連句と言語リテラシーの話しをします
2021年3月11日(木)

連句と言語リテラシーの話しをします

(3月10日にメール通信で配信した内容がもとになっています。)

私松本が連句をやっているということは何回か申し上げたと思います。今回も連句に絡めてお話しさせていただきます。連句は、575と77を続けて行く、共同創作活動です。季節を詠み込んだり、季節を詠み込まなかったり、一本調子ではなく、変化に富んだ展開を好みます。恋の句を3つ続けるとか、最後の方に花を詠むとかという決まりもあります。花というのは桜のことです。それらの他にも表6句(連句の巻の一番最初の6句)には禁じられていることがあって、宗教に関することは詠まないとか、述懐は詠まないとかいうことがあります。固有名詞も詠んではいけません。とまあ、いろいろと禁じることがあり、表現の自由、芸術は自由に表現してもいいんだというような学校生活での教えや近代的な自由主義の考えからすると堅苦しいと思うことでしょう。私もルールがあっても、それを超えるような芸術性や共同創作しているような喜びがあるのであれば、ルールは破ってもいいと考えています。

しかし、これらのルールには、背景にそれを生み出した思想があると思います。宗教について表で触れないのは、いろいろな宗教の人でも参加できる、宗教について距離を置くという考えでしょうし、述懐を禁じているのは、悲しいという気持ちを表して、感情的になりすぎることをさけようということですし、固有名詞を禁じるというのは、状況が個別の事情に限定されてしまうことをさけようとするということではないか、と思います。連句という場所を作り出すための智恵というか、工夫なのだと思います。立場の違う人間が、同じ場を共有するためのテクニックといってもいいでしょう。レトリックの技術というべきかもしれません。言語の技術というべきか、いずれにしても、表現を、表現活動を単純に自由にしておけばよいということではない感覚があるのだと思います。私はその感覚は非常に貴重なものだと思います。共同的な創作、社会的な営みとも関係します。私は、この営みが、着実なものになれば、共同的な文芸のサロンの土台になり、さらにいうと社会の共同的公共性の基礎になったのではないか、と思います。ハーバーマスは、カフェやサロンが公共性の基礎になったといっています。そこには文芸の読者であり、創作者でもある人々というのが期待されていると思います。連句は誹諧という名前で近世には広く普及していたものです。いろいろな階層の人々がいっしょに共同的に創作できるようにすることが、公共性を生み出し得る可能性を持っていた。その可能性が実現できたのかについては、ネガティブに思うこともできるでしょうし、ポジティブに思うこともできるでしょう。江戸後期に知識人たちに議論の公共性の糸口があったのかということも議論されています。ただ、連句が、正岡子規に全否定され、その後、正岡子規にも部分的に肯定されたようですが、結局、俳句として、個人の創作する芸術として力を得ましたが、連句は何度も再評価されても、いつも定着できていないように思います。今でもプロの連句師というものはいないでしょう。社会的な機能としては、プロの議論のファシリテーターをそう呼びたいところですが、これはいささか唐突です。ファリシテーターさんたち、連句をやりませんかとお誘いしておきます。最近、ジョン・ケージのRENGAという音楽作品を国立小劇場で観ましたが、近代的な個人創作に対する現代音楽的なアンチテーゼとしては利用されますが、アート的なコンセプトの段階を乗り越えられていないように感じました。

そのことと関わりがあると思うのですが、言語技術ということが、共同的公共性には重要だということが、ほとんど共感されていないと思われます。いまだに素直に心情をいえばいいというのも、意外な楽観さですし、エビデンスに基づいた論理的なことばが必ず正しく説得的であるという「信仰」も原始的な気がします。議論の前提を否定するというのは、同じ学派の中での議論であれば、勝つことのできる方法でしょうが、それはひょっとすると学者的ロジックの世界では通じるものであっても違うロジックの元では通じないかもしれません。相手を潰しては、そこで議論は終わりです。

国立新劇場で「正論≒極論≒批判≠議論」シリーズ三部作が今年の後半から、上演されるとのことですが、Twitter上でのコメントの付けられ方を観ていると社会を批判的に発言しないといけないと思っている人の中に、批判に対して疑義をなげかけるこのシリーズ名自体を、「批判という営みを全く理解していない」と発言する人がいました。そのような発言をすることは悪いことではないですが、誰かの議論について前提から否定してしまう、という発言は、勝つか負けるかしか生み出さず、議論をすることができないやり方だと私は思います。連句の表6句ではないですが、発端で前提から全否定してしまうということは、共同で議論を行おうとする際に障害になります。相手に一部の理も認めないは、自分が勝ったと思えるかも知れませんが、相手と議論することにはなりません。その人はその人の立場での発言ですから、その発言はどんどんしていいのですが、別に批判的な発言をしてはいけないということはないです。ただ、もし、共同的言語活動を行うということがあるのであれば、技術的に拙劣であると言わざるをえないでしょう。というのは私の感想です。Twitterという場所が、議論ではなく、勝てばよいと思わせる場所であるということ以上のことではないということにすぎません。

連句に話しを戻すとせっかくさまざまなルールを設けて共同創作活動を行っていたし、それは共同的公共性を作る練習あるいは基礎になりうる作業・行動であったと思われるのに、そういう言語技術やそういう言語技術を大切に思う言語文化は社会的に構築できていないということを思わされます。これも前回申しましたように言語学者や言語教育学者の力不足ということがあるのではないでしょうか。 前回のメール通信に書きましたが、まさに連句という営みがあったことからも、決して、共同で言語活動をするということを歴史的に行っていなかったわけではないのにも関わらずそういう言語技術が定着していないという現状を見ながら、考えていきたいですし、言語の本の企画を進めていきたいと思います。国立新劇場で「正論≒極論≒批判≠議論」シリーズ三部作が上演されるということ自体が、ひとつの論争的、議論的なあり方だと思います。注目しつつ、応援していきたいと思っています。それも出版活動に関わると思っています。

昨年に刊行した書籍では、『シリーズ 話し合い学をつくる 3これからの話し合いを考えよう』(村田和代編)、『発話の権利』(定延利之編)、『あらためて、ライティングの高大接続--多様化する新入生、応じる大学教師』(春日美穂・近藤裕子・坂尻彰宏・島田康行・根来麻子・堀一成・由井恭子・渡辺哲司著)などもテーマが関わっていると思います。

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執筆要綱・執筆要項こちらをご覧下さい。



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