聞いてくれるということを問い直したい 2022年後半の日誌

2022年7月から12月


聞いてくれるということを問い直したい 2022年後半の日誌

2022年の後半に書きました内容を分割した形ではなく続けていかに載せます。ひつじメール通信に書いたものですが、ほとんど書き直さないで掲示しています。全体のテーマとして表題にしました。


聞いてくれるということを問い直す

加藤哲夫さんの『市民の日本語』を2002年の9月に刊行しているので、そろそろ20年ということになります。『市民の日本語』は、日本社会が市民のものであるためには、対話して、市民がものごとを決めていけるようなことばが重要なのではないか、そのことが民主的な社会の基盤になるはずという思いで、発行人としては世に送り出しました。そういうことばがまだないのなら、そういうことば、市民の日本語を作らなければならないという願いがありました。加藤哲夫さんは、市民が世の中の主体になって、それまでの公的存在である政府や民間企業という産業、資本がわのあり方をこえて、市民が主体になり世の中を支えていくはずであったNPOの活動のリーダーといえる存在であったと思います。市民の日本語を作るというのは、言語の出版社であるひつじ書房自身のテーマでもありました。

2002年に『市民の日本語』を出したというわけですが、日本社会は、ものごとを対話して議論して決定していくことのできる社会へ進んだのでしょうか。どうもあまり前進した印象は持てないでいます。むしろ、後退しているのではないでしょうか。このあたりのことは、『市民の日本語へ』(ひつじ書房 2015)の中で三上直之先生が、「市民意識の変容とミニパブリックス」の中で世の中に問題があった場合に行動して変えていく、ということを志向する人の数が、減っているというアンケート結果を示しています。(三上先生は『気候民主主義――次世代の政治の動かし方』(岩波書店 2022)という本をつい最近出されました。気候について市民が話し合い、参加して決めていく方法を探るポジティブな見方の本です。)また、コロナ禍の中での専門家とジャーナリズムと政府の政策を批判の言論のやり取りを見ても、それぞれが言い合っているばかりで、世の中的に対話できていないということを思います。

今、言語研究の一つのテーマとして、レトリック・弁論法ということが重要ではないか、と思っています。それは、真実があるから、それを伝えることができるというのは楽観的すぎるように思うからです。真実があるから、伝わるということではなく、どう伝えるか、どのように伝わるかが重要なのではないか、ということを思いまして、レトリック・弁論法についても考えたいと思って、アリストテレスの『弁論術』の英語版を翻訳勉強会ということで社内のメンバープラス友人で読んでいます。Oxford World's Classicsのペーパーバック版です。もともと、シカゴマニュアルとかの、編集に必要な手法を知りたいと思って行っている英語でマニュアルを読むというのが翻訳勉強会の趣旨ですが、それの副次的な文献としてこの本を選んで毎週6行くらいの英文をそれぞれに割り振って、順番に訳して読んでいます。この本は、前半が長い解説で、後半からアリストテレスの『弁論術』の翻訳で、まだ、解説の部分を読んでいる段階です。

その解説の中に、レトリックに重要なことは3つの要素しかないと言って、それは話し手、話す内容、聴衆の3つだと言い、この中でも聴衆が一番重要だとしています。「スピーチのゴールを決めるのは聴衆である」とのこと。そうだとすると聴衆に聞いてもらえないとダメと言うことですので、まず聞いてもらえるような話し方、聞いてもらえる内容を話すということがまずは重要ということになって、聴衆の考え方を変えたいと思ったとして、聴衆が今思っていることをひっくり返して、違う考えに変えようとしていたとしても、聞いてもらうところから始めないとそもそも、スピーチがなりたたないということになります。内容が第一ではなく、聴衆がキーだというのです。説得でなく、対話であったり、議論であってもまず聞いてもらえるところからはじめないとそもそもはじまらないということです。

そうすると聞いてほしい人が聞いてくれなかったら、どうするのか。そもそも、対話がはじまらないということになります。聞いてくれない場合。音は聞いているようですが、議論は平行線で、聞いていないという場合は少なくないのではないでしょうか。それぞれが、違うことを話している場合。こっちは、Aについて話しているのに、相手はBについて話している。AがBについて批判しているとして、Bはそのことを受け止めない。Bは、Aが主張していることよりも、別のことの方に関心があって、Aが整然と理路正しく、正義について語ったとしても、Bはその内容について評価していないので聞かないということは現実的にあることです。

聞く側が聞こうと思わないことをいくら話してもそれは聞かれない。無視するという場合もあり、聞いている振りをして、無視されてしまうと抗議もできないということになります。聞いてもらえるようにするには、同じ土俵に上がってもらえるようにするには、どうしたらよいのか。これは説得のレトリックの前提条件であり、対話のレトリックの前提条件であり、とすると民主的な社会のための前提でもあります。それが、成立しなければ、対話も議論もありません。この前提について、レトリック研究、コミュニケーション研究、専門家とのコミュニケーションなどでの研究があるのでしょうか。聞くことの前提、聞いてもらうということの研究というのはあるのでしょうか。SNSの時代、同意してくれる人のために発言し、同意してくれる人の間でコミュニケーションが行われ、その中では拡大していきますが、同意しない人とはコミュニケーションが生まれません。聞いて対話する文化ができなかったのが、この20年間ではなかったのか。それをこえるための問い直す議論は、まだ、生まれていないように思います。まずは、生まれていないということを知るところから、はじめるということではないか。批判ということも、相手が土俵に乗ってこなければ、いいっぱなしになってしまいます。相手が土俵に乗ってこない中で行うということは、対話になりませんが、対話になら無くても受け取らなかった方が悪いと批判することで終わっている人が少なくないように思います。レトリックに3つの要素しかないというのは、どういうことでなのか、『弁論術』の本文を読んで知りたいと思います。議論する相手というものは必要な要素に入らないのでしょうか。相手を論破するということに弁論としての意味は無いのでしょうか。

