話、決算時期に売れずに残っていて、助成をもらったとすると、助成額がまるまる税金で取り返されてしまう税法上はシステムなのである。目の前をすっと通り過ぎて行くだけ。助成金は、結局、そこそこ売れる見込みのある本の場合しか、出版社にとって助けにならないのだ。しかも、われわれの年間の売り上げは、数千万に満たないのである。助成額に満たないとは。

売り上げが少ないというところで、先頃、1月末の支払いが不可能であることが判明した。今年の後期の売り上げが少なすぎて、後期に印刷所に組んでもらって作った本の原価が、短期的には回収できないので、資金が不足することが明確になったのである。ということで、本日は、国民金融公庫に借金の申し込みに行って来た。しかし、担保なくして借金なしの法則通りというべきか、保証人を求められてしまった。今回も父に保証人になってもらうことをお願いした。今まできちんと返しているので、問題はないだろうが、この年になっても親の臑をかじっているとしか言いようがない。万が一、借りれなければ、他の方法(印刷所に泣きついて待ってもらうとか、著者にいっそう買い上げてもらうとか、非常に苦しい方法だ)を考えなければならない。

年度があければ、教科書や上の助成金、それから受注仕事の売り上げがあるので問題はないのだが、もういい加減、借金に頼るのはやめにしなければならない。年度末はいつも苦しいのである。昨年は、有限会社の資本金増加分を両親に借りて、その分でしのいだ。今後しばらくは、印刷所に出す仕事を減らし、社内でDTPをする比率を増やさなければならない。ここのところは、売れなくても内容のよい本を採算を取りやすくするために、DTPでだすということだったが、売れる本も、DTPで製作して外注費を押さえて、利益をだすという方向に若干、変更すべきと言う教訓かもしれない。少なくとも数百万のお金が、年度末まで、きちんと残る健全な状態に、なるまでは。

MacPeople12月15日号で、ネチケット紹介されたそうだ。なかなかよい紹介であったと聞いている。まことにありがたいことである。

1996年12月20日 ばかげた綱紀粛正 行為の意味論を


公務員が、出版物に寄稿して原稿料をもらうのは禁止だそうである。なんともはや。一方、賄賂を渡すために作られている雑誌というものも存在しているのかもしれないと思い当たった。しかし、このボーダーラインはどう引くのだろう。私は、線は引くべきだと思う。こういうことを聞く度に、「行為の意味論」というものが書かれているべきだと実感する。セクハラも同様で、今までは解釈は上の人間がすることになっていたのが、当然、被害を受けた人間の解釈が優位になってくる。行為の評価は一元的にできないことなのに、今までは無理矢理、権力側に解釈の権利があった。これからは、解釈のデモクラシーあるいはアナーキーの状態になる。さらに「行為の解釈学」「行為の意味論」が必要となる。『ことばは世界とどうかかわるか』はそのための一助であろう。しかし、まだまだ道のりは遠い。

綱紀粛正の件は、無料の原稿ならいいということかな。ほとんど無料かもしれないですね。言語関係だと、ひっかかるとすると、検定教科書のようなものや辞書の編纂のようなものが関係するのかもしれません。

1996年12月29日 恐い話 エンカルタ対広辞苑

『現代用語の用語の基礎知識』と『イミダス』、『知恵蔵』では、売り上げの順番は、すでにイミダス、知恵蔵、現代の順だということだ。不思議なことにすべて定価が同じで、新聞と同じで再販制の妙が発揮されているといえよう。これはその点では非難されても反論できないだろう。今でも圧倒的な資本力を持つ集英社が報奨金を書店に多く出すなどすれば、イミダスが圧勝するのは目に見えているだろう。資本力だけでなく、今回久しぶりに買ったが、おまけだけですでにイミダスが勝っていた。イミダスがインターネット対応のカタカナ語辞典であったのに対して、現代は、生活辞典であった。企画力もすでに敗北している。だから、再販制がなくなって書店が自由に定価を決められるようになれば、値引き用のバックマージンや報奨金などで差が付くと、勝負すら出来なくなる可能性が高いだろう。自由国民社は、その時、経営が成り立たなくなる可能性が高い。それが経営の柱だからだ。

さて、一つの書籍に依存しているという点ではたぶん、岩波も同様だ。広辞苑は、大丈夫なのだろうか。強力なライバルは? 漢字をひくということでは、他の敵とは一定のリードを保っていると言えるだろうが。

マイクロソフト社が来年『エンカルタ』というCD-ROMの百科事典を出すということだ。これは小学館のCD-ROM百科事典と平凡社のCD-ROM百科事典が、対抗することになろう。アメリカでの値段からすると『エンカルタ』は、かなり安い値段になると思われる。対抗上小学館などは値段を下げてくる可能性もある。また、『エンカルタ』に対抗する上で、武器になるのが、日本語の字引機能ではないだろうか、小学館は『大言泉』を出しているし、大日本国語辞典の次の版も進められている。ここらへんの資産を生かさないという方はないだろう。となるとCD-ROM百科事典に字引としての項目を入れてくることが予想される。つまり、百科事典と国語辞典の要素を兼ね備えたものが、『エンカルタ』に対する対抗上登場する可能性が高いということである。4800円とかの値段で。

さて、この時、広辞苑は生き延びれるのだろうか?

もっとも今まで一家に一冊だったものが、パソコンあたり1台となる可能性もあり、全体で規模が大きくなるという可能性もある。

1996年12月30日 今年の反省と来年のこと


これについては、日誌というかたちでなくて、声明文(?)のようにした。今年は十分に本が出せず、申し訳ないと思う。反省すべき点が多かったと言えます。反省すべき点は反省して、来年はいっそうしっかりした出版社になりたいと思っています。

結局、今日も事務所で仕事をしてしまった。

みなさまのおかげでここまで来れたということに、非常に感謝をしています。アクセス数も8100を越えました。

来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。



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