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 1999年4月5日 ひつじシスターズを連れて田中製本へ行く

 これはひつじシスターズの日誌に対するコメントとして書いている。今日は、賀内と阿達の二人を連れて、田中製本へ作っているところを「見学」に行ったのだ。

 私が、編集者になった時は、印刷所も、製本所も見たことがなかった。

 見たのは、半年後、製造担当者になってからだった。
 私は、鉛版屋さんで、鉛が溶かされ、紙の鋳型である紙型に鉛が流し込まれて、凸版の状態になってでてくるのを邪魔にならないように見ていた。それは、鉛版をできたところから、印刷所に届けるためだった。
 江戸川区にあった印刷所に鉛版を車に積んで届けると、印刷所の人は、新聞紙にくるまれた鉛の板を取り出し、印刷機に組付けをはじめて、紙を流し、印刷の刷りムラを丁寧に取るのを見ていた。ちょっとだけ、見ると、先に刷り上がっていた紙、刷り本という、を車に積んで、製本所に、正確にいうと折屋さんに届けるのだった。
 都心の印刷所のほとんどは、裏の路地にあって、車の運転をはじめたばかりの私は、ヒヤヒヤしながら、狭い道をバックで工場の入り口に付けるのだった。

 何を言いたいのか、というと、本当は仕事の中で、印刷所に行き、製本所に行って、その場で仕事を見たり、話を聞いたりして、お互いの仕事のやり方を知ると言うことが本当なんじゃないかな、と思うと言うことだ。どういうふうに仕事をしているのか、そういう時に見て、本の作り方を実際に知るということ。
 私は、製造担当者だったから、それがその時には中心の仕事だった。実際にものを動かした。むしろ、そのころは、編集は余技で、作ることが本務だった。だから、接する機会は多かったのだ。いま、組版のこと、出版のことを考えている素地にそういった経験があっただろうと、今にしてみると思う。

 現在のひつじの仕事はどうだろう。仕事の大半を本のページを社内で作ることに費やしている。実際に、現場におもむいてものを動かすということは、できるだけやらないようにしている。昔だったら、自分で動いて、印刷所へ行き、製本所へいき、納期を早めたものだが、DTPで忙しくてそこまで手が回らない。本を作るので手一杯だからだ。
 実地でできないので、本を作るところを見せたい、物理的にできていく最後のところを見せたいと思ったわけだ。実地でできないので即席で、「見学」してしまったのだ。面白がってくれて、そのことはとてもうれしい。機械が動いているのを見るのは、とても面白いものだ。その気持ちは、ものを作る気持ちの出発点だと思う。本当に大事なことは、本を作るという仕事に生かすということだし、本を作る中で、本を作る過程がわかってくるだろうということ。それには、まだ、時間が掛かるだろう。

 それにしても、女性が二人だったせいか、ずいぶん、優しく教えてくれた。アジロ折のカッターなんて、はずして見せてくれるとは。私の時にはそんなことはなかった。それはそうだ、今、直ぐに仕事をヤレー、とせかしているのだもの。もちろん、無骨な野郎だったせいだが。

 田中製本のみなさん、仕事中に迷惑なこともあったと思いますが、ありがとうございました。彼女たちは、自分の仕事に生かしていくことでしょう。

 1999年4月15日 言語学図書総目録1999でき!

 とうとうできた! 日誌に憤懣をぶつけて、それを大修館の青木さんが見つけてくれて、お叱りのメールをいただいて、スタートしてから、1年とちょっと、7人の侍が集ったのは、3月の後半で、それから1年とわずかの月日。
 本当に願ったことは、叶うものなのだ。
 今日のところは、ここまで。

 1999年4月18日 久しぶりに土日事務所へ

 久しぶりに土日に事務所に出ている。仕事がたまっているからだが、娘が先週から、幼稚園に行きはじめて、せめてその週は事務所に泊まり込まないで、少なくとも朝だけは顔を見て、少なくても言葉を交わしたいということも理由だ。いままで、家の中だけで育ったものが、幼稚園という「学校」に行くということは、かなり大変なことで、たとえは悪いが、兵役に取られるようなもので、今までの彼女の体験の中でとても衝撃なことだろうと思うから、せめて朝だけでもそばにいてやりたいと思ったというわけなのだ。

 仕事は、たまっている。いくつかの大きな仕事が片づいているが、予定を過ぎていて、後の仕事に影響しているのだ。大きなものは、3月からいうと学習院大学の紀要があり、昨年までは、別のものに編集・DTP作業・工程管理までやってもらっていたが、今年はその者がいないので、勘所は私がやった。もちろん、最後の締めくくりは私がやることだった。正直に言うと、7000万円しかないひつじの売り上げでいうと、かなり重要な部分を占めるものである。受注仕事の場合、取次経由の売り上げとちがって、あいだがないことを考えると2割程度をしめるのではないか。ミスがあって、来年から来ないと言うことがあると、ひつじ書房がなりたたなくなってしまう。

 次に『言語学図書総目録』を完成させた。DTPは友人の河西さんに手伝ってもらったけれども、最終的な責任は担当した私にある。これは、言語学および言語学の研究書を出している出版社の全体の利益をもたらすものであって、すでに予定の2月刊行から、2ヶ月も遅れていた。一万冊を越える部数で、失敗すると損失をカバーしきれない。なかなか神経を使う仕事であった。

 そして、恥ずかしながら自分の著書『ルネッサンスパブリッシャー宣言』を、ブックフェアの前にどうしても刊行しなければならなかった。出版界の動きは急を告げている。1999年のこの時期にどうしても刊行していないと行けなかった。これは、書評や投げ銭など今私が提唱し、関わっているいくつかの運動にも連動していて、この時期を逃せなかった。自分の本ではなく、もっと他にいろいろとやることがあるだろうと思われるかも知れないが、本当はもっと早く少なくとも3年前くらいには刊行していないと行けなかったと思われる。
 3年前とは国立国語研究所が、所員の出版社から出した論文を、無料で転載するという暴挙を始めた年である。暴挙だと思うが、多くの研究者が、出版社というものの意味が分かっていないということがありながら、出版社の側の説明が全くなかったことにも原因はあるだろうと思うからだ。だから、出版社の気持ちを公開することは、すでに遅いので、これ以上伸ばせるものではないと思ったのだ。

