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(12/18)デジタル共産主義のススメ(松本 功)
松本 功 ひつじ書房代表取締役
筆者写真 私は、出版社を営んでいる。普段は言語学という堅いジャンルの本を出しているのだが、先日、ちょっと変わった内容の本を刊行した。『ポスターの社会史』(法政大学大原社会問題研究所編 梅田俊英著)というタイトルの本で、本の内容は、大原孫三郎のフィランソロピーによってできた大原社会問題研究所が、戦前に壁や柱からはがしてきて収集したポスターをカラーで、紹介しているものである。本文での紹介以外に2700点の図版を収録したCD-ROMを付している。カラーテレビが普及する前、カラーのメディアは少なかったことを思い起こせば、カラーのメディアとして人々の目に鮮やかに映ったと想像できる。

■「無産者主義」ということば


 今回は、そのことを宣伝したいというのが、中心のテーマではない、その内容もさることながら、私はあることに注目した。そのことについて話したい。「無産者主義」ということばである。戦前は共産主義ということばは禁止されていた。その代わりに、「無産者主義」ということばを用いた。無産者とはプロレタリアートの翻訳であり、主張としては、共産主義と同一だと思われるかもしれない。社会科学の研究でも、別にそれは同じであるというのがたぶん通説だと思うが、それは間違っているのではないだろうかということが、今回の私の問題提起である。

 どこがちがうか。共産主義ということばは、「共」に「産」するということである。一方、無産者主義は、何も生産手段を持たない人々という意味に過ぎない。この意味では、無産者ということは目的にはならない。本来は、何かを作りうる立場になること、それも共同で、ということであったはずが、なぜか、無産者が目的になってしまうと、生産手段をどうマネジメントしようとか、働き手である人々がどうお互いに、モノを作っていこうという発想がでてこない。もう懐かしい言葉なのかも知れないが、共産主義者と名乗っていた人々が、批判だけで代案を出さない人々のような印象が強いのは、「産」の発想がなかったためではなかろうか。

 もう少し具体的に言おう。私は、戦前のことではなくて、今のことを言いたいのである。現在、オープンソースの運動があり、基本的にソフトを共同で、参加者がともに作り出そうという運動である。ところが、それがネットの海に投げ込まれたコンテンツは、音楽であれ、テキストであれ、画像であれ、無料でなければならないとか、共有とは無料のことであると主張する人々が現れてしまった。

■情報を「共に産する」発想


 彼らは、ネットワーカーのある気分を反映しているといえる。コピーできるものは、タダでいいということ。多くの人々は、声高にそのことが当然の権利であるとか、正しい考えだとまでは言わない。しかし、いいじゃんという空気である。残念ながら、コピー可能なものに対価を払うというビジネスのモデルが、なかなか成立しにくいということは率直に認めよう。

 ただ、情報の生産と流通の中心が、ネットに移行していくこれからの時代に、ネットが、そのような状態であっていいのかは別の問題である。情報を作り、発信することに、何らかのフィードバックが行えない状況で、優れたコンテンツが生産され、継承されていくことが可能だろうか。問題は、このような問い自体が、現在、否応なくはらんでしまう「無力感」である。値段を付けていない優れた情報がたくさんあるではないか。それはそれで成り立っているわけで、それを逆転させて、有料にしろと言うのはおかしいのではないか、と思う人もいるだろう。無料の情報だけで間に合っているので、別に有料の情報など必要ない…。善意を強制されるのはゴメンだ…。私は、ネット上のコンテンツに、値段を付けろと言っているのではない。公共性があるのであれば、その公共性を持続的に支える仕組みが必要だと言っているのである。

 情報の共有を叫ぶ人の多くが、共有という名のもとに、実際には無料を志向していることがある。それは、私には、作り手になるという発想の無い情報の「無産者主義」に思える。共有といいながら、実質的には情報の消費を求めていることが多い。自分は何も持っていないのだから、人のものを奪うのは権利であるとまで言い出す。そこに存在しないのは、自分が情報の作り手になるという発想である。これは、無産者主義と呼ぶべきだ。

 これからの時代、重要なのは、どのように参加し、どのように情報を「共に産する」のか、であり、情報や知識をどう経営していくかという問題である。経営学と共産主義は、本来、同じことを目指している思想なのだというと、冗談だと受けとめられるかも知れないが、私はいたって真剣である。ナレッジマネジメントということばを、ナレッジでマネジメントするだけではなく、むしろ英語としては正しいと思うが、ナレッジをマネジメントすることも含み込んだ学問に作り変えてしまおう。この意味で、情報に対する「共同」のマネジメントとクリエイトの社会の実現を目指して、情報共産主義あるいはナレッジ共産主義をまじめに提唱したいと思いはじめている。

(なお、ポスターの社会史は発売中ですので、書店でご注文下さい。)