日経ネット時評に掲載されたものです。ぜひともこちら(日経ネット時評)をご覧ください。
(8/1)脱記者クラブの先に必要なもの(松本 功)
松本 功 ひつじ書房代表取締役
筆者写真 ある新聞記者の方と話をしていたとき、脱記者クラブの話になった。その方が言うには、記者クラブを廃止したところ、新聞記者ではない人が会場で、政治家に「朝食はなんでしたか?」と質問したという。記者クラブは、行政や警察の広報機関になってしまっているという批判があるものの、それなりのプロを養成し、水準以上の記者によって、運営されて内容のある取材が行われるというメリットがあるともいえるのではないか、ということであった。

 記者クラブがなくなれば、外国の新聞記者はもちろん、高校新聞の学生記者であれ、一般の市民であっても出席して、質問できるようになるのかもしれない。その時、一般の市民の質問のレベルが、低いのか、それとも高度なのか、実際に行われつつある脱記者クラブの流れはどうなっていくのだろうか。

■記者会見への出席だけでは不十分


 組織に属しているプロの記者の側が、普通の人から、質の高い質問などでてくるわけがない、と冷笑することが可能なのだろうか。もし、質の悪い質問が出たとして、それは記者クラブを壊してしまったからなのだろうか。記者会見を公開するということは、その場に出席するというアクセスの権利をオープンにするということである。でも、それだけで、今までの新聞社に属しているに対抗できる質の質問ができるような下地があるといえるのだろうか。(以下、新聞社などの記者クラブに加盟している人を「プロ」と書くことにする。)

 当然のことながら、「プロ」の記者は、それなりのトレーニングを積み、経験も積んでいる。そういうものは重要だ。しかし、それ以上に、今までの取材の記録の蓄積、記事検索データベース、あるトピックの専門家のデータベースなどが、新聞社などにはあるわけである。記事検索データベースにしろ、高度なものになれば普通の人がコスト的にも、検索するノウハウがないという点でも使えるものではない。

 単に記者会見に出席できる権利が公開されただけでは、不十分だと考えるべきではないだろうか。会社に所属する記者にしても、もし、フリーになって、自前で取材しなければならないとなったらどうなのだろうか。記者クラブが廃止されれば、出席することは可能になる。しかし、会社に属していたときと同じ程度の質の内容を書こうとしたときに経験は十分に積んでいるにしろ、裏を取ったり、発言の行間を読むための事前調査が十分にできない状態ではまともに対抗できないのではないか。

■記事を書くための社会的インフラがある米国


 私は将来、市民ジャーナリストというようなセミプロの書き手、取材者が自分のこと、関心に応じて、自前で取材する時代が来ると思う。ただ単に、発表された記事を読むだけではなく、記事のさらに深いところを知りたいと思う市民が現れるのではないか。そうなったときに、「プロ」が使っている取材源が可能な限り、共有化されていない限り、質が高いものができない。

 アメリカでは、市民向けのシンクタンクがあり、それがフリーの記者や、市民サイドに立った記事を書くジャーナリストを支援しているという。記事を書くということのための社会的なインフラが、社会に存在しているということだ。さらにアメリカの公共図書館の多くから、様々な新聞や業界紙や指標などのデータベースが、(公共図書館がライセンス料を払った上で)だれでも無料か安価にアクセスできるようになっている。一般的な市民であっても、情報のデータベースにアクセスできるということである。このような社会的にインフラがあることで、専属の記者ではなくても、内容のある質問ができるようになるわけであり、ただ単に記者クラブを壊して、アクセス機会を均等にしたというだけでは、たいした質問も来ないから、「プロ」の記者は安心していられるわけだ。

■重要なリソースへのアクセス平等


 たとえば、記者クラブを廃止した長野ではどうなっているのだろう。記者クラブを廃止するのなら、たとえば、長野県立図書館で高度なデータベースが市民に無料で使えるようにするようなことがあってもいいのではないか。さらに情報検索に慣れていない人をサポートする専門司書を揃えて、基本的なデータ操作の方法を手ほどきする。

 公共図書館が、しかるべきライセンスを払って、自由に高度に使えるようなインフラを社会に作るということだ。そうすることで、今までの「プロ」の記者と市民が競争しあえるわけで、ある場合にはさすがプロの視点だと評価されるだろうし、市民自身の視点が、データに裏付けされて、核心を突いた取材されることになるだろう。「プロ」の記者もうかうかしていられないと思えば、記事の質も上がるだろうし、会社からスピンアウトしても、原稿を書きつづけられるということは、実際に辞めてしまうかどうかは別にして、組織に左右されない気概のあるジャーナリストが増えることにつながるのではないだろうか。

 この問題は、アクセス権の公開だけでは、十分ではないと言うことだ。もし、既得権に守られた活動が、新しい活動に変わるためには、単にオープンにするだけではなく、新しい参加者に同じ様なリソースにアクセスできるということ、さらには、新しい参加者が、経済的に成り立つような(永遠である必要はないが)支援までもが必要になるのではないか。経済的な支援については、次回述べたいと思うが、リソースへアクセスできて、はじめて、オープンにすることの意味が出てくる。これはジャーナリズムの問題にとどまらないはずだ。