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(9/21)インターネット革命は幻だったのか(松本 功)
松本 功 ひつじ書房代表取締役
筆者写真 インターネットが、普及し始めた1990年代の半ばにさしかかろうとするころ、インターネットは、市民のメディアであると強調されていた。市民の放送局ができ、市民の新聞社ができる。大きな組織に属さなくても、既存のメディアに対抗できる新しいメディアができると主張されていた。

■下克上のためのデジタルデバイド


 既成のメディアの中にいる人よりも新しいメディアの可能性に気がついた人との間に下克上が起きて、既存の組織の中にいないことは逆に優位な点になる可能性。私はひつじ書房という小さな出版社を経営しているが、インターネットという媒介を使って、日本の片隅にいても、世界に情報を発信でき、本を売り、あるいはもうすぐ出ると言われていたアドビのアクロバットを使って、本自体を地球の裏側であっても、アメリカ、ヨーロッパの読者を相手にしても、出版活動ができるのではないかと思った。出版している言語学というジャンルが、地域的な限定があまりないということもあって、世界の言語学者に向けて、日本語あるいは英語の本を送り届けることを可能にするはずであった。私の経営するひつじ書房が、インターネットにホームページを作った時は、出版社でホームページを作っている社は、10社に満たなかったはずだ。

 私は、インターネットの情報発信の可能性に、新しい出版社が、大きな出版社と対抗し、あるいは大手出版社がまだやろうとしていない方法を駆使することで、それまでの立場を組み替える可能性を夢見たわけである。この意味では、テレビ局のアナウンサーが、インターネットなんか必要ないと雑誌で答えていたような時代に、デジタルデバイドは、資本を持つものと持たざるものに分かれるのではなく、新しい勢力と古い勢力の間にあって、構造を変える可能性をもったものであったかもしれない。可能性としてのデジタルデバイド。

 今や、デジタルデバイドは、すでに持っているものが、持たざるものとの差を拡大するものということになってしまったが、そんな可能性も夢想されたということは覚えておいてもいいだろう。下克上のためのデジタルデバイドなら、そんなにわるいものではない。アメリカの経済学者コースが指摘によれば、情報の入手や伝達コストが、大企業という組織形態を必要としたわけだから、情報の入手が圧倒的に容易になった時代には、大企業から、小さな企業あるいは国から個人にパワーがシフトしていくことが、可能であるのではないかと思われてもいた。

■徹底的な情報発信コストの下げ


 なぜ、ほとんど構造が変わらず、新しいプレイヤーが育っていくようにならなかったのだろうか。インターネットは、情報発信のインフラとしては、圧倒的なパワーを示した。何かを書き、それをホームページにアップし、見に来た人が見るというレベルでは、歴史はじまって以来の拡大を実現した。本は売れないかもしれないが、文字を書き、読むというレベルでは、爆発的な拡大がこの数年間に起こった。何かを調べようと思ったときに、インターネットで検索すれば、下調べのレベルなら、かなりのことがわかる。

 インターネットの実現したものは、情報の発信のコストを徹底的に下げたということである。実現していないものは、必要な情報にアクセスするための経路と重要な情報を育てていく機能である。情報の生産には、情報発信の機能だけではなく、優れた情報発信を評価すること、評価された情報と情報発信者に対して、経済的なフィードバックが、必要だ。1990年代の半ばの時点で、正確で冷徹な認識があれば、可能性の範囲でビジネスをすることができただろう。経営者としては、反省すべき点が多いけれども、遅れてきた(あるいは早すぎる)人文書の専門出版社という存在の範囲ではどうしようもなかった。

 インターネットは、核戦争にも耐えられる分散的な通信網として作られ、分散型社会をもたらすといわれていたはずであるのに、実際には経済情報の中心は、ニューヨークに集中しており、一群のビルの中に世界各国の銀行が集中していたという事実。インターネットは本当に分散型の社会を作るツールとして機能しているのか。そのこと自体も、幻想に過ぎなかったのであるのならば、インターネットはまだしばらく先の夢なのか、それとも単なるウソであったのか。

■情報をきちんと扱うには?


 インターネットの普及した社会で、なぜ、グローバル化という画一的な価値観が強固になるのか。たとえば、インターネットの普及によって、我々はアラブの情報を以前よりも多く入手できるようになったのか。グローバル化の中でひずみを多く被っている人々の声に接しやすくなっているのだろうか。1980年代は、米国こそが、反ソ連ということでアフガニスタンを支援していたという歴史さえ、忘れ去られてしまうような情報の忘却は何なのだろうか。情報の増大の中で、量の点では減少、歴史的には健忘症になってしまったのではないか。これが、分散化といえるだろうか?混沌にすぎないのではないだろうか。

 情報の洪水化ではなく、情報をきちんと扱うにはどうしたらいいのだろう。出版、編集という仕事に関わる人間として、インターネットに期待を寄せた人間として、考え続けたい。