 日曜日にでるのは、電話もなく(あっても出ないが)、一人で仕事をするのははかどる。現在、新人を育てている過程にあって、もともとキャパシティの小さい私は、やはり、気持ちが分散して、あまりはかどらないように思う。いろいろなことを教えなければ行けないのだから、それも当然といえる。私が彼女たちを育てることが、たぶん、私にとっての今年一番大事な仕事だと思っている。このことがもっとも重要なことだから、時間をかけて丁寧に行うことは当然だ。もっとも、私の教え方が下手なのは妻に言わせると定評があるそうで、事実、学生時代、家庭教師を3回首になっている。昨年、編集者が辞めてしまったので、私しか本を作る人間がいないのが、問題なのである。でも、研究書の編集を求人を出して、ぽっと雇うということは不可能である。ひつじ全体では、彼女たちのおかげで重版も含めて本が出せていて、生産性は上がっているのであって、決して生産性はさがってはいない。この時期に出せている本は、昨年に比べると圧倒的に多い。私は彼女たちに感謝している。
 私は昨年の失敗の反省から、自分が気が進まない仕事を、誰かにやってもらうことはやめることにした。たとえば、執筆者の多い本は、面倒でやりたくないのだが、やりたくないものは私がやることにした。また、私が最後をしめないといけないものは、滞りがちになってしまっている。申し訳ないが、許して頂くしかないだろう。
 今、やっている湯川先生の『言語学』はやりたくない仕事ではないが、先に述べたものが全体に遅れたことで、後ろに延びてしまったわけだ。申し訳ない気持ちである。教科書だから、遅くとも4月の前半には刊行できていなければならなかったのに。

 仕事場と家庭が遠いのも、最近、疲れてきた。両親ともこれから相談するが、もしかしたら、住処も都内にうつるかもしれない。そうすれば、朝か夜か、娘と会いながら、仕事をこなしていくこともできる。今は、まだ大丈夫だろうが、娘が何か重要な危険信号を発していた時に、ちゃんと受信できる親でありたい。そのためには、日頃、会っていないと、微妙なSOSを感知できないだろう。コミュニケーションは簡単ではないのだ。小さい出版社が、企業と言うよりもSOHOなのだから、それなりの仕事の仕方というものもあるだろう。仕事と家庭の接近ということ。家賃が高いのが、とてもつらいけれども。

 

 1999年5月1日 放心状態

 5月になった。4月は、ほとんど日誌を書かなかった。教科書の重版、言語学図書総目録、それから、『ルネッサンスパブリッシャー宣言』が、どうにかできたこと。後者の二つは、ここのところの懸案であったこともあって、やっとできたという気持ちが強い。ほっとした気持ちが、とてもあって、一種の放心状態といえるかもしれない。
 『ルネパブ』は、ひつじ書房の10年目の総決算ともいえる。

 しかし、不思議な気持ちである。私が、文章をまとめて本にするとは。ひつじ書房を作った時も、それから、しばらく、ホームページを自前でメンテナンスするようになって、日誌をつけるようになるまで、文章を書いてまとめたりすることになるとは、全く思っていなかった。杉本つとむ先生と打ち合わせで、杉本先生の弟子の木村さんと早稲田大学出版会であった時に木村さんに「自分で本は出さないのですか」と言われたときに、そんな気持ちはもうとうないと答えたのは、心底真実であった。ひつじ書房のサイトを自分でpagemillを使って、更新をするようになったのは、96年のことだから、ほんの3年しかたっていない。
 ホームページにこうして文章を定期的に書くようになって、書けるかなという気持ちになってきたのは不思議な気がする。もともと、私は、心の中に何か伝えたいことがあると言うことで、始めたわけではなく、ひつじ書房の仕事の説明のためにはじめたことである。説明する機会のないわれわれにとって、これは本当の必要に迫られておこなったことだった。

 前の会社につとめていたとき、私は、著者や原稿を書いている人には、なるべく、私があまり仕事はしてないように思わせるのが上品だと思っていた。土曜日に仕事をしていても、日曜日に仕事をしていても、泊まり込みで仕事をしていても、そのことはなるべく、著者には伝わらないようにしたいと思っていた。土曜日には、原稿催促も、原稿についての問い合わせもしないようにしていた。
 ところがある日、F先生が、非常に憤慨して、ゲラがでて、再校まで行っているのに、もうやめる言われたことがあった。それは、ゲラの途中で、校正をきちんとしたペースでは返せない状態が続いていたからだったと思う。私の気がついていない別の理由があるのだろうか。そのとき、会社の雑務が増えて、しかも、当時は製造もやっていて、年度末だったから、編集にほとんど手が回らない状態になっていた。しかも、電算写植を一番最初期に導入したらしい、その印刷所は、活版ならば当然できた、2段組ができず、その上、発注費を押さえて、版下加工の料金を実際にはらっていなかったから、ゲラがでても、編集者である私が、レイアウト用紙に張り込まなければ、ゲラの状態にならないのだった。そんなゲラであるから、まとまった時間がなければ先にすすめることができないものなのだ。その時は、週に二日は泊まり込む体制になっていた。ところが、F先生は私が、仕事を全然していなくて、サボっていると思ったのだろう。何度か、自宅まで謝罪に伺ったが、お会いもしてくださらない。こんなことであるならば、仕事をどんな状況でしているのか、最初にお伝えしておいた方がよかったと悔やまれた。その時は、週に2回も泊まり込んで仕事をしていることを、上司もだれも説明してくれることがなかった。私を見捨てたことになるかもしれない。
 そんなとき、F先生に、あなたとは仕事をしないと書かれていた手紙を読んだその後、私は、表紙に金色の箔を押す箔押し屋さんへと車を走らせていた。丁度、伝通院の裏手あたりであった。狭い道の向こう側から、私のよく知った顔の人が歩いてきた。よく知っていると言っても、直接言葉を交わしたこともない。その人は、作家の野間宏であった。実は、私は、日本でたぶん唯一の高校生の時に彼の全体小説『青年の環』を2回読んだ人間であり、高校生の時には、心酔していた。彼の『文章入門』(絶版、旺文社文庫)は、何度読んだことか。この時の体験はとても不思議なもののような気がする。単純な偶然なのだろうが、何かの摂理というか、不思議なものを感じた。