対話できる文化をつくれなかったということとの反省をまだやっていないということなのではないでしょうか。言語教育で、リフレクティブということは、キャッチフレーズとしてさかんにいわれてきましたが、かけ声に過ぎなかったのでしょうか。「聞いてくれること」というのは、あらたな課題ではないでしょうか。言語研究にとっても。

(ひつじメール通信24-14 2022.7.27)


『22世紀の民主主義』を読んで

成田悠輔という人が、『22世紀の民主主義』(SB新書)という本を書いている。ネタバレになってしまうかもしれないので、もし、まっさらに読みたいのであれば、読まれない方がいいかも知れない。もっとも、私の読み方なので、別の人が読めば違うように読めると思います。

『22世紀の民主主義』の中で書かれているのは、現在の日本社会が選挙制度を使った政治の決定ができなくなっているということを踏まえて、どうしようかという議論で、私にはたいへん興味深いものでした。

与党があって、野党があって、政策を巡って議論して、それに対して、論争し、訴え、より支持を集めた方が票を取って、政権を取り、それによって政治が選択されていくはず。より正しい選択に向けて、民主的に議論がなされ、説得力があった方が票を取るはずということになっていて、選挙が近づくと、投票率をあげようという善意の活動が行われ、若い意識的な人々が、若者の投票率をあげようと活動することが、ネットでもニュースでも取り上げられる。しかし、若者たちの投票率をあげることで解決するのか、ということを成田氏はいう。それに、野党は何が正しいかの議論をして、与党を批判するが、成田氏の調査(#リアル選挙分析 参院選2019プロジェクト)では、何が正義かではなく、「有権者が投票行動を予測する上で重要だと分かってたものは「内面」だ」ったという。「「努力が報われる社会であると思えるか」「未来の明るい社会像を描けるか」といった曖昧で、主観的で、内面的な問いへの回答が与党への信認の決め手になっていることがこのデータからわかってきた。」(p.170)という。そのことは調査で分かっていたことだという。成田氏は明確に書いていないが、何が正しいかという野党の批判は、調査で分かっていた有権者の「内面」の意識を無視して、有権者を自らに引き寄せるのではなく、与党の批判を行っていたということになる。それは、有権者を巻き込む議論としてどうなのかということが考えられる。与党が議論にのってこなかった、聞く耳を持たなかったのは、有権者が望んでいた話題ではなかったからだということができるかもしれない。私は与党が聞く耳を持たなかったことを正当化する気はありませんが、有権者の「内面」の関心事が分かっていたのなら、野党がそのことにこたえようとしない聞く耳を持っていなかったということもいえます。成田氏は野党や与党の政治の議論の仕方を話しているわけではありません。私なりの解釈をいっています。

有権者の「内面」の意向を無視して与党批判をする野党勢力に対して、成田氏は明確にはいっていませんが、ということなら、具体的な政策ではなく、全体として頑張っている観を出し、安定感や着実感を出すことで、与党の方が有権者の希望に応えるようなやり方をとっていたことになるということをいっていると思います。野党はやっている感を出しているだけと批判できるのかと。

私は、きちんと有権者の意識を読み取った議論を行い、曖昧な現実を明示化して、論点を明らかにして選択肢を示すということは、政治家の本来的な役割だと思います。「努力が報われる社会であると思えるか」「未来の明るい社会像を描けるか」という志向があって、世の中が複雑化して、いろいろな欲望がせめぎ合っていて、明示的に言語化もできない状況があるところで、一人一票で投票し、多数を決めていく選挙という制度自体が、時代遅れなのではないか、といい、それを超えて、社会に存在する街頭のカメラで行動を分析し、ネットの言説を拾い、いろいろなマーケティング装置やマーケティング、市場調査、意向調査などなどをAIの機能を使って分析して、社会全体としてどういうことを望んでいるのか、民意を計算して、それで政策を決めていけば良いのではないか。一人一票の票を投票して、多数派になった政党が決めるという時代遅れな方法ではなく今の時代に即した民意反映の仕組みを作る。一人一人の投票を数えるしか、民意を知る方法がなかった時代ならばともかく、AIがアルゴリズムを使って、分析して、政治を決めることができるのであれば、それが、22世紀の民主主義のシステムとして有効なのではないかということを述べています。ここまでの整理は、私のことばに直してしています。人々の意向を計算していく際には、少数派の意見をどう反映するかも、多数派による差別的な政策を採らないようにアルゴリズムを設計しておくこともできると提案します。熟議民主主義といわれてるじっくりと議論する方法がかえって、一つの立場を強調してしまう危険性があり、そうはしないようにアルゴリズムを組み立てておけば、その危険性からも逃れられると注では主張しています。丁寧なコミュニケーションによる対話よりもAIのアルゴリズムの方が優れているという主張は、大いに議論の余地があるでしょう。

