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(4/27)新しい情報・コミュニケーション理論を ―シャノン博士没に際して―(松本 功)
松本 功 ひつじ書房代表取締役
筆者写真 シャノン(1916年〜2001年)がなくなった。シャノンは電子計算機でプログラムが動くことを証明し、コンピュータ文明の基礎を作った一人で、情報理論を作ったと言われる。シャノン氏の死去にあたり、コミュニケーション理論の変革について考えたい。シャノンの伝達モデルは、簡単に言うと「情報の発信者がいて、信号を、電気的な経路で伝達し、受信者がその信号を復元する」というものである。言語学者にも影響を与え、コミュニケーション理論の基礎にもなっている。そればかりか、多くの人々の言語観にもなっているのではないだろうか。

■ことばがそのまま働きかけるという「信仰」


 さて、ここで話は飛躍する。最後にはつながるので、しばし許されたい。「公園をきれいにしよう」という標語が張り出され、学校で先生が「いじめはやめにしましょう」と言うことを、誰にも批判できない正しいことをいうから、無意味なのだという人がいる。でも、そうなんだろうか。問題であることについては、共感するが、問題点は違うのではないか。「公園をきれいにしよう」といえば、みた人はゴミ拾いに立ち上がると思っていることが問題点なのではないだろうか。ある子どもの精神カウンセラーは、ラジオで不登校の子どもたちに学校にいきなさいと言わないことに対して、視聴者から「子どもたちのいうことばかりきいていて、なぜ先生は、こどもに学校に行きなさいと言わないのか」と問いただされた。

 この発言の背景にあるのは、ことばは、そのことばが伝達されれば、それがその伝達された人の中で意味を持つという「伝達即実行」という発想があるのではないだろうか。(カウンセラーの例でいえば、学校に行けなくなっている子供に、「学校にいきなさい」ということばは、場合によっては「あなたは学校に行けないあなたはダメな人間だ」というような意味になってしまうのに、いいことをいえば伝わると信じている人がいる)。良いことを教えれば、良いことを行い、悪いことを教えれば、悪いことをするはずだという考えが見える。この考えは、教育の場所でも広く受け入れられている。人々がゴミを捨てているということが問題になると、学校で、ゴミを捨ててはないけないという講話が行われ、自殺をすすめる本がでると自殺する人がでるといけないと禁書になる。ことばがそのまま、人々に働きかけるという「信仰」があるようなのだ。

■意味の伝達も視野におさめた情報理論


 ここでシャノンに戻るが、本当にそうだろうか。ことば(文字列)が、受信者の頭の中で再生されたとして、そのことばの意味は本当に伝わることになるのだろうか。

 「公園をきれいにしよう」という文字列を見て、その文字列が頭の中で再生することができたとしても、公園をきれいにする活動に励んだり、落ちているタバコを拾ったりするものではあるまい。その公園が、自分の子供の遊び場であったり、清掃ボランティアをやっている友人に誘われて、などの関係があるときに、きれいにしようと思うかも知れないが、標語の文字列で行動を起こすことはないだろう。ことばを過信すべきではない。

 文字列の伝達と意味の伝達は別の次元の問題であり、コミュニケーションのためには、情報の伝達以上の何かが必要である。シャノンの理論は、意味を除外したと言われているが、意味も含めた伝達の理論が作られることが期待されている。シャノンの死は、ちょうどそのような新しいコミュニケーション観を作るべき時代が来たというひとつの信号のように思う。シャノンの理論は、単独で動くコンピュータだけではなく、コンピュータのネットワークであるインターネットまで、全ての根幹を支える原理であった。

 これからは、さらに進化形であるユビキタス−−コンピュータがいたるところに遍在する−−が訪れようとしている現在、意味の伝達も視野におさめた情報理論に新しく変革されなければならないのではないか。この変革には、コンピュータを扱う情報科学者ばかりではなく、人間の言葉を扱う言語学者、コミュニケーション学者、動物を研究する研究者、さらにコミュニケーションの中で生活している市民自身が関われるような仕組みが必要だろう。

 今回、新しいコラムニストの一人となるにあたって、シャノンを取り上げたのは、ことばやコミュニケーションに関わる本を出す出版社の経営者であり、編集者でもある人間として、私の立脚点を明らかにしておきたかったからである。

 それにしても、シャノンの名著『コミュニケーションの数学的理論』(日本語訳)が、品切れで、公立・大学図書館にもほとんどはいっておらず、簡単に読もうと思っても読める状態にないことは、日本の本の世界の残念な状況の一例である。

 最後になったが、シャノン博士の冥福を祈りたい。