2025年6月17日(火)


オープンアクセスと共有化のプロセスと推しについて

出版学会で論文のオープンアクセスのことが議論されていましたが、そのことについて述べます。学会でも発言しましたが、会場には学術出版の方がいなかったのか、ワークショップが終わってからも、出版社の方から私の発言についてコメントをもらうということが皆無で、反応がなかったということもあって、この内容は文書にしておいた方がよいのではないかと思いまして、記します。

オープンアクセス出版といった場合に、ほとんど学術雑誌の出版に関してのことで、書籍の学術出版との関わりは、どこまで波及するのかは不明なところもあります。そもそも、即時オープンアクセスといっても内閣府の文言によると実際には電子学術雑誌における学術論文の出版のことだけをさしているのですが、一般にいう出版全体を指しているかのように情報が流れていることもあり、注意が必要です。そのこともいわれていません。出版学会では、パネラーの方で元編集者という自己紹介をされた方が、モノグラフもオープンアクセスにするのが望ましいという発言もされていましたので、潮流としてオープンアクセスにいく世の中の流れだという考え方が、無前提にあるようでもあるので、学術単行本や学術論文集も刊行している立場から、発言しておく必要もあるでしょう。くりかえしですが、書籍学術出版にも関わる出版社の側からの発言が全くないようですので、発言しておく必要があるでしょう。商業的な学術出版社の将来にも関わることでもあるので、その点でも必要でしょう。この文章は、メールマガジンに出したものですが、ウェブにも掲載します。この発言がそれになります。

オープンにするということでは、博士論文はすでに、原則としてリポジトリなどを使ってオープンにすること、公開することになっています。私の述べたいことは、オープンにするということも論の共有化、公開の場所で議論されるための1つの段階であって、オープンにすれば全てが解決するわけではないということを思っています。共有化のプロセスというものに注目する必要があると思います。共有化のプロセスということについてはほとんど議論がないように思います。研究者の全員ではないですが、良い内容のものを書けば、自然に共有されると考えている方が多いのではないでしょうか。

ひつじ書房では、博士論文が元になっている内容で出版したいということで提案をいただくことがあります。その際に、内容についてプレゼンテーションや説明をしていただくことがあります。博士論文執筆の過程で、すでに指導を受けているはずではありますが、内容について質問したり、こういう風にいった方がいいのではないですかとお尋ねすることがあります。時にそういう質問や指摘は初めてですといわれることがあります。質問する側としては、そんなに込み入った質問ではなく、当然の質問をしているので、どういう指導をされたのかと思うことがあります。私たちの質問が素朴でストレート過ぎるということなのか、場合によってはあるいは、指導教官は、本質的なことを指摘できないのか。いや、そうではなく、こちらで普通だと思っている質問が、とんちんかんな質問をしてしまっているのかもしれません。ただ、いろいろな質問があって、議論されるということは博士論文にとっても意味があることなのではないかと思います。大学の博士論文の査読の委員会の審査だけなく、出版社が関心を持つこと、その上で出版社のコメントにも意味があるのではないかということを申し上げたいということです。

出版を出版社に提案されて、内容を聞いて、なるほど面白いと思って、その研究を応援したいということで、出版に向かうわけです。提案される前にこちらから、お願いすることもあります。それは、現代的ないい方をすれば「推す」ということだと思います。推されたものが出版されるということになります。オープンな論文がたくさんある中で、どれかを選ぼうと思ったら、出版社が世に出そうと思ってかたちにしたものは、目にとまる可能性が高くなるのではないでしょうか。博士論文は、出版社から出されてやっと価値がでるというといい過ぎかも知れませんが、オープンなだけの論文に、時間をかけて読む価値があるかどうか分からないということがあると思います。検索でヒットしたり、読んだ誰かが勧めることで出会うこともあるでしょう。出版社から出ただけで、価値がある、あるいは価値が増すとはいえませんが、少なくとも出版社の編集者が、出す価値があると思った、手間を掛けて世に送り出す価値はあるという判断はしたということ。はずれもあるにしろ、読者が、お金を払って読む価値があると判断したということ。読む価値があると賭けたということです。「推す」ということも、これまで議論されていないように思います。

科研費をとって研究した研究は、オンライン学術誌に投稿した場合、採択された時に即座に無料で公開するということを内閣府が求めています。(付記しますと即時公開というのが、世界的なトレンドかと思っていましたが、日本以外はそうではないようです。)無料で公開するということですが、学術誌の側としては著者から投稿料をもらうことになります。日本国外ですとNatureなどは7000ドルといわれているということです。7000ドルというのは100万円をこえます。7000ドルは多いとしても数千ドルということはあるということです。無料で公開するということですので、学会誌は、購読者モデルから、著者投稿料制度(APC)にかわっていくといわれています。オープンアクセスということは、もともとが学会誌の購読料の高騰に対する批判からいわれたもので、それ自体は正当な批判の方向かと思いますが、著者投稿料制度(APC)が伴うことによるのであるのなら、それを正義というのは、おかしいでしょう。出版学会の際、午後のワークショップではなく、午前のセッションで、中西秀彦さん(中西印刷)がプレゼンしていました。その時のスライドでは、正義と書かれたオープンアクセスという大きな拳(こぶし)が、人を潰していて、潰されているところに出版と書かれています。その拳の図の左には「情報流通のかわりに対価を得る 出版」と書かれています。出版が対価を払って読むモデルが不正義ということなのでしょうか。ということは、対価を払うという、つまり、読者がお金を払って読む購読モデルが正義でないということと推測されますが、著者が投稿料を負担するのも対極的な出版の方法ですから、負担の経路は違うにしても経費は発生することになりますので、私はどちらか一方が正義でどちらかが不正義ということはないと思いますが、そのことの説明はないのでこの図で正義が何を意味しているのかは、正確にはわかりませんが、オープンアクセスという正義によって、潰されるものとして出版があるように見えます。出版ということばの意味が、日本と欧米では違うので、意図が不明ですが、潰されるべきものとして、あるいはゆくゆくは潰されるものとして出版が文字化されているということだと思います。何が正義かということ以前に、議論の際に正義ということばを使うのは、実務レベルではなく、議論を抽象的なレベルにしてしまう危険性があるので議論中のものには使わない方が良いと私は思います。