 F先生と親しくしていたら、たぶん、独立した後に、中世文学関係の研究書をもっと出すことになっただろう。そうならなかったことは、結果としてよかったことで、これもある宿命だったのか、とも思ったりすることもある。

 話は飛んでしまったが、説明をすることの必要をその時以来、ずっと感じていた。その必要に迫られて、書きなぐるように書き続けてきたことが、書くことの自信のようなものを作ってくれたように思う。文才があると思うような思い上がりはない。ひつじの事情はもちろん私しか知らないわけだが、もっと一般的な出版社の事情であってもだれも伝えようとしないということがあって、切迫した必要が出発点であった。

 先日、『ルネパブ』を事務所で妻に献呈した。スタッフに冷やかされて困ったけれども、妻は、結婚式でケーキカットをした時以来の涙をこぼしていた。本当にひつじ書房が、ここまで来れたことは妻のおかげである。多くの人にお世話になったわけだが、第一番目は彼女である。また、彼女と出会わなければ、世間並みの人間にもなれず、無謀な試みに挑戦することもなかっただろう。その意味でも、感謝しないといけない。これ以上はやめておく。

 

 1999年5月4日 投げ銭は、600年の時間を逆転するというよりも

 昨年の夏から、いろいろなことがあったこともあって、いろいろ考えたり、また、いろいろな出来事があって、その都度、いろいろ考えたりして、私の人生の中でも、頭と経験の総動員というかんがある。キャパシティの少ない私にはつらいことだ。その上、高校生の時から読んできたばらばらに読んできた本が、不思議なことに再構成されて、意味がつながり始めているのも不思議である。読んだ本が、あれ、こんなことだったのかという感じ。本ばかりではなく、思春期の思い出までがぶり返してきて、奇妙な感じがする。もっとメモリーがあればいいのだが。
 投げ銭と『無縁・公界・楽』の連動。このためにこの本を読んでいたのかという気さえする。今、増補版を読んでいる。3月はことばになるかとおもっていたのに。つながりはじめた時は、気持ちが良かった。頭の中が、だんだんと整理されていく感じで、ハイになっていた。
 けれど、つながり始めたことを実感したことで、複雑な気持ちになってしまった。

 投げ銭は、安直にインターネットを大道を考え、情報発信者を大道芸人と考えたことから、考え始めたわけだが、賀内のひとこえや、意外な賛同を得て、スタートした。基本的に間違っていないと思っているが、たまたま放った矢が意図しないで核心を突いてしまったことを冷静に反省すべきかも知れない。核心を突いたことを実感するとその重みまで、遅ればせながら、分かってきてしまった。
 言葉が近くに来たと喜んでいるうちはまだ、うれしさが先に立っていたのだが、そのことを知るとさらに目標は遠くへと後ずさってしまったように感じる。網野さんの「無主の論理」までを投げ銭が含むとしたら、これは、人類的な規模の問題であり、中世から考えても、1333年からだから、600年のスケールということになってしまう。無主の論理の復活・再構築ということであり、網野さんが「中世の自由と平和」という副題を付けているが、世間まで視野に入れている我々は、自由と平和に止まらず、「友愛」ということばもつけ加えなければならない。明治からでも、200年であり、ちょっとやそっとで片づく問題ではないということ。我々は、もしかしたら、考えのひながたを作るところで終わりかも知れない。それはそれで、ともかくも、できるだけのことはしよう。来るべき投げ銭のための資料集(アーカイブ)を作ることが、せめてできる最大限のことなのかも知れない。

 もう少し、分かりやすく言うことにしよう。
 投げ銭は、所有ではなく、心意気によって、人と人とのつながりを再生しようと言うことを、最終的には目的としている。このことの可能性と不可能性の大きさ。
 中世は、今から言うと神話的な力、あるいは原始的な力によって、辻という境界における行為が、成り立っていた時代である。辻に属している行為は、世俗の権力の介入を許さず、汚れや共同体に属さないというマイナスの力を、逆転させることで芸能を作り、自由な空間を維持していた。それが、近代になるについて、世俗権力によって、神話的な力をそがれていく。極端な例だが、辻君というのは、今で言う娼婦にあたるわけだが、白拍子などが高位の権力者と渡り合えるような聖なる力を持っていたように、不思議な境界を超え、神聖な力を持っていたのにも関わらず、それが単なる娼婦になる没落の過程があった。
 その聖なるものが、単なる欲望の処理に移行することの、逆のことをめざすようなところが、所有を逆転させて、投げ銭という所有と非所有のグレーゾーンを作ることの背後にはあるのかもしれない。これは、ちょっとやそっとでできることではない。この巨大な時代の逆回しが成立しないと、投げ銭が実際にはなりたちえないのではないか、究極的には、と思ったりもする。