『22世紀の民主主義』という本は、全体的に暗黒的なダークな発想に基づいているようにも正直、率直にいって感じますが、人間が相手の話を聞くことができず、議論することもできないのなら、広くリサーチした上でアルゴリズムで民意を測るということもありなのではないのか、それを簡単に否定できるのか。生身の人間が、話し合うことができず、人のいうことを聞くこともできないという議論文化の中にいるのであれば、AIにやってもらうということの可能性はあるのではないだろうかと主張することを簡単に否定できないように私は思います。しかし、民意というものは、気持ち、内面がかたちになったものなのか、そういう気持ちや内面があっても、一段メタなところから整理し直して、組み立て直して出てくるのが理想的な意味での民意だとすると、それをアルゴリズムで計算できるのか。夏だから、さわかやかなものが飲みたいとか涼しいところで過ごしたいという比較的シンプルな感情や気持ちは計算できるかも知れませんが、もっと複雑な気持ちというのを、AIは聞き取り、構成し直すことができるのでしょうか? 民主主義というものが、人々がコミュニケーションをした上で現れるものであるのなら、そのコミュニケーションができるのかというのは重要なテーマです。『22世紀の民主主義』という本が今、世に出たということには意味があるように感じています。

(ひつじメール通信24-15 2022.8.10)


研究成果公開促進費の申請のハードルが下がったか

学術書を刊行する出版社は、日本学術振興会の研究成果公開促進費を研究者の方に申請していただいて、刊行するということが、少なくないですが、科研の申請の時期が早まったということがありまして、8月の後半は申請のための書類作りに追われています。ひつじ書房も同様です。

日本学術振興会のウェブサイトには次のような文章があります。

「研究成果公開促進費は、研究成果の公開発表、重要な学術研究の成果の発信及び、データベースの作成・公開について助成することによって、我が国の学術の振興と普及に資するとともに、学術の国際交流に寄与することを目的とするものであり、優れた研究成果の公的流通の促進を図るものです。」 https://www.jsps.go.jp/j-grantsinaid/13_seika/index.html

博士論文については、インターネットで公開することになったこともあって、研究成果公開促進費の申請のハードルがあがったようにも感じていましたが、若干、ニュアンスが変わってきているように感じます。優れた学術成果であれば、書籍化することを推奨するような流れが生まれてきているように感じます。それは、私が感じているだけかもしれませんが、文化人類学会に参加して、他の学術出版社の方と話をするとけっしてネガティブではない感じがしました。このあたりは、学術書の出版が中心の出版社と副次的に学術書も出している出版社では感覚が違うかも知れません。

いくつかの出版の提案をいただき、ご相談の機会もありますが、今まで言われたことのないコメントでありがたかったというおことばをいただくことがあります。改稿をおすすめしたりとご相談される方にはかなりの労力が掛かることを申し上げることもありますが、そのようなコミュニケーションをしながら、企画を進めていくということをしています。できるだけ丁寧なコミュニケーションを行いたいと思っていますので、時間的な余裕が重要ですが、弊社で行っているオープンオフィスの期限が9月2日です。もし、今年の研究成果公開促進費の申請も考えているという場合は、急いでいただきたいと思います。場合によっては、改稿をおすすめすることもあるかもしれません。その場合は、申請の期限に間に合わないことになりますが、まずは相談していただけましたら、と存じます。

今回のオープンオフィスの期限が、おわりましても、相談の入口は閉ざしませんので、ご相談はご遠慮無くお願いします。

(ひつじメール通信24-16 2022.8.24)

国立民族博物館にて「Homo loquens 「しゃべるヒト」~ことばの不思議を科学する~」が開催されています

(moのoの上とqueのeの上に横棒あり)

現在は中断中ですが、未草に「言語展示学~ことばの宇宙を届けたい」という連載があります。いずれ復活する予定です。こちらの筆者は、菊澤律子先生です。この連載とも関係があります催しですが、菊澤律子先生が、中心になっての催しが、国立民族学博物館 特別展示館で9月から11月まで開催されます。

「しゃべるヒト」~ことばの不思議を科学する~」という催しですが、民博の展示概要には次のように書いてあります。

「身近にありすぎてほとんど振り返ることのない「コトバ」をテーマに、言語学のみならず、文化人類学、工学系、教育系、脳科学、認知心理学等の50名を超える国内外の研究者が協力して、その不思議をお見せします!さらに展示の一部として、映像作家の山城大督がことばをイメージした作品を公開!」

説明としては、大勢の研究者が協力して実現したことしか、わかりませんので、内容については説明不足だと思いますが、副題に「ことばの不思議を科学する」と書いてあります。分析されている展示があることがわかりますし、ポスターにはいろいろな人々が話しています。人によっては手話をしている、あるいは手話をしながら、口も動かしている図柄になっています。言語の多様性がテーマなのかも知れません。

