西瓜喰う人

牧 野 信 一


 滝が仕事を口にしはじめて、余等の交際に少なからぬ変化が現れて以来、 思えば最早大分の月日が経っている。それは、未だ余等が毎日海へ通ってい た頃からではないか! それが、既に蜜柑の盛り季になっているではないか!
 村人の最も忙しい収穫時である。静かな日には早朝から夕暮れまで、彼方 の丘、此方の畑で立働いている人々の唄声に交って鋏の音がここに居てもは っきり聞える。数百の植木師が野に放たれて野の樹の手入れをしている見た いだ。その悠長な唄声、忠実な鋏の音を耳にしながら、風のない青空の下の 綺麗な蜜柑畑を、収穫の光景を、こうして眺めていると、余にでさえ多少の 詩情が涌かぬこともない。この風景を丹念に描写しただけでも一章の抒情文 が物し得ない筈はあるまい、常々野の光りに憧れ、影の幻に哀愁を覚えると か、余には口真似も出来ないが、光りと影については繊細な感じを持ってい るという滝が夢に誘われないのは不思議だ。木の実の黄色、葉の暗緑、光り の斑点などをここから遥かに見晴すと丘のあたりは丁度派手な絨毯だ。  
 畑通いの人に途上で遇う人は、一ト言彼らの労をねぎらう言葉以外の挨拶 は控えている。余などは、外出する毎にこの雰囲気から圧迫を感じるので好 きな散歩も遠慮して、眺めだけに代えているのだ。滝は臆面がない。誰とで も洒々と忙しさの挨拶を取り交している、自身も忙中の人であるかのように!
 相手が怪訝な眼付をするのも無理はない。彼は、この節季に昨日などは、 一寸見あげれば村中の人の眼にもつく、あの丘の頂きの芝生で半日あまり熱 心に凧を上げていた。他人事ながら余は、秘かに顔をあからめずには居られ なかった。創作の構想に余念がないのだろうと思って、注意は一切遠慮して いるのだが、それにしてはあの挙動は余りに落ち着きを失っている。決して 呑気そうに凧上げをしているのではない。折角あがりについたかと思うと、 慌てて引き降す、かと思うと又直ぐに、糸を伸ばして駈け出す。頂きから下 の畑際まで駈け降りても二度や三度ではあがりつかない。夢中だ。あの凧を 拵えるには彼は、長い間素晴しい夜業を続けた。余は、彼が小説の仕事に没 頭しているのかとばかり思っていたのだ。あれ程、始終口にして忙しがって いる創作に! 最後に釣りの懸け具合を乞いに来たので余は、初めてそれと 解ったのである。余は、内心唖然としたのであるが、眼付までも殺気立って いる気合いに蹴落されて諾々としてしまったのである。         


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