 これは、話しを大げさにしすぎだろう。

 ビオトープにしても、あまり評価しすぎることは危険かも知れない。例によって、妻の両親の住む溝の口に数日泊まったけれども、私の好きな雑木林が公園として残されていて、たぶん、ビオトープ的な設計がなされている例なのだろうと思うのだが、あの沿線の森林地帯の破壊が、非常に激しいものだったからこそ、住民が、ビオトープを求めたということがあるにちがいない。私の住んでいる東武伊勢崎線沿線は、もともと江戸時代に沼地を田畑に作り替えた非常に平坦な土地であり、森林を破壊しているという要素は少ないのだろうと思う。それゆえ、意識が高まらないともいえる。(農家も、ほとんど気にもせず余った除草剤を、あぜ道に捨ててしまう。なんと愚かなことだろう。農家は、21世紀にはビオトープ職人に生まれ変わる必要があるというのに)それに比して、その沿線の開発の痛々しさは、起伏のある山を切り崩しているだけに強烈に目に焼き付く。溝の口は、渋谷から20分もかからない位置にあることを考えるとこの造成は、農地法の改正の後のような気がする。その破壊の免罪符としてのビオトープだとしたら、どういうことになってしまうのだろう。

 言葉が頭の中で、回転しすぎている。我々が、試みようとしていることは、思ったよりも大きな問題のようである。その中に出版の問題も入ってはいるけれども、その範囲をもう少し見極める努力を先にしよう。ただ、今の段階で分かっていることは、短期的なことではないだろうということだ。

 長期戦の場合は、ゆっくり構えるに限る。勝利はしなくとも良いが、決定的な敗北だけはしないことが肝要だ。やっぱり、唐突だが、サパティスタ的に行こう。地下に潜るといわず、正規軍とは、ことを構えず、メディア対策はしたたかで、伝えたいことは公開していく。肝要なところでは、一発かましてやりつつ、普段は、昼行灯のようにパワーを押さえていく。考えてみるとサパティスタがNAFTA(南アメリカ経済機構?)の発行とともに、メキシコの南で反乱を起こしたということは、我々にとっても意味のあることなのかも知れない。

 たとえばなしでは分かる人にしか、わからないだろう。こういうことだ。インターネット決済協議会が、2000年にインターネットの決済の方法を、決めてしまうのである。この団体に属しているのは、大企業だけである。アメリカとメキシコなどの国々、国と南米にまたがる大企業の都合で決められらたNAFTAと同じ状況にあるのではないのか、ということだ。インターネットの中で生きているSOHOやNPOなどは、いってみればNAFTAにおける南北アメリカ大陸のインディオたちと同じ立場ではないのか、ということだ。買うことはできても、売ることができない、店を出すことができないのであれば、そこは辻でも神社の前の広場でもなく、幕張メッセの舗装された道路と同じである。そこには、生業もなければ、生活もない。生活もなければ、知性もない。

 いずれにしろ、はなしが大きくなりすぎた。

 大きくなりすぎると、そのための戦略を考えることもできなくなってしまう。目の前の大きな山を動かすようなものだから。だから、やはり、もっとささやかなものとして夢見ることにしよう。私のため、具体的に目の前にいるあなたのため、君のため、もうほんのちょっと楽しく仕事ができるために進むことにしよう。あなたとアイディアを話し、その一瞬の希望の輝きのために、頭を回転させることにしよう。あなたとあなたとあなたとあなたのために話そう。SOHOについて述べるにしろ、それはSOHO一般を救うためにではなくて、私自身がよいSOHOを営めるようになるために目的を限定しよう。よその人のためではなく、縁のある友人のために仕事をすることが、素直な道のように思う。よその人のために、話しを分かりやすくしようとして、内実が失われることのないようにしよう。すぐそばの友人が理解してくれればいい、そんなささやく言葉を選ぼう。

 宣言は終わり、寄り合いの場のことばを作る段階に入ったということだ。

 1999年6月14日 日誌をずいぶん休んでいた。

日誌をずいぶん休んでいた。

国語学会が京都であったこと。投げ銭のワークショップが、6月6日にあったこと。その準備で、5月はなかなか多忙であったこと。6月に住居を春日部から、一人娘を連れて事務所の近くに移ることを決め、借家探しをしていたことなど、いろいろなことが重なったせいである。

6月6日は、一生、忘れられない日になるだろう。投げ銭システム推進準備委員会の旗揚げを行ったことともう一つ、ひつじ書房の理解者であった徳川宗賢先生が、突然なくなられた日だからである。投げ銭については、別の機会に改めて述べるとして、ここでは徳川先生について申し述べることにしたい。

私たちが、独立するとき、縁のある先生方に手紙を出した。徳川先生にも挨拶状を出していた。その時、わざわざ、お返事をくださり、激励のことばをかけて下さった。このことは、はじめたばかりの私にはとてもありがたく、励ましになった。
また、無名であった我々のところから、『方言地理学の展開』を刊行して下さったことをありがたかった。たぶん、ひつじ書房に信頼を付けてあげようというお気持ちがあったのではないか、と推察している。その時は、本作りに不慣れな私の妻が担当させていただいたのだが、丁寧でわかりやすいみごとな校正の赤字の入れ方には、昔気質の学者の方は、こういう力を持っているのかと思い知らされた。その後、国語学会の代表理事になられてからも、個人的に、学会の将来についてどう思うのかとお聞き下さることがあり、「国語学会は、他の文科系の学会に比べるとまだ、いい方です」と申し上げたことを思い出す。
先日、『ルネッサンスパブリッシャー宣言』をお送りした時も、暖かいお言葉を下さり、「ざっと目を通しているが、またゆっくりコメントをしたい」と言っていただいた。これからいろいろとご相談にのっていただきたいと思っていた矢先の訃報に、力を失う思いである。ご冥福をお祈り申し上げたい。