「言語展示学~ことばの宇宙を届けたい」という連載をお願いした時から思っていることですが、ことばという目に見えないものを展示するということの試み自体が、まず興味深いことです。そもそも、博物館が物理的なモノではないものを展示するというのが面白いことだと思います。どんな風に展示しているのか、興味深いです。内容もさることながら、展示方法についても興味が湧きます。ぜひ、皆様にもおすすめします。行っていないうちに推奨するのも無責任かも知れないですが、たぶん、面白いのではないかと思います。

この展示のタイミングに合わせるタイミングで『手話が「発音」できなくなる時 言語機能障害からみる話者と社会』(石原和・菊澤律子編)も刊行しています、この本は、民博のミュージアムショップでも販売していますので、お越しになった方はぜひ手に取ってご覧下さい。

私は、9月半ばに1回行ってみようと思っています。感想についてメール通信で報告したいと思っています。

会  期 2022年9月1日(木)~11月23日(水・祝) 会  場 国立民族学博物館 特別展示館 開館時間 10:00~17:00(入館は16:30まで) 休 館 日 水曜日(※ただし、11月23日(水・祝)は開館) 主  催 国立民族学博物館 観 覧 料 一般880円(600円)、大学生450円(250円)、高校生以下無料

https://www.minpaku.ac.jp/ai1ec_event/19085

「言語展示学~ことばの宇宙を届けたい」はこちらです。

https://www.hituzi.co.jp/hituzigusa/2018/07/13/gengotenji-1/

(ひつじメール通信24-17 2022.9.7)


ギターで和音を出す)

ぶつぶつしたまとまりのない話しなのですが、多文化共生ということがありまして、とても重要な考え方ですが、文化がいろいろただ、沢山一緒にいればよいということとは違っていて、多声的というか、斉一ではないにしろ、不協和音も含んでいつつも、排除するのではなく、共鳴しているということを願っていることばだと思います。共鳴というと最近、和音というものに興味がありまして、私は三味線をかれこれ10年以上弾いているのですが、三味線の場合は弦が三つしかありません。和音というものにも限界があって、最大三つの音しか同時に出せないわけですが、三つの弦の音を共鳴させるということはたぶんなくて、二つの弦を一緒に弾くということと、ある弦を弾いたときに他の弦の開放弦が共鳴して一緒に鳴るということがあります。和楽器でも琴などは弦の数が多いので和音を響かせることができると思いますが、三味線では難しいです。弦が絹の糸なので音が鳴る時間も長くないです。

和音をいろいろ知りたいということがあって、最近ちょっとガットギターを練習しています。ボサノバは基本的に親指で基調の音を弾きまして、他の指で和音を弾きます。まだ、理解できていないですが、基本の組み合わせに少しずれた音を混ぜて面白い和音を鳴らします。シンプルに共鳴していなくて、複雑に共鳴している感じというのはそんな感じかと思います。ただ、初心者には難しいのは右利きだと左手の方の四本の指で押さえますが、正しいところを押さえていても、押さえているつもりでも、押さえ方が悪ければ、音がクリアにはならず、出したい和音がでないことになります。わざわざ、微妙な共鳴のために押さえている指が上手でないと整った和音になってしまって、曲としては風合いがないことになります。微妙な音も微妙なりにきちんとでていないといけないことになります。押さえ方については、上手く音が出ていないのを知りながら、頭は分かっていても、指が思ったように押さえることができていないので仕方がありません。練習あるのみです。練習するためには、下手くそだということを自覚しつつも自覚しないようにしないとダメだと思って続けられないので、主体性を加減しないといけないのがまた微妙です。

さて、音でいろいろたとえているわけですが、異文化も不協和音であっても共鳴するということを考えるとそもそも考えを合わせない人とも共鳴することができるのかという難題に遭遇します。音を鳴らそうと思わない人といっしょに音楽、音楽までいかなくとも、がやがやした音をいっしょに出せるのか。これは難問だと思います。まったく相容れない人ともいっしょに音を出すことができるのか。それが異文化共存だとするとそんなことができるのか。聞いてくれない人と議論ができるのか、という何回か前に議論したことと同じところに戻ってきてしまいます。バフチンは、多声的といいまして、多文化共生の考えを主張する方は、よく多声的といいますが、声を出さない人とどう多声的に共存するかというのは、難問というか、問いにさえなっていない問いだと思います。また、楽器の話しに戻りますが、楽器からまともな音を出せるようになるというのが、楽器を鳴らす最初の時期の課題で、ガットギターでちゃんと和音を出せるか、曲を奏でることができるまえの難問であることを日々思い知らされているところです。ぶつぶつとしか音が出ないなかで思います。

(ひつじメール通信24-18 2022.9.21


●英文の参考文献の書き方の統一

メール通信に書きますことですのに、あまり大きな声でいわない方がいいかも知れませんといっても書いていますのに仕方がないですが、私は、あまり表記の統一が得意ではありません。

ひつじ書房では、執筆要項案というのを用意していまして、単著であれ、編者として編集する本であれ、相談してその本に合わせた執筆要項を決めてから執筆してもらうようにしています。著者や編者の方に基本的に表記や文献の上げ方を統一していただくようにお願いしています。概ね統一していただいていると統一の確認がスムーズに行きます。なかなか、完璧ということにはなりませんがきちんと統一されている方が本として気持ちがよいと思っています。

