西瓜喰う人

牧 野 信 一


 兎も角滝に、こんな辛抱性があるかと思うと全く意外な気に打たれる。然 し余だけは半ば無意識的であるが、努力! に対しては余程の好意を持って いる者に相違ない、でなかったらいか程退屈に身を持て余している者にしろ、 近頃の滝とこんな交際を続けていられるわけがない。(註。この文の筆者で あるBは滝と同年で三十一二歳の理学士である。そんな称号は持っていたが 今では彼は、別段専攻の科目は持っていない、彼は、これから自分の一生の 仕事を新しく定めようと迷っている男だった。)            
 滝以外は余には一人の友達もないのは余は、他人に対して稀に見る気短か と癇癪持であるがためなのだ。他人の目から見たら、そんなのではない、も っと悪い性質があるのかも知れないが自分では解らない。−−ただ滝との間 だけは古い。時には滝が、何か余に関する観察を述べないかなどと思うこと もあるが、面と向って互いに余りそんなことを述べ合わないのが無事なのか も知れない。この頃だ、余だけが滝に向ってあれこれと口出しをするように なったのは! それにしてもこの頃の滝に余が癇癪を起さないのは吾ながら 不思議としている。こんなに接近した交渉も初めてだが、こんな滝にも余は、 初めて出遇った! 彼の家の者は大して異ともしていないところを見ると、 内では屡々こんな病いを繰り返しているものとも思われる。二度は閉口だ。 彼の仕事が終わるまで我慢ついでに辛抱するが、年内にはA町へ移りたい。 余は、別段近頃の滝に特別な興味を懐いているわけでもなく、況んや彼の行 動に冷たい観察の眼を放ってどんな享楽に耽っているのでもない。昔ながら のただの友達であるだけだ。作家としても何も無い。余にとっての滝は飽く までもただ滝であるだけだ。滝の書いた小説は幾つか読んだことはある。そ れは余の知っている滝そのままのものであったから、もともと芸術のことに 関しては趣味も理解もない余であるが、解った。そして、創作とは称するも のの余の日録と大差無いものばかりであった。主に身辺の出来事とか果無い 思い出の類いとかを、無雑作に、彼の口調に似たたどたどした文章で書き綴 ったという風なものだった。ただ彼は、昔から余とはいつも裏腹な変に歪ん だ生活をしている。それを、そのまま投げ出しているだけで、知っている余 等にとっては至極自然なものだった。創作上の悩みが奈辺に在るかは計り知 らないが、滝の場合だけは余には、こう云えるのだ。「どうしてそんなに苦 心するのか、何を? 今年の春から夏へかけても君は相当に目立った経験を しているのじゃないか、君が僕に語ったいくつかの話は、それぞれ君らしい 短篇に纏っていたじゃあないか?」                  
 「…………」                           
 滝は、黙って俯向くに決っている。                 
 「仕事を口にしだしてからの生活には無いだろうがね。仕事のために仕事 をやり損っているという感じだな、僕の眼にさえ−−。」        
 「威すような口調で云わないで呉れよ。」と滝は、怯えたらしい眼眸でチ ラリと余の顔色を窺って、静かにわけもなく、妥協するように呟いた。「そ れもそうだね、仕事に没頭すると……。」               
 「妄想に走っているんだろう、好きな?」              
 「そんな余裕はないよ。」                     
 「不自然な苦心を弄んでいるのかしら、じゃ! 僕が聞いただけでも、ち ゃんと纏った短篇が五つもあったじゃないか?」            
 「この頃はないんだ。」                      
 「だって僕が、そんな話を聞いたのはついこの間の夏の頃だったんだぜ!」
 「あれはあれでもう済んでしまった気がするんだ。」         
 「僕に話したという事だけで!」                  
 「うむ……まあ−−。」と滝は、心持顔を赤らめながら勝手に点頭いてい る。                                
 「僕には解らない。」と余は、稍々軽蔑的な苦笑を洩らすのであった。 
 「仕事に没頭すれば、全生活が仕事になってしまう……。」      
 「結構じゃないか。」                       
 「今日この頃のような生活からは何か生れないかしら?」       
と滝は、質問するのだ。                       
 「それは−−。」と余は、もう明らさまなセセラ笑いを浮べるより他はな い。「生れないこともあるまいが、君が仕事を口にしだしてからの生活では、 何しろあれだけのことなんだからね、相手は僕一人だろう。夜の時間を除い て、あとはみな僕は知っているわけだ、蜜柑畑にいる間のことだって!」 
 「そうだ、ここからでは畑が隅々まで見えるね……。」彼は天井を仰いで 口を開けて云った。「仕事の期間が長過ぎるんだ。」          
 「そうさ。」と余は、わざと大きな声で点頭いた。余は、彼が家族と別居 していることを暗に非難もしているのだ。家庭との交渉が絶えているとする とこんな風になるのが当然のことなのかも知れない。その挙句何らかの芸術 的妄想に撹乱されているのだ。不自然なのだ。自己の小経験をあのような小 説体に綴る業が、それ程困難なものとは思われない。余は、皮肉な嗤いを露 わにして訊ねた、「この前にも矢ッ張りそんな風に骨が折れたのか?」  
 「この前の時のことは忘れてしまった。」と滝は酷く尤もらしい眼附をし てじっと首をかしげた。その愚かしさを余は、もう嗤うのも退屈になって欠 伸と一緒に呟いた。「忘れたら忘れたで好いよ。そんなに考えることもある まいし……。」                           
 「一寸した気分の上のね、影と光りという程の意味で−−。」と彼は、厭 に含羞むだらしのない口調で、「影と日向の、とを省いて題名にしたんだ。 後になって、それがwickednessの俗語だったことに気づいてね、ああ、思い 出すと今だに取り返しのつかない後悔に打たれる。」などと云った。   
 「チェッ!」と余は、思わず癇癪の舌を鳴らした。「早く帰って、今夜こ そは仕事に取りかかれよ。」                     
 すると彼は、突然赤くなって熱のある声で、             
 「仕事には取りかかっているんだよ。」とムッとして叫ぶと同時に物をも 云わずに駈け出して行った。わけが解らない。−−彼のぼんやりしている顔 だけが余の頭に、幻のように残っている。眼の前にいた時は、あれ程の心で 眺めていたのだったにも拘らず、一瞬後になると、無言の彼の顔がシーンと して余の顔をぼんやり眺めている。眼ばたきはする、時々言葉を吐く見たい に口も開ける、何にも見えない真昼の白々しい澱んだ静けさの中で余は、そ んな彼の顔に見入られている思いで、不気味さとも寂しさとも云えない、た だフラフラッと、煙りに巻かれるような妙な陶酔を誘われて、幻でない滝に 会っている方が救かる見たいな気がして来るのだ。彼の来るのが待遠しくな る。昼ならば、鵜の目をして蜜柑畑を探し出す、直ぐに見つかる。鋏を持っ た彼が、熱心に収穫の手伝いをしていることもあった。丘の上で大騒ぎの凧 上げをしていることもあった。車の後おしをしていることもあった。野良師 のお茶の仲間に加わっていることもあった。余がこの窓から顔を出している のを知っている筈なのに、見向きもしない。余は、ただ画中の人物を見る思 いで彼の激しい動作を飽くことなしに見詰めていた。どう見ても考えている 人の働き方ではない。−−どうも、ぼんやりとして何かの思いに耽っている 時は余の面前以外では無いらしい。独りでじっとして居られない男なのだろ う。夜だって、小説でない何かを拵えているのに違いないのだ。     


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