私の房主の日誌はあと一回でしばらく休刊とし、7月から、「房主の妻の日誌」を開始する予定である。たぶん、子育てと仕事の楽しみ、苦しみを書き連ねることになるだろう。阿達が、編集担当になるので、なんとかなるのではないかと期待している。
ひつじ書房という言語学の専門出版社がなぜ「投げ銭システム」というものと取り組んでいるのかについては『ルネッサンスパブリッシャー宣言』を読んでいただきたいが、これでは不親切だということなので、あらためて最終回で述べることにする。また、新人の賀内、阿達との交換日記ならぬ公開往復業務日誌もできれば、7月からはじめたいと思っている。こちらは、彼女たちがどう育って行くかの記録にもなればと思っている。皆さんも二人を応援してほしい。さらに、私は投げ銭ホームページで「投げ銭日誌」を書きはじめる。そちらでまたお会いできればと思う。長い間のご愛読、厚く御礼申し上げます。

なお、青空文庫主催の富田さんが、「そらもよう」の6月13日の項で、『ルネッサンスパブリッシャー宣言』を取り上げて、寄り合いについて話されている。よろしければ、ご覧下さい。

 1999年6月23日 アルバイト募集

 終わりにするはずだったのだが、アルバイトの募集をする必要がでてきたので、募集をさせていただくことにする。朝令暮改か。すいません。

 大学生1年生か2年生。秋以降も週に1日以上これる人。

 仕事の内容 出荷の補助など

 時給800円。交通費全額、ひつじ書房負担。

 房主(isao@hituzi.co.jp)まで。

 意欲のある人を求めます。

 1999年7月1日 まだまだ続く。ああ、零細企業の悲しさ。

 懲りずにまだまだ続く、どうかもう少しお許し頂きたい。

 先週、やっとのことで、春日部から事務所の近くに引っ越しをした。これで、電車で三駅、時間にして30分かからないで行ったり来たりできるようになった。11時に帰途についても、その日のうちに帰れるのだから、ありがたいことだ。家賃もそんなに安くはないが、一時期と比べるとだいぶ下がっているのだろう。どうにか払える額である。

 ということがあって、自宅に帰っても仕事ができるようにNewPowerBook333をリースすることにした。私と妻と2台、それからついでにプリンターを一台ということで、100万円ちょっとのリースを申し込んだわけだ。しかし、IKESHOPというマックでは有名なところで、そこのリース会社がソニーファイナンスだったが、みごとにリースをはねられてしまったのである。100万円とちょっとの金額を返すことが出来るという信用がないということなのだ。

 こんなことを書いてしまうと、企業としての信用に関わるということもできるが、逆にソニーファイナンスというリース会社の信用調査能力のなさとして指摘したい。つまり、目利きではないということで、それはそっちの過失なのだ。

 とまあ、強気の発言だが、現在リース中の別の会社ではオーケーが出たので、書いているわけである。しかし、10年近く仕事を続けていても、信用というモノは全く作られないものなのだ、ということは驚くべきことだ。一方で、ひつじ書房なんて会社の力は、ゼロだということだろう。 いくら、たくさんのメディアに取り上げてもらってもそのことの変化はまるでないということだ。

 これは、日本資本主義の欠陥だ! などと怒るきっかけを与えてくれたソニーファイナンスに感謝を言おう。こういうことがあるから、仕事に熱がはいるのである。経営者というのは、その点ではリフレッシュできていいだろう。しかも、そんなことで、落ち込んだりする余裕がないのだから。

 おかしなことだが、もしかしたら、零細企業の社長がもっとも怒れる種族であり、プロレタリアートであり、むしろ、大企業のサラリーマンや学生が、高等遊民・貴族に近いのかも知れない。高等遊民の苦悩は、プロレタリアートには無縁だ。本当の汗をかいて仕事をしているから・・・。

 支離滅裂になった。この辺で・・・。

 1999年7月6日 ホームオフィスとしての再出発

引っ越しをして、新しい生活がどうやらはじまった。先週は、娘を連れての出勤をはじめて経験した。生まれて初めての経験。当然といえば当然であるが、これは3歳の娘にとっても同様なことである。というよりも我々以上に劇的な経験だろう。

予想していなかったわけではないけれども、電車に乗って通園するというのは、簡単なことではない。それはそうだろう。大人ばかり乗っている電車に乗らされて、駅のホームは電車が行き交う。人々は通勤・通学に足早に駆けるように歩いている。背丈の小さい彼女は、ちょっとぶつかっただけで吹っ飛ばされてしまう。我々は、シークレットサービスのように周囲を気遣う。後ろから駆け足で、前をよく見ないでやってくる学生、隙間を見つけるとつっこんでくるおばさん・・・。などなどを警戒していないといけない。

通勤が大変であるのだが、そんなことをして幼稚園に行くのだから、それはもっとたいへんなことだ。よく日経新聞の「私の履歴書」で、何キロという道のりを歩いて学校に通ったという話、苦労話がでてくるが、どうなのだろうか、確かに遠距離を歩いて通うのはつらいことではあっただろう、だが、苦労というものは時代によるものだとしたら、電車で通わないといけないのもやはり苦労であろう。

ただ、夫婦でSOHOを切り盛りしている身としては、ほかになかった選択なのだ。子どもを連れて仕事場に行き、幼稚園が終わったら、娘を引き取ってしばらく遊んだ後、どちらか一方が、娘をつれて帰る。こうすることが、娘といっしょに過ごす時間をきちんと確保する唯一の手段であった。

仕事場が、一気にSOHO(スモールオフィス・ホームオフィス)的な方向に流れてしまった。この場合は、ホームオフィスということである。仕事場としては、いささか変わった風情の中で仕事をするということになる。我々夫婦以外のスタッフもいっしょにこの強引でわがままな仕事の形態に引き込んでしまうことになってしまった。おおげさな言い方をすると戦後、職場と生活の場は、まったく別々の方が能率がいい、その方が仕事が効率的にできるということで、職場と生活の場は、どんどん離れていった。たしかに、いきなりおしっこをする子供の様子を見ながら仕事をするようりも、専門家に預けて、子供のことは気にしないで仕事に専念できた方が、あるいみでは良いだろう。しかしまた、それは行きすぎてしまったのではないだろうか。仕事を終えて変えると翌日になり、子供の寝顔しかみることができない。母親は母親で、子供の世話に大きな時間をとられてしまう。父親は芝刈りに、母親は、子守にという分業。勝手な意味付与かも知れないが、ここで、出版の自己解体と同じように、仕事と生活の分離の時代も逆転を始めるのではないか?