今回、気にしているのは、参考文献リストの表記方法についてなのですが、和文の書籍の参考文献リストの表記方法の統一については、一通りのことはできていると思っています。課題は、和書であっても、英語の文献を参照することが多いタイプの研究論文集です。論文ごとに数頁の英文の参考文献がリスト化されるということになりますが、こちらはなかなか手強いです。

言語研究の論文の場合、著者名と刊行年を使ういわゆるオーサーデートシステムを使うことが多いです。それでも、シカゴマニュアル系の統一なのか、APA系に近いのかによって違います。それが混ざっていると困ります。いくつか、気にしている点を列挙します。

APAは、参考文献において、執筆者が複数の場合、最初の1名が姓コンマ名前で、名前は頭文字で、2人目以降も同じ順序です。シカゴマニュアルは、最初の1名が姓コンマ名前で、姓はスペルアウトして、2人目以降は、名前スペース姓の順です。APAでは、本文ではandを使い、( )の中だったり、参考文献リストの中では&を使うというルールです。APAは、A コンマ Bの後にコンマ & Cとします。シカゴマニュアルでは、書名の出版社の所在地を示す時に出版社名に地名が含まれている場合は、所在地名には書きません。それが州名と同じ場合は、地名を記す。出版社名に地名が含まれる場合は、州名だけにする。州名も郵便コードの略号にするのか、州名の部分をとった綴りにするのか。地名がどこにあるのか広く知られている場合は、州名を入れなくてもよいということですが、実際のところ、よく知られているというのはどういうことなのか、感覚的にしかわかりませんので、混乱をうむ危険性があります。和文の参考文献よりも選択肢が多いので、本の中に著者が複数いて、それぞれが違うルールで書かれていますと大変なバリエーションになってしまいます。散発的に例をあげてしまいましたが、文献のスタイルが、流派によって違っていますので、どこに落としどころを設定するかというのが、なかなか難しいのです。

英文の参考文献の多い書籍を編集することが増えてきていますので、私にとって課題になっているわけですが、あらためて英文の参考文献名の統一的な表記についてきちんと勉強し直さないといけない状況になって、超ベテランであるはずなのに、まるで小僧の弟子入り、初心者の再研修のような体たらくです。長年、英文のスタイルマニュアルを勉強会をやって何冊も読んできているはずですが、ここであらためてきちんと勉強しておこうというポジティブな気構えで取り組んでいるところです。たぶん、大勉強の結果として、執筆要項の英文の参考文献の箇所は、近いうちに改訂することになりそうです。私だけでは不安感をいただかれてしまうかもしれませんが、社員全員で精査しますので、良いものができあがると思います。ご期待下さい。

現状での執筆要項案をリンクします。日々、改善中です。 https://www.hituzi.co.jp/sippitu/

(ひつじメール通信24-19 2022.10.5)


聞いてくれない人のことばを聞けるのか

『聞く技術聞いてもらう技術』という本が出ました。刊行されると聞いた時から、ずっと待望している本だったのですが、だいぶんと期待していたからかも知れないですが、読みたいと思っている内容の本ではありませんでした。この本自体はよい本だと思いますし、この時期に出したということについては、時代感覚や問題意識に近いものがあるのではないかと思います。

聞くということをずっとこのところ考えているのですが、この本の最初に菅元首相の話があって、国民にいうことを聞いてもらえなかった、聞いてもらえるような話し方をしていなかったから当然と観点で、私は求めている観点が違うと思いました。

私は菅元首相は、自分に対して反対する側の人々のいうことを聞かないようにしてきたと思います。コロナの中で、国民に語りかけても聞いてもらえなかったということですが、それを自業自得といったとしてもそれは間違っていないだろうと思います。反対する側のことを聞かなかったし、反対する側も聞かなかったということだと思いますが、もっとも困難な課題は、我々も我々ではない人も、聞かない人の声をことばを聞くことができるか、ということだと思います。それぞれが、いわばクレーの「囀り機械」のように別の方向を向いているから、それぞれでは聞くことはないというのはそうなっても仕方がないことですが、それゆえに聞かないものそれぞれが聞くことが可能かということが問われないといけないのではないかと思います。元首相は人のいうことを聞かなかったから、聞かれなかったんだということをいってすませることから、その次にいくことができるのか、というのが、困難な課題だと思います。全然人のことを聞かない人のことを聞けるのかというのが困難な課題と思います。苦渋的な苦さがあると思う。SNSでは、自分と同じ考えの人の話を聞き、それを同じ考えの人々の中で繰り返していくことをエコーチェンバーといいますが、違う考えの人のことばを聞けるのかというのは大きな課題です。

出発点が違うから、私の期待の本ではなかったことで、『聞く技術聞いてもらう技術』という本が私にとっての期待外れというのは、違うかも知れませんが、違う問題設定ができるかということを考えたいと思っています。

