西瓜喰う人

牧 野 信 一


 −−辛抱性は好いが、余は日増しに滝の能力に不安を覚えるようになった。 彼に対うと何か彼の材料になりそうなことを、こんな生活に入らなかった頃 の経験から見つけ出して水を向けたりした。「この頃は細君と喧嘩する間も なかろう。別居では。夏時分は好くやったね。君達の夫婦喧嘩は一種特別だ。 どういう原因で始めて、なぜそこで止めたか、見ている者にはどうしても解 らない。何の一場面でも好いからそのまま思い出して見給え。あれらの小争 いを幾つか並べて御覧な、−−自ずと何かに通ずるものが現れるのじゃない かしらと思うがね、案外晴れやかな何かに出遇うのじゃないかね。」とか 「あそこの山の仏閣にお参りに行った時はどうだった? ファザーの三年忌 が明けたというので、今年からは君の名前で家内安全の祈祷を乞いにやらさ れたんじゃないか。マザーが、書いたお供物の上書きを見ると、君はまたど うして自分の名前までを代筆なんてして貰うんだい! それを見ると、どう だった! 君の家の例では家内安全と書くのが常なのに、君が気づかずにい て向うで開いた時に不図見ると、心願成就、滝何々と誌してあったそうじゃ ないか、そのことを僕に話した時の君の顔つき! と云ったらなかったぜ、 僕には名状し難いが! 御祈祷の種類は他に何種あるか君は覚えて来たと云 っていたね? うっかり記さないで行くと係りの人から種類を問われるんだ そうじゃないか。若し自分がそれを訊かれたら相当迷ったことだろうなどと 君は云っていたね。」                        
 こんなことも云った。「Y温泉にいた時に君の家内中が島廻りを企てた時 はどうだった、小さい発動機船でさ。君の嫌いな何とかいう叔父さん見たい な人も一緒だったね。君は、どうしてあの人とあんなに仲が悪いの?マザー は君達が後からYに来たんで却って迷惑がったそうじゃないか。君が酷く舟 に酔ったという話だったね。舟に酔ったのではなくて、或る気分の重苦しさ に参ったと君は云ったことがあるが、どんな重苦しさなの?」      
 「僕が舟になど酔う筈はないのだがな、ほんとに舟に酔ったのはあの時が 初めてだ。」                            
 「初めての舟酔い−−だね。そんなに苦しかったか?」        
 そう云って余は、故意に仰山に眼を見張ったが、それ以上滝は何とも云わ なかった。巻煙草の後先から立ち昇る色の違った二条の煙りを彼は、いつま でも見詰めていた。                         
 「初めて舟酔い−−か。」と余は、更に重く呟いた。         
 嘗て滝からあまり事細かに聞き過ぎたので、その場合の彼の感想の言葉や、 入り組んだ心持の上のいきさつなどは大抵忘れてしまったが、舟の中での滝 だけのことは覚えている。珍らしく酷い舟酔いをした滝が、苦悶のあまり、 うっかり、ゆくがままにのた打ち廻りでもすると舟が小さ過ぎるので危く水 が入りそうになるのであった。彼は二重の苦しみを味わなければならなかっ た。辛うじて胴の間に横たわっているのだが、のべつに胸が込み上げて来る のだ。だが、慌てて舟舷に走るわけには行かない。乗り手の一同が気勢を合 せて、舟舷に這い寄ろうとする彼に連れて、徐々と舟の中心をとらなけばな らなかった。彼は、胸先きに込みあげて来るものをおさえながら、やっと舟 舷にたどり着くと喉を鳴らして凄まじい吐瀉をした。そこに凭りかかってい れば好いんだが、深深と澄み渡った大海の静かな水を瞑っている眼の先に感 ずるだけで、ふらりと吸い込まれそうな悸気を震った。眩惑に堪えられなか った。で彼は、吐気が稍々静まる毎に再び胴の間に戻らずには居られなかっ た。その度毎に舟中の者があちこちに坐り直して慎重に舟の中心を取り直す のであった。みなの顔が蒼ざめてしまった。苦悶のあまりいつ滝が、中心を 踏み外すような急激な動作をしないとも限らない。滝自身も、それが怖ろし かった。滝の五体は、棒のように堅くなって、体全体で歯ぎしりするより他 はなかった。五分も経つと、また胸が込みあげて滝は起き上らずには居られ なかった。それぞれ注意の合図を交して、周囲の者は一投足に気づかいなが ら、また坐り直すのであった。それら一同の者の動作は、急速度の撮影機で とった映画の人のように、緩く、極度に緊張してそれぞれの位置から位置へ 移動することを繰り返した。終いには、滝のうめき声以外には一つの声を発 する者もなくなって、恐怖の極北で黙々として巧みに位置を保つことに専念 だった。怖ろしい注意力に怯えながら、吐き、這い、蠢き、転げなければな らなかった。凡ての神経を一本の槍に化して、吾が手で吾が胸に止めを射さ なければならなかった。終いには何を吐いているのか自分にも解らなかった。
 この不気味に静かな騒ぎを乗せた小舟は、朗らかな爆音をたてて鏡のよう な水の上を滑っていた。……島に着くと一同の者は、異様に根の尽きた仕事 を終えて、黙って顔を見合せたまま暫くの間はただ渚にぼんやりと突っ立っ ていた。折角快晴をたしかめて一家打ちそろって愉快な舟遊びを試みたのが、 滝の同乗で台なしにされた。帰路では滝だけが一人別の舟に乗った。用心し て上向けに寝ていたが、晴れた空だけを眺めていると案外に快くて、うつら うつらしながら浜辺に戻ってしまった。一人でなら、もっと乗っていたいよ うな気がした。その後舟に乗って見ないから解らないが、周囲の者があんな に怯えて、そして自分が亦自分の苦しみであんな風に舟をグラグラさせたの で、その騒ぎに参ったのだ、自分は当り前なら舟などに酔う筈はない−−と 彼は、思っていた。                         
 「もう一遍乗って見るのも興味があるね、君にとって−−。」     
 「仕事でも済んだら……。」                    
 「止したらどうだ、今度は−−君は、仕事のためで病気になっている。」
 「いや、僕は創作慾には燃えているんだ。」             
 「それが形がなくては無理だろう。」と余は、逆に勢いづけるつもりだっ た。「無を見詰めていたって、徒らに神経を衰弱させるだけのことじゃない か。」                               
 「無というわけでもない……いや、なんとかなる。でなかったら、寂しさ に堪えられない。」                         
 「じゃ君のこの頃の行動−−行動だけが仕事で、あれは寂しさを遁れる方 便なんだね。」                           
 「…………」                           
 「寧ろ僕は、君の仕事が羨ましい。」と余は、苛々してはき出した。さっ きから厭に首を傾げて沈思していた滝は、急にがくりと項垂れてしまった。
 居眠りでもしているのかしらと思いながら余が暫くたって、      
 「僕は、ここのところ暫く日誌をつけ損っている、何年にも無いことだ。 日誌なんてものは、その日その日につけて置かないと忘れてしまう。」と迷 惑そうに独語すると、滝は自分のことでも云われているかのように尤もらし く深く点頭いた。                          
 「この頃はまた僕が昼と夜との差別を失くしているんで、君までも−−。」
 「僕は君の生活を眺めているのが仕事見たいになってしまったね。日誌の つけようもないんだ。だが、とばすわけには行かないから一纏めにして記し ているんだが−−。」                        


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