著者投稿料制度(APC)モデルは、著者投稿料の高騰化を呼びます。科研費をとる時に著者投稿料も含めて申請することになるでしょう。優秀な研究者はいつも十分な科研費を取得することができるという前提があるのかもしれませんが、科研費を取らないと研究もできないし、さらに投稿もできないということになります。潤沢な研究費がなければ、研究も発表もできないということが起こるのなら、これを正義とはとてもいえないでしょう。著者投稿料制度(APC)モデルと購読料モデルの、両方から取るというのではなく、ハイブリッドなあるいはグレーなモデルというのもあってもいいのではないかと思いますが、難しいのでしょうか。

オープンアクセスと「推し」ということに戻ります。研究の共有化のプロセスについてです。学史ということを考えますと何が重要であるか、何を議論するべきかということも、流れがあります。正しいことが行われて、それが善であるから、自然と共有されていくというような単純なものではないと思います。

たとえば、こういうことがありました。議論の共有がかならずしも上手くいくとは限らないということの事例です。社会学というものは、宗教から脱した普遍的で科学的なものであるという通説に対して、そうではないのではないか、社会学の創始者がそもそもある宗教の重要な地位にあり、その宗教を脱したと社会学ではされていますが、墓碑を見ると宗教の重要な地位のまま死んだということが分かるという内容です。もし、そうであるのなら、宗教から脱した普遍的で科学的な社会科学というものを考え直さないといけないということになります。このような問題提起をする議論を起こそうとした本を出しました。書評誌に書評も出ましたが、技術的なミスがあるということで書籍の意義から否定されました。もともとの問題提起に対する議論はありませんでした。技術的なミスは致命的な誤りだというのかもしれないですが、本質的な問いについては、なかったことにしないでもらいたいと思いました。「推し」て、出版まで行ったわけです。推しがいつも、共有化について成功するとは限らないということでもありますが、ネット上でオープンであるだけで、共有化が進むわけではないということがいえます。

オープンにして、ネットで生成AIに聞けば、学問業界で主流派であり、定説となる学説にもっぱら近い内容がさらに共有化される可能性が高いのではないでしょうか。異論、新説というのが起こりにくいのではないかという危険性があります。

購読料モデルから、著者投稿料制度(APC)モデルへの移行の中で欧米の大手の学術ジャーナル出版社は転換契約というのを大学図書館と進めているということです。購読料モデルで大学図書館が、購読料を払い、さらに著者投稿料制度(APC)モデルで、著者に負担するということだと二重払いになってしまうので、購読料を払っている大学は、その購読料を著者投稿料に転換するというやり方です。購読料の分でオープンアクセスになってよいではないかと思われるかもしれません。しかし、日本の理系の科学雑誌は、投稿料を払ってもらって、英文学術誌をこれまで作ってきたということですが、大手の学術ジャーナル出版社は購読料を払っているところには結果的に無料で投稿できることになります。そうなると投稿料を払って日本国内の学会誌に投稿する必要がなくなってしまうということになり、日本国内の学会誌は英文学会誌を作れなくなって来ているということです。これでは寡占化が進むのではないでしょうか。

日本の学会誌の存続が危うくなるということです。内閣府のオープンアクセス施策によって、結果的には学術的発表の場は欧米の学術ジャーナル出版社に移ってしまいかねないということです。学術的経済市場は、日本国の科研費をつかって、欧米の学術ジャーナル出版社に支払っていくという貿易赤字的な情況が加速化していくということです。内閣府の即時オープンアクセスの政策は、そのようなことを招きかねないということもできます。国内に国際ジャーナルを育てるという政策があってもよいのではないかと思います。著者投稿料制度(APC)モデルへの全面的移行は、弱小学会誌を潰しかねないですので、結果的にそちらへ誘導することになる内閣府の主導での是非について、議論がないようですが、議論はあった方がよいように思います。

日本では、出版というとコミックや文芸を出している大手出版社ということで、出版というのはそういうイメージですが、欧米では大手の学術ジャーナル出版社があり、publishというとそのような学術雑誌で公開することを意味する出版も含めたイメージなのだろうと思います。ただ、出版学会の時に反応が無かったように日本の学術出版をしている学術出版社は、かなりの少数であり、そもそもプレイヤーと思われていないのではないかと思います。

特に人文系の学術出版さらには人文系の学術にとって、学術的な議論のためにも出版社による「推し」、そして、著者自身の読んでもらいたいという自分で自分を推すということ、読者を獲得して、読者に応援されるということは重要であり、オープンであることはよいことであるにしろ、そういう三者の推しが重要であるということは文書にしておいた方がよいということで述べました。学術出版に関わることですし、知の共有に関わることです。

これとも関連して、『情報の科学と技術』75巻6号に私が学術出版について論文を書いています。出版して共有化へ推すことも、学術情報の共有化へのステップではないかということを控えめに書いています。一般公開は半年後ということです。


----------

執筆要綱・執筆要項こちらをご覧下さい。



「本の出し方」「学術書の刊行の仕方」「研究書」スタッフ募集について日誌の目次番外編 ホットケーキ巡礼の旅

日誌の目次へ
ホームページに戻る

ご意見、ご感想をお寄せ下さい。
房主
i-matumoto@hituzi.co.jp