市民参加の熟議や科学コミュニケーションについて研究されている北海道大学大学院農学研究院客員准教授の吉田省子さんの論考が未草のウェブ連載ではじまります。「今、実践の記録から、熟議という話し方をふりかえってみる」というタイトルです。人に話す時に、つまり語る時に、「騙り」にならないように「語れるか」という問いです。聞いてもらうということの視点からすると人にバイアスを付けないで聞いてもらえるのかという話しです。科学的な見地を説明した時にそれが、ある答えに引っ張っていく説得ではなく、その人が押しつけでなく自分で納得してもらうような話しをすることができるのか。コロナの時代の科学コミュニケーションの問題にも関わっています。私のあげる例は、それこそ「バイアスのかかった説得」になっているかもしれませんが、マスクは必要なのか、マスクが感染をふせがないからとして、マスクをしたいという感情は非合理的だから、しない方が正しいといういいかたできるのか。吉田さんは、その議論を語りなのか騙りなのかという問題に設定しています。

(ひつじメール通信24-20 2022.10.20)


「ひつじにペーパーボックス」(略称 ひぺぼ)を開始します

前回のメール通信で、『聞く技術聞いてもらう技術』という本について書きました。じゃっかん、消極的なことも申しましたが、ある研究会で、ひつじ書房から出した本に期待外れだったということが書かれるのは、さびしい気持ちになると言われましたので、『聞く技術聞いてもらう技術』の書誌的なことを申し上げます。ひつじ書房から出ている本ではありません。消極的な感想でしたので、詳しく述べるのは避けたのですが、出版社は筑摩書房で、ちくま新書です。著者は、東畑開人さんです。私の期待の方向とずれていたということで、こちらの書籍がつまらないということではありません。とてもよい本だと思います。<聞く技術>と<聞いてもらう技術>」という問題設定をしたということは画期的だと思っています。私の関心は<聞いてもらえない>ということを深刻に捉え直すということでしたので、関心が違っていたということです。

さて、ちなみにある研究会というのは、日本語プロフィシェンシー研究学会でした。京都の東洞院通の公営の会議室で対面の研究会を行いまして、そのあと、懇親会も行いました。先頃刊行しました『日本語プロフィシェンシー研究の広がり』の刊行のお祝い、お披露目も兼ねていました。懇親会場は、ひつじ食堂というジンギスカン料理の店でした。羊のお肉を食べたと言うことですね。鎌田先生たちみなさまに久しぶりにお会いできて、楽しい会でした。『日本語プロフィシェンシー研究の広がり』の刊行の意義も再確認することができました。私は、言語を普遍的な規範と考えすぎるのではなく、プロフィシェンシーという実際に使われることに注目することで、言語とインタラクションを抽象的な規範と考えすぎずに新しいこれからの日本語教育とも連携していくことが重要なのではないか、というようなことを一言申しました。

そのような対面の催しが復活する一方で、この秋の学会は、文学系の学会では対面で開かれた学会もありましたが、言語系は対面での開催はほとんどありませんでした。お会いする機会もなく、本を見ていただく機会も残念ながらなくなったということですので、本を見ていただく機会を作りたいと思います。この春にも行いましたが、同じように事前にご予約をいただきまして、ひつじ書房の事務所で書籍をご覧いただけるようにしたいと思っています。こちらについては、toiawase[アットマーク]hituzi.co.jpあてにメールいただきまして、お寄りいただけるようにします。

要事前予約制 ・toiawase[アットマーク]hituzi.co.jpまでメールにて以下をご記入のうえお申し込みください。   件名:書籍見学希望   お名前   ご所属   ご所属学会   何を見て知ったか   ご希望の日時(第3希望まで)

[開催期間] 2022年11月21日(月)~12月22日(木) 土日祝を除く平日 10:00~18:00 月曜午前は不可

加えまして、学会であれば、お目に掛かって、立ち話しをする中でどんな研究をされているのですかということをお尋ねすることができますが、そのような機会もなくなってしまっていますので、若い研究者の方との出会いましたり、知り合う機会を作るために、書かれた論文を教えていただければ、広く告知するというサービスを開始します。サービスという言い方は、少し曖昧とも言えますが、出会う機会を作りたいということです。名称は、「ひつじにペーパーボックス」(ペーパーは論文という意味と紙の箱の両方を掛けていることにします。略称ひぺぼ)とします。単純に「researchmapに新しい情報を追加しました、見て下さい」ということを書き込んで下さるので、うれしいです。本来的にこちらで検索したりして、調べて知るものであると思いますので、わざわざお知らせ下さいとお願いするのはすいませんという気持ちですが、優しい気持ちで投稿してください。メール通信やひつじ書房のウェブサイトで論文を紹介することを考えています。

場所はgoogle formを使っていまして、次の通りです。

https://forms.gle/CBsEnXUvzEiQUrqQ8

(ひつじメール通信24-21 2022.11.9)


問う力が大事であること

2021年の3月に刊行しました『「問う力」を育てる理論と実践 問い・質問・発問の活用の仕方を探る』(小山義徳・道田泰司編)が、ありがたいことに好評で先頃重版しました。紹介文によると「本書は、学習者の「問い」や、教師の「発問」を基に展開する実践の紹介と背景理論の解説を行い、教育現場で教える教員の方はもちろん、学習者の「問い」や「質問」の研究に携わる大学院生や研究者も深く学べる内容となっている。」ということで、もともとは、教育の分野を中心的なターゲットにした書籍ですが、問う力はいろいろな局面で重要です。他者に問いかけるということもあります。上司が部下に問いを投げかけるということもありますし、子どもが親に問いかけるということもあります。問いによって、問題がすっきりして、解決に向かうこともあります。逆に問いが悪いとかえって袋小路に入ったり、課題を取り違えたりするということもあります。なので、狭い意味での教育関係者だけではなく、ビジネスの場での人育てなどでも重要な書籍だと思います。