理屈はともかく、現実的に子供の声のする不思議な職場になる。自由なやり方だと思うが、それだけにきちんとすべきところは、きちんとしないとルーズになってしまう。生活と仕事が区別されていた方が、きちっとやりやすいだろう。しかし、あえて、別の道を行くわけだから、生活のリズムも含めて、こころしていきたいものだ。リズムをつかむまではしばらく掛かると思われる。無責任に仕事をするつもりはないが、つかむまでは、ばたばたするであろう。それもまた、一つの試みであろう。何とか乗り越えていきたいと思う。

 1999年7月7日 信用をしらべるのが、仕事ではないのか

結局、次にあたったところも、私の父親が保証人になる必要があるということを言ってきた。うーん。わずか、100万強のリースであるのに。リース会社の仕事は、パソコンを会社の代わりに購入し、その金額に利子を付けて、4年なら4年でその分を月割りにして、その金額を徴収しながら、会社にそのパソコンを貸すという商売である。基本的には、その会社がきちんとリース期間お金をちゃんと払えるかを認定するという商売である。信用を調べるのが仕事だと言っていい。

今までも一切延滞なく、きちんと返済もしている。ところが、保証人を立てろ、というのなら、最初から信用を調べる必要もなく、これでは、幼稚園の子どもでもできる仕事ということになる。つまり、仕事を全然していない商売ということになる。単純に保証人を連れてきてくれというだけの仕事。これで、仕事といえるのだろうか? うどんやさんに言って、うどんを注文したら、うどん粉を買って自分で作ってくれと言われるようなものだろう。

信用をしらべる能力がないのは、クレジット会社、銀行みんな同じである。土地やら連帯保証人やらでしか、判断できないということで、仕事をしているといえるだろうか。

もし、私がリース業社にリースのプロとして仕事をしたくて勤めているのなら、即座に退職するだろう。仕事がない会社に勤めていても仕方がない。キャリアも全然付かない仕事に居残っても意味がないだろう。土地が担保にならなくなりつつある時代に、彼らはいわゆるサラ金にまけるのは当然だ。消費者金融業は、まだ、その調査能力を持っているといえるからだ。本当の金融業は、世間的には残念ながら評価の低い消費者金融で、世間的には評価されている銀行、クレジット会社、リース会社でないというのは意味深いことである。余談だが、公的資金を銀行に注入するよりも、彼らに都市銀行を買収させればよかったのだ。そうすれば、税金を無駄にし、大企業は、仕事をちゃんとしていなくても、救われるなどというモラルを低下させる現象を引き起こすことはなかった。もっともショックは大きく、世の中に下克上があることをしらしめただろう。そっちの方が良かったのではないのか? 担保や保証人がなければ、お金を貸してくれないのなら、SOHOは資金を調達できないことになる。父親に保証人になってもらうことは、今回はしたくないし、NewPowerBook333も、なくても何とかなりそうなので、今回は手に入れることを中止することにする。

1999年7月16日 往来物を復権させよう

岡本綺堂の『風俗江戸物語』を読んでいる。その中に、江戸時代の教育についてかかれていて、江戸時代、庶民も武家も、庭訓往来を使っていたということだ。内容がなかなか面白い。江戸の名所や地名、東海道の地名などを織りまぜた旅の話とか。こうした実践的な知識を、書きうつすというスタイルで学んでいった。

手伝いに来てくれている学生さんに、大学で本を借りてきてもらった。これは、江戸時代ではなくて、室町時代なのだが、面白いのは訴訟のやり方とか、日々のコミュニケーションに必要なことが、往復書簡というかたちで示されているということだ。往復書簡と言うことは、ずばりコミュニケーションの技術を学ぶと言うことでもある。(ちなみに往来物というのは、往復書簡というスタイルで教えていく「教科書」のことである。)これは、なかなかすごいことなのではないか?

1 実際の知識が教えられている

2 その実際の知識はトラブルをも想定したものである。トラブルとは、権利の主張の行き違いやコミュニケーションがうまく行かなかった場合の対応策である

3 その知識の伝達方式自体が、お手本の手紙を読み、書き移すという方式をとっている。

4 つまり、学ぶ形式自体もコミュニケーションの技術を学ぶという作戦で行われている

現代の小学校の教育と比較してみると面白い

1 コミュニケーションの雛形は示さない

2 大学に行った場合に役立つ知識の基礎を教えている。大学の知識はそもそも、工学部以外は役に立たないから、そもそももともと意味のない物を学んでいるということになる

3 文化的な基礎能力を要請しない(往来物は芸能を理解するための基礎知識を伝授している)

4 人間はあくまで抽象的な存在で、訴訟のやり方などは教えない

5 人間はコミュニケーションを取る際に問題が起きないことが前提とされている

面白いのは、中世においても、隣の人は理解できる人であるという保証はなくて、お互いに、ディスコミュニケーションである可能性が高いという前提で、教育がなされているということである。

しかも、幻想化された理想的な人間になるように要請されている近代的な学校教育よりも、具体的にこれとこれができるように明文化されている方が、気が楽だ、と思うがどうだろう。理想的な人間像を想定してしまうという点では、国家主義も、戦後民主主義も、啓蒙主義ということでは、同梱であり、国家主義が国民を作ろうとし、社会民主主義が労働者としての自覚を求めたにもかかわらず、共犯的にサラリーマンを作り上げてしまったというのもおもしろくるしい。庭訓往来は、SOHOを作るのではないか。室町政権を支えた地方豪族=名主の基本的な性格が、SOHOであるのだから。

