言語活動に焦点を当てる
2023年1月11日(水)

言語活動に焦点を当てる

(1月11日にメール通信で配信した内容がもとになっています。日付けもその日付けにしています。)

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

現在、達富洋二先生編著の『ここからはじまる国語教室』という本をほぼ原稿をいただいて刊行に向けて進めています。新しい国語教育の教科書です。面白いと思いますのは、言語活動に焦点を当てているということです。国語科教育という言い方の方が良いでしょうか。このことはちょっと分かりませんが、国語教育という言い方をさせてもらいます。国語教育というと国語という言語を教えるものだとずっと思ってきましたが、言語活動に焦点を当てているということは興味深いことです。言語そのもの、記号としての言語というふうに言った方がいいでしょうか。この展開は国語教育の業界内ではもうよく知られていることなのでしょうか。国語を美しいとか美学的なもの、情緒的なもの、こころを伝えるというふうに考える考え方に対して、美的な言語観を批判して、言語技術として教えようという、また、言語は美的な情緒や気持ちではなく資源である考えようという潮流はあります。また、さらに国語教育はチラシの読み方を教えるようなものではないと言語技術的な言語観に対する批判もあるわけですが、言語活動として教えようという言語の見方があることについてはあまり認識していませんでした。私が世の中の動きに疎いということがあるのかもしれないです。

言語研究も、社会的なインタラクションに関する研究が社会言語科学会などでは行われていて、言語活動という考えに近いものがあると思います。がしかし、国語教育研究と社会言語科学会が連携しているということはほとんど聞かないと思います。これも私が世の中の動きに疎いのかも知れないですが。

記号としての言語、自立した体系としての言語という考えはありますが、活動としての言語という考えもあって、それらは混ざり合うというか、言語に対する注目と言語活動についての注目は、どちらか一方ではなく、連携し合ったり、対立し合ったり、混在し合ったりするもののように私は思います。

一方、日本語教育だと記号としての言語、体系としての言語を批判して、言語と関わることを捨てようという動きがここ十年くらいあって、記号としての言語を否定したいために言語活動としての言語も切り捨てて、そのことが日本語教育として望ましいという考えがかなり強いように思います。言語は言語として自立しているとか、規範的な言語観は否定される傾向にありまして、求心的な言語観は嫌われ、遠心的、分散的な言語観が尊重されていると感じます。そのように考えると言語活動に注目している国語教育は、言語教育として、重要なのではないかと思います。私は言語を単に記号としての言語だけと考えるのはなく、インタラクションを含めたあるいはインタラクションそのものであると言っていいような複雑なものとして考える方がいいと思っているので、記号として言語を研究対象として捨てるために言語を止めてしまうことに対しては問題だと思っています。

私は日本語教育の潮流を批判したいのではなくて、国語教育の言語活動という見方が面白いと思っているということを言いたいのです。日本語学が国語教育と連携しようとするならば、言語活動に注目する方がいいと思います。そのようなタイミングで、『ここからはじまる国語教室』を刊行できますことはありがたいことだと思います。これも私が世の中の動きに疎いのかも知れないですが、国語教育側がうまく発信ができていなかったからなのではないかと思っていますが、どうでしょうか。言語活動という見方が面白いわけですが、言語心理学だと言語実践という呼び方をすることもあり、言語研究者、言語教育者が、言語を捨て去ってしまうのではなく、言語観について議論していくことが望ましいのではないかと思います。

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