そういうふうに思っている時に、『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(石井光太著 文藝春秋 2022年7月)が出まして、そのタイトルに驚いている時に、facebookに甲斐睦朗先生が、国語力の問題以前にこの本でとりあげている授業での教師の問いに問題があるという内容の指摘をされていました。この本では生徒の解答がおかしく、生徒の国語力がきちんと育っていないところに問題があるという議論ですが、「問い」の問題だとするとこの本の設定の上で考えるのではなく、前提からきちんと考え直さないといけないのではないか、と思いました。そこで、甲斐先生に書評を書いて下さいと申し上げました。最初は堅くお断りになったのですが、石井光太氏と有名な歌人の方との対談で、この本を大々的に宣伝するということがあって、問いかけがなされないとそのまま広まってしまうのではないか、と思いまして、再度ご依頼申し上げましたところ、書評を書いて下さいました。

書評は未草に書いていただきました。ぜひ、ご覧下さい。

「書評『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(石井光太著 文藝春秋 2022年7月刊) 国立国語研究所名誉所員 甲斐睦朗https://www.hituzi.co.jp/hituzigusa/2022/11/15/brss18-2/」

教育を巡る言論は、取り上げられるとどうしてもジャーナリスティックになってしまいます。マスコミ力の強いところに影響されてしまう傾向がどうしてもあります。できれば、広く冷静な議論になってほしいわけですが、どうにも議論が発展しません。特に、批判の対象が、学校であったり、学校の教育であったりする場合、学校教育の声はその業界の中では聞こえても、対話になるような議論が生まれにくいです。零細弱小出版社のたかがウェブマガジンに掲載したというだけで、議論の波を起こせるとも思うのは思い上がりだと思いますが、対抗する議論があるということを示すことはしたいと思っています。

問うだけではなく、良い問いというものを考えることが大事であるということを思います。

●紹介しました書籍

『「問う力」を育てる理論と実践 問い・質問・発問の活用の仕方を探る』

小山義徳・道田泰司編

定価2800円+税 A5並製 360頁

ISBN978-4-8234-1035-2

ひつじ書房

【内容】 学習指導要領の改訂により、「自ら問いを立て、自律的に考えることのできる人材の育成」が求められている。本書は、学習者の「問い」や、教師の「発問」を基に展開する実践の紹介と背景理論の解説を行い、教育現場で教える教員の方はもちろん、学習者の「問い」や「質問」の研究に携わる大学院生や研究者も深く学べる内容となっている。 執筆者:生田淳一、植阪友理、小山義徳、鏑木良夫、亀岡淳一、小山悟、齊藤萌木、篠ヶ谷圭太、白水始、たなかよしこ、中山晃、野崎浩成、深谷達史、道田泰司、八木橋朋子

https://www.hituzi.co.jp/hituzibooks/ISBN978-4-8234-1035-2.htm

(ひつじメール通信24-22 2022.11.24)


『ピア・ラーニング入門 改訂版』刊行に際して

池田玲子・舘岡洋子著『ピア・ラーニング入門 改訂版』を刊行しました。もともとは、2007年に刊行した書籍です。好評に読み継がれまして、この機会に改訂版を刊行することができました。「ピア・ラーニングとは、仲間(peer)同士で学び合う学習のこと」ということですが、ピア・ラーニングについて最初に提案した書籍ということができます。 ここからは私の感想ですが、言語教育は、主体的な学びというものがここのところ主張されてきています。学ぶのはあくまで主体的な学習者ということでだれかに押しつけられて学ぶのではなく、主体的に学ぶということが推奨されています。ひつじ書房ではオートノミーということで『学習者オートノミー』や『自分で学んでいける生徒を育てる』など青木直子先生や中田賀之たちの本を刊行しています。学ぶのはあくまでも主体的な学習者であるということです。押しつけられた学びではなく、自分たちが学びたいものを尊重すること自体は適切なことと思います。学びは、主体的個人的なもので、教師や支援者はあくまでアドバイジングする存在であるという考えを強調する立場もあります。 少し前ですが、言語教育ではなく、文学教育の分野で、感じることはあくまで個人が感じるので感動を共感させるのはおかしいという文学教育に対する批判がありました。あくまで主体なのは個人であるという考えからすると感動を分かち合うというのはおかしいという批判でしょう。協働ということを前提にしなければ、当然の批判だと思います。 私は個人をないがしろにすることをよいこととは思いませんし、主体的な学習を尊重するべきだと思いますが、複数の人間が協働して学ぶということを捉え直さないとそもそも学校教育というものを設定することはできなくなるのではないでしょうか。それぞれが別々に個人教育を受ければよいという考え方だけだと教室というものは抑圧する場所というだけになってしまいます。個人で学ぶことが最善なら、リモートでの教育や家庭教師による教育の方がよいということになります。教室が抑圧的に機能することはあるし、そうでないようにできるだけするべきですが、学習を個人的なものとだけ考えるのも極な考え方のように思います。教室も含めて、協働の学びということを捉え返すことも重要だと思います。 協働で学ぶと言うことを捉え返すのに、この改訂版の刊行はとても重要なタイミングと考えます。1月22日の日曜日に凡人社さんでのオンラインイベントがあります。ご都合の付く方はぜひ、ご参加いただいて、協働の学びについて考えてみてもらうとよいのではないかと思います。 『ピア・ラーニング入門改訂版 創造的な学びのデザインのために』 ーーピア・ラーニングの意義をあらためて考えるーー 日時:2023年1月22日(日)10:00~12:00(オープン9:40) 定員:250名(先着順,定員になり次第締め切ります) 対象: 主に大学教員,大学院生,日本語教師,日本語教育ボランティア,など 参加費:無料 ※要予約,前々日(1/20)17時までに招待URLを送ります。 講師:池田玲子先生(鳥取大学教授),舘岡洋子先生(早稲田大学大学院教授) 申し込み方法は、このメール通信の最初に記してあります。