1999年7月23日 デジタルとアナログ

デジタルとアナログをことさらに対立項のように強調していう人がいるが、ぴんとこないのである。どうして、そのような安直な対立項を設定できるのだろうか。それよりも、使い手にとって可変かどうかの方が大きい対立ではないのだろうか。

この点で言うとテレビは、不可変であるのにデジタル化されているデータは可変である。画像も音楽も文章も使い手が変化させることができる。むしろ、こっちの項の方が大きいのではないか。インターラクティブ性といってもいいかもしれない。紙芝居のおじさんに、つまらなそうな顔をすれば、話し方を変えるだろう。辻の芸人にタイマイをはずめば、いっそう熱が入るだろう。電子的なテキストは、手に入れたければ、変えてしまえるし、個人的な意見をぶつけることも不可能ではない。メールで意見をいうのはそんなにしないかもしれないが、まあ、簡単なことだ。

よくテレビ局のアナウンサーが、デジタルなど縁がないし、関心もないといいつつ、弱者の味方のような顔をして、パソコンが使えなければ、アクセスできないのは、不公平だとかいう正論を発することがある。これは、やはり眉唾だ。情報を変えていくことのできること。これはうわさ話や、茶飲み話と電子的なデータ親近性がある。かえることのできない、しかも、実際にはさほど信頼性が高いわけではない一方的な情報を流していることの罪悪性を感じないのだろうか。

人々が介在できる情報か、押しつけられる情報なのかの方が大きい対立だと思うべきだ。

1999年7月25日 青年よ、ケイタイを捨て、ちゃぶ台に行こう

携帯電話で月に一万円以上も使うことは、ばかげている、と思う。

以前、岩波書店の雑誌「ヘルメス」の広告出稿依頼に、読者が月額5千円以上本代を使っているので、書籍の広告を打つのに最適な媒体である、という文面があった。月に本代に5000円というのが多い方なのか、と驚いたことがあるが、5000円以上というのは希な貴重な人なのであろう。その倍以上の金額を単に友人とだべるだけのために使っていることをどう考えるべきか。

誤解を避けるために言っておくが、私は情報のやりとりのスタイルとして、上から啓蒙主義的に降りてくる情報のスタイルは終わって、日々生活の中のことばが紬だされるなかでの知しか意味がないし、それを育むのは止めどない「会話」と「対話」だと思っている。その点でメールや長電話やおしゃべり自体は、歴史的な必然であるし、むしろ推奨されるべきことだと思っている。

それでもなお、月に一万円は高すぎないか? 本が数千円で高いという時代である、この本で助かったでも2400円が高い(参照)という時代である。なぜ、主体的ではなく、取られ放題の電話代のコストについては問題としないのだろう。取られてしまうお金は、どんどん湯水のように払うくせに、自分で財布を開ける段になると、わずかな金額を渋るのだろう。

しかも、驚くべきことは携帯電話のコンテンツは、友だちとの会話なのだ。この会話のために、かなりのお金ををほとんど平気で払う・・・。投げ銭では、いかに10円とか100円とかをやりとりできるようにするか、ということの難題をどう解くかに取り組んでいるというのに。取られてしまうお金には頓着しないで、払うお金には財布を開かない。これは、一言で言うと「源泉徴収感覚」という一種の奴隷根性だろう。年貢は取られるので何も考えないが、大道芸人にはびた一文渡さないということ。税金、社会保険、民放テレビの聴取料。この感覚が、自分が作っている、支えている、関わっているという感覚を失わせた・・・。コンテンツが友だちとの会話であるのに、そのお金はどこにいくか? 電話屋に行くのだ。

この出費は、あらゆるコンテンツ制作者を打撃している。映画、本、演劇、コンサート、音楽、そして居酒屋までも。

そもそも、携帯電話という商品の不完全性は犯罪的である。水没というそうだが、機会が普段持ち運ぶ形態でありながら、日常的に起こる水塗れの事態になんの対策も講じられていないし、告知も全くされていない。この点では、織田祐司も鈴木京香も広末涼子も同罪の犯罪人である。なぜ、広告でその不完全さを告知しないのだろう。

先日、妻が購入したIDOの機械を、娘をトイレに連れていったときに、落としてしまった。これを翌日、お茶の水のIDOに持っていくと、修理センターに送るという、しばらくして電話が掛かってきて、戻ってきたから取りに来て欲しいという。ところが、電話では一言も直っていないとはいわないに、訪れたら、壊れていますので、買い換えて下さいという。このようなサービスがあり得るだろうか?2万円のものは、瞬時にパーになってしまった。はっきり言ってこれは詐欺だ。少なくともまともなサービスではない。即座に解約することにして、わずか数日のケイタイ生活を終わりにした。が、多くの人は、何も問題も感じていないのだろうか。やはり、「源泉徴収感覚」という奴隷根性だろうか。あるいは金銭の不感症。

会話を延々と続けるのはいい、しかし、この金銭感覚は、即刻やめてしまわないとコンテンツが、滅んで行くだろう。もし、そうなったとしたら、今の若い世代の選択がそうさせたということになる。もちろん、電話代が高すぎるということが出発点の大きな問題であることは忘れてはならない。それにしても、これはおかしいのではないかという気持ちはぬぐい去れない。

ああ、会話と対話ならば、ちゃぶ台があればいいはずだ。リアルなちゃぶ台というものを復活することは叶わない夢だとして、その程度のコストしか掛からない通信手段というものはないものか。今のコストの段階では、ディスクトップに戻って、電子メールを使うのは正解なのではないか。

1999年7月28日 「自分の好きなことは、仕事にしない方がいい」か?