(ひつじメール通信24-23 2022.12.7)


オープンをこえて座を編集する

ドミニク・チェン氏の『未来をつくる言葉』にウェブのサービスで、人をねぎらうサービスがあって、誰かの発言に対して他の人が慰めたり、助けたりする発言を寄せることができる仕組みを作る話がでてきます。その中になかなか見つけられにくいメッセージをプログラムによって、表示するタイミングを工夫することによっていろいろな言葉が救われるという話しがあります。

どういうサービスなのかが分かりにくいと思いますので、著者自身の言葉を引用します。

見知らぬ人々がケアを交わす場

私たちが最初に一般公開したサービスは、悩みを告白する人と励ます人が匿名で集う「場」だった。誰かが悩みのメッセージを短文で公開すると、すぐに他の利用者がやはり短文で励ましのコメントを送ってくる。悩んでいた人は励ましを実感したコメントを任意の回数クリックすることで、感謝を示すポイントを送ることができる。結果、悩みのメッセージは「成仏」して消滅する。(新潮文庫版 93ページ)

今流行のTikTokの解説をした『ショートムービーマーケティング』(2021年刊 KADOKAWA)という本の中で著者の若井映亮さんが、TikTokの「おすすめ」フィードというサービスを紹介しています。ある動画の投稿についてリアクションがつきやすいようなアルゴリズム(仕掛けをプログラムする時に方法のようなこと)をすることによって、多くの人にいいねを獲得できるようにするという話しが紹介されています。こちらの本はTikTokのショート動画についての活用法の本です。

何をいいたいのかとおもわれるかもしれません。私のいいたいことはこういうことです。少し前まで(今でも)情報をクローズにするのではなく、抱え込まずにオープンにすることは、それ自体がすばらしいと言われることが多く、アカデミックな世界でもオープンアクセスということは望ましいこととされています。基本的にクローズドな状態よりも望ましいことといえますが、クローズドではない社会をオープンにするということをシンプルに望ましいと考えるのは、もう楽観的すぎるのではないでしょうか。

コロナウィルスに対する対策のワクチンについても、ワクチンのメリットとデメリットは両方の実験結果はでていると思います。いろいろな状況やいろいろな体質、さまざまな症例があるでしょう。デメリットとメリットの情報が両方ともオープンにアクセス可能だとして、多くの人はどっちかに決めてほしいと思って、自分の感覚にあった事例を紹介してくれる人をフォローしてしまうことが多いのではないでしょうか。人のことは言えません、私自身がそうです。情報過多な状況に私を含めてほとんどの人は耐えきれないというのが現状ではないでしょうか。オープンであるがゆえに、自分がシンパシーを感じる人をフォローして、場合によっては強く影響されて分かりやすい極端な考えになってしまうということがあると思います。

『未来をつくる言葉』のプログラミングは、人が目に入った情報に過剰な依存をしないように工夫した公開の仕方を提供しているということだと思います。オープンであるだけではなく、どのような順番で、どのようなタイミングで提示するかということが重要になってくるのではないでしょうか。そのように考えると単にオープンであるということだけではなく、どのように提供するのかという「調整」「編集」ということが重要になってくるのではないでしょうか。

話しは少しとびますが、連句で最初の6句には、固有名詞や宗教のことや病気や戦争のこと、何とかだなあという述懐は禁じられています。それは、そういう句は共同の創作には危険だという意識があるということでしょう。戦争のことが禁じられているからこそ、日常では敵対して闘っている人でも、いっしょに同席して、連句を巻くことができます。避けるべき話題があると言うことは、そういうことを共有の場で最初の段階では触れないことにするというアレンジメントが行われているということです。これも優れた場のプログラミングといえるのではないでしょうか。

オープンでなんでも言っていいという素朴な考え方ではなくて、仕組みを持っているということです。共有するためのアルゴリズム、ウェルビーイングな情報共有のためのプログラムを考えて行くようにしたいと思います。単にネットにオープンに情報があればいいというだけでないあり方というを考えることが重要になってきていると思います。

((ひつじメール通信24-24 2022.12.21)

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