学生と社会人との違いは、何だろうか。社会人の中にも、2種類あると入っておくべきだろう。自前で生きている人。SOHOを営んでいる人が、もっともこれの中核的な存在だけれども。SOHOと言ってもデジタル産業の下請け人という現実的な意味ではなく、小さなオフィス、家庭のオフィスというもともとの意味でである。この点では、農家や職人なども含まれる。自分で自分の仕事に責任をもつ、あるいは持とうとしている人々と言ってよい。一方、勤め人として生きている人が、この逆の極としている。サラリーマンと言ってもよい。作った仕事、制作物に対して、個人では責任をとる必要のない人。言葉で謝るけれども、自分自身を痛める必要のない人と言うことになる。

もちろん、たまたま運が良くて独立してしまったり、昔で言うと脱サラという一過性のブームに載って間違って、勤め先を飛び出してしまった人などは、自分の仕事に責任を持つ必要がないから、あてはまらないということになるし、農家の大半が、どうも人のまねをしていればいいという気風に染まっていないようにも見えないということ、勤め人になり損なって残念であるという風に思っている気配が濃厚であることも、自前で生きているとはいいがたいと思う。勤め人でも、自分の仕事に心底打ち込んでいて、自分の体の一部のように感じて仕事をしている人も少なくないだろう。問題なのは、組織ではなくて、仕事であり、仕事のやり方の質である。

以上の自前で生きているかそうではないかの2つのタイプは、プロトタイプとして見ていただきたい。

「自分の好きなことは、仕事にしない方がいい」

好きなことを仕事にするとつらくなるから、仕事と好きなことは別にしておいた方がいいというアドバイスがある。本当に自分の好きなことを見つけるというのはどういうことなのか、という難問はおいておく。本当に好きなのか、単に好きな気がしているだけなのかを区別するのは難しい。自分が何が好きなのか、気づくことは難しいかもしれない。私個人は好きなことの定義は、疲れないことだから、前の提言とは違った立場に立っていることになる。

「自分の好きなことは、仕事にしない方がいい」ということを言い換えると、自分の嫌いなこと、あるいはさして熱意を感じないものを仕事にするということになる。しかし、人生のかなりの多くの時間をそんなことに使うことは、そもそもできうることなのだろうか。熱意を感じないことに長い時間を費やすということは、経済的な理由ということになるだろう。仕事は、好きこのんで行わないことをあえて行う代償として経済的なものをうるということになる。単純化して言うと。

私が、ここで思うのは、サラリーマンという仕事の地位が安定していたことから、余暇があって初めて成り立つ考えなのではないか、ということだ。仕事が経済的に不安定であれば、好きなことをしないで人生をしのげないのではないか。嫌な仕事をして、経済的にも安定しないのであれば、つとめというものがなりたたないのではないか。

若干の飛躍があるかもしれない。しかし、ここで言っていることは「好きなことを仕事としようとする希望」についての話である。そういう願望さえも、否定した方がいいという発言に、趣味と仕事を分けてしまう発想があると思うのである。そもそも余暇というものは、仕事と趣味が分離することで発生した。この点でも、余暇に自分の好きなことをするという発想は、サラリーマンのものである。

ここで、断っておかなければならないだろう。先に好きなことを見つけることができるか、ということを述べた。好きなことというものも、一種の恋愛と同じで、一目惚れをした人と結ばれることもあるが、そうではなく、あるいは一方的に好かれていて、いつの間にか、好きどうしになるということもある。嫌いだと思っていたら、意外と相性がよくて、好きになることなど、主体的に選ぶあるいは見つけだすと言うよりも、出会いや運命、偶然に左右されるものだということである。好きになるということも必ずしも主体的に決めるとばかりはいえないだろう。

この項どんどん続く。

1999年7月31日 新しいバイトの学生さんが来た

7月も今日で終わり。近代語研究のゲラを、近代語研究会のメンバーでもある校正の第一人者の方に送って、ボランティアで確認をしていただくために、発送した。Sさん、お世話になります。それと『時間とことば』のゲラを長野先生に送った。こっちは、そろそろ本になろうとしているところ。

さて、今月末から、阿達が、絵日誌に書いているように学生さんの新しいバイトの人に来てもらいはじめた。今回は、早稲田大学のある先生にひつじが募集していることを大学も授業で話してもらい、それであまり来なかったので、上智とお茶大の学生課に募集を張り出しだところ、思いの外、募集してもらい、総勢六名になった。大学1年生から2年の人たちだ。今は、出荷と本のクリーニングをしてもらっている。

去年から来てもらっている早稲田のアルバイトの二人には、先日、htmlの書き方を教え、今はperlでUNIXサーバーで簡単なプログラム(CGI)を動かす練習をしている。htmlもきちんと使えているのは、スタッフの中の彼女たちのページを見てもらえば分かる。彼女たちは、きちんと仕事をしてくれていたこともあって、なかなか優秀だ。そんなに難なく、上達している。perlを動かすなんて、私が学生の頃には全く考えられなかった。perl を使って、ホームページをインターラクティブに動かすことは、web出版では重要なことだ。

私が、こつこつ作ればいいのだろうが、時間がなかなかとれないし、彼女たち二人が、使いこなせるようになってくれることは、とてもありがたいことだ。それに、卒業してどんな仕事に就くにしても、たぶん、perlを使えることは、意味があることだろう。今は3年で、この冬からは就職を考えることになるだろう。簡単な物であってもプログラムを走らせることができることは、仕事で使うようになるかは置いておいても、コンピュータに使われる人間ではなく、使う人間になる必須の技術だろうと思う。

今来てくれている、二人の場合は、実際には五人来てくれた中で、ひつじに波長があってのこってくれたの二人なのだが、今度の六人の方たちはどうだろう。期待したいところである。

日誌 